ホワイト・デーの騒乱 






「わたし、怪盗さんが大好きです。これ、受け取って下さいD」
「大和撫子……」
 亜麻色の髪が美しい女子高生と品のある青年の間にあるのは、可愛らしくラッピングされた小さな箱。
 中におさめられているのは、なにかと問わずともわかる、あふれる愛がこもった甘い甘いチョコレート。
 女子高生の大きな瞳は、ほんの少しの不安とそれを上回る期待に淡くうるみ。
 青年は、恋する相手からの贈り物を拒否する言葉など持たず。
 ピンク色のリボンを飾られた小箱は。
 少女の手から青年の手に…………

   * * *

「ぬふふぅぅぅ、大和撫子からの愛のめっせーじぃぃぃぃ」
 ある晴れた朝、『東山』と表札のかかったマンションの一室で、ピンクのリボンがかかった小箱を前にうっとりにやにや笑うあやしい男がひとり存在していた。
 小箱は、光がさんさんと降りそそぐ窓辺のチェストの上にうやうやしく置かれ、それを思う存分眺める専用の椅子まで設置しているありさまであった。
「きっもち悪いヤツだな、フレイ! その馬鹿笑いやめんかっ!」
 その男の後ろから、前髪を不自然に伸ばした子供がひとり心底嫌そうにがなり、手にした消しゴムを『フレイ』と呼んだ男めがけて投げつけた。消しゴムは後頭部に綺麗に命中したが、やはりそんなつつましやかな衝撃程度では彼を現実世界に呼び戻せはしないようであった。
 フレイは両手で両頬を挟みこみながら、小箱を前にして右に左にゆぅらゆぅらと揺れてにやけさがっている。華奢なデザインをした椅子の足に、そろそろ変な歪みがつきそうであった。いや、もうついてしまっているだろう。誰の椅子だと思ってるんだとの意見もいい加減虚しくて言えやしないほどにその椅子は彼専用になって久しかった。
「お前、いい加減飽きないな。一ヶ月もそうやってたらさすがに飽きるぞ」
 見てる方は飽き飽きだ! と子供――ヘイムダルはひとりで叫ぶが、やはりフレイに変化はなかった。
 ある意味、一ヶ月も前のバレンタイン・デーに起きた万にひとつ億にひとつの奇蹟を思い出しては、心底幸福そうに笑える目の前の男が羨ましくも感じられそうだ。おのれもこんな性格だったら人生もっと楽しかっただろう。
 と言っても、いい年をした男の気色の悪い笑みは直視に耐えない。
 塾の宿題に行き詰ったストレスをフレイにぶつけるのにも飽きた、どうせ変化なんかあるわけないのだし。
 とばかりにヘイムダルは部屋の反対側へと視線をやって、ふと目に留めたのは壁にかけられたカレンダー。
「それはそうとフレイ。そのチョコレート、あの……ややややヤマトナデシコからバレンタインの日にもらったんだろう。この国じゃぁ、三月十四日にバレンタイン・デーの返答とお返しをするらしいけど、なにか考えてるのか?」
『あの変な女』とは言えずなにやらどもりつっかえしてしまったが、ふと気になってしまったのだから仕方ない。よせばいいのにヘイムダルは言い切った。なにせ、三月十四日は明日なのだ。
 そしてこの目の前の男は、どこかがスッポリ抜け落ちる男なのだ。抜け落ちたままで三月十四日が過ぎた場合、フレイがその事実に気がついた時の方が面倒くさそうだ。ヘイムダルはどちらかと言うと、面倒ごとは先に片付けてしまいたいタイプであった。
 案の定、フレイは『ホワイト・デー』の存在を知らなかったらしい。
「ぬな?! お返しとな! このフレイ一生の不覚! なんにも考えてなかったぞぃっ」
 そうだよこいつはこーいうヤツだよ、とヘイムダルは再び宿題の上へと視線をやりながら頭の隅で考える。どうせ次の発想も予想済みだ。
「大和撫子からの愛の告白への返答などひとつしかないっ。明日は大和撫子の父上に結婚のご報告なのだ!」
 をいをい『了承』と『交際』の工程がまるっと抜けてるじゃないか。
 ヘイムダルの予想とフレイの発言は大筋ではあっていたけれど、彼の頭の浮かれ具合を考慮していなかった。手順がすっかりとホップステップでジャンプ状態である。
「よぉぉぉっし! 景気づけに、大和撫子のチョコレートを食べるのだ!」
 ひとりで奇妙に盛り上がっているフレイはようやっと小箱を開封し、中に入っていた三粒のトリュフを口にしたのだが……
「……まゆらちゃんの愛はちょっとパサモフするのだぞぃ」
 少しばかり肩を落として、悲しげにもぞもぞと口を動かした。
 ――そりゃぁ、一ヶ月も陽のあたる窓辺にご丁寧に飾っていりゃぁ質も落ちるわな。
 とのつっこみも控えてやろうとヘイムダルが考えるほどに、彼は悲しそうであった。
 そんなフレイの様子を眺めながらヘイムダルは考える。
 あの女は一体どんな含みを持ってこいつにチョコレートなんぞを与えたのだろう??
『それもこれもロキの陰謀か?!』
 と考えるところがヘイムダルらしいホップステップでジャンプな発想具合であった。

   * * *

 案外と律儀と言うよりかは少しばかりプレゼント魔も入っているロキであるので、三月十四日にはもちろんお返しが用意されていた。
「可愛い手帳v」
 ロキは、まゆらと玲也に色違いの手帳を見繕っていた。淡い若草色に染められた革の表紙に銀色の留め具がアクセントになっている、探偵に必須の小道具である探偵手帳。中身もたっぷりと書き込めるようになっていた。
 その手帳を受け取ったまゆらは闇野の心づくしであるベリー・パイをふくふくとした笑顔で攻略しつつ、ふとあることを思い出した。
「そう言えばバレンタインの日にね、偶然怪盗さんにあったんだよ」
「へぇ」
 まさかバレンタインのチョコレートをねだるつもりで姿をあらわしたのじゃぁないのかと勘ぐってしまったが、どうやら違うらしかった。
「でね、ちょうどパパ用のチョコレート持ってたから怪盗さんにあげたら、すっごい驚いてたの。バレンタインって言葉も知らなかったんだって」
『最近商店街でやたらと『バレンタイン』の言葉が踊っていたがなんなのだろう』とか思ってたらしいのね。
 まゆらはのんきなもので、ちゃくちゃくとパイを攻略している。
「ふ〜〜〜〜ん。まゆらってば、あのバ怪盗のこと好きなんだ?」
「大好きだよ。だって、探偵には宿敵の怪盗がいなくっちゃ盛り上がらないじゃない! これからもがんばって怪盗してもらわなきゃ。応援してますって意思表示なの」
 まゆらはなんとも屈託のない笑顔であった。彼女にとってのフレイとは『職業・怪盗』以外の価値はないのだ。
 ……ある意味フレイが不憫になるロキではあったが、彼女はのんきな上にのんきすぎる。その不用意な行動がどんな勘違いと騒動を巻き起こすのか、ちっとも考えていないに決まっている。
 ロキは、定位置で頬杖をつきながら彼女の姿を斜めに眺めていたのだが……
「ねぇまゆら、今日は泊まっていきなよ」
 ふいにそんな言葉を口にした。
「でも、明日は学校なんだけど??」
『泊まっていけ』なんて、ロキにしては珍しい上に珍しい言葉を贈られて、まゆらは細い銀のフォークを動かす手をとめてきょとんとした顔を向けた。本当に、この状況をとことんわかっていないらしい。
 ロキはにこりと笑った。完璧な営業用スマイルの中にほんの少しの親しみをわざと混ぜた、対まゆら用の笑みだ。別名・まゆら丸め込め用スマイル(身内版)。
「ここから学校に行ったらイイじゃない。前に、チェスをやってみたいって言ってたでしょ。今日一日かけて、ボクが手取り足取り教えてあげよう」
 手取り足と……なんかロキ君、時折妙に年寄りめいてると言うかエロくさい言葉使うよね。
 と思いつつも、『面倒くさい』の一言でのらりくらりと拒否されていた昨年末からのおねだりがロキの気まぐれによって叶うのならお泊りを躊躇う必要なんかどこにあるだろうか。いいや、あるわけない。
「言っとくけど、もう二度とこんな気まぐれは起こさないからね」
 そんな駄目押しをされるまでもなく、まゆらはウキウキとした考えにおぼれかけていた。
 チェスまでできる美少女探偵。なんて理知的! なんてカッコイイ! なんて素敵! これは是非とも実現させなければならない。
「うん、泊まってく♪」
「じゃぁ、それ食べ終わったら着替えとか明日の教科書とか取っといで。ボクもちょっとばかし用事を片付けてくるから」
 無邪気に音符を飛ばして了承するまゆらへとにこやかな笑みを向けながら、ロキは胸中であえて口にしなかった言葉を補足する。
 ――あんのバ怪盗を向こう一ヶ月足腰立たないようにする用事が済んでから、だけど。
 ヘイムダルはフレイの思考を完全には読みきれなかったが、ロキには充分にわかったらしい。
 先手を打って打って打ちまくりを躊躇いもしない人物であるし、その思考と行動をとめられる者もそこにはいないのだし、フレイの未来はノルン三姉妹が予言するまでもなく決定してしまったようだ。
 そんな物騒な考えをしているなど微塵も感じさせず、ロキは無邪気なまゆらにあわせるかのようににこにこと笑う。
『バ怪盗』と呼んで憚らないフレイと同レベルの思考だとロキにつっこむ人物がいなかったのはロキにとって幸いであったのか。
 そうして物騒なホワイト・デーは、表面上だけ穏やかに過ぎそうなのであった。




妙な単語が花盛りなのに、色気のいの字もない探偵とその助手でした。