夜になれば安っぽい電飾がチカチカと瞬くであろう虚飾に彩られた猥雑な通りも、早朝のま白い光に照らされていれば嘘っぽさが五割り増しだ。
 その通りの隅にある、とうに店主もいない廃屋状態のバーの前に、なんともその場にそぐわない子供が存在していた。
 上質の黒のコートに、真っ白なブラウス。ダークレッドのリボンタイ。普通の子供には思えない、大人びた装いであった。
 その子供はためらいもせずにそこここに転がされた、ほこりを厚くかぶったガラクタをまたいで屋内へと進む。じゃりじゃりとかすかに音を立てるのは、割れた窓ガラスやビンの破片を革靴が踏みしめるからだ。
 その姿に誰もが眉をひそめるだろう。どうして子供がこんなところに……? そして勝手に納得するだろう、この年齢の子供の冒険心か、はたまた早朝かくれんぼの途中なのだろう、と。
 子供らしくない光を帯びた少年の目に気がつかなければ、彼の存在など通りすがりの者達の記憶からはすぐに消えてしまう。この通りはそんな場所なのだ。
 少年は、割れてしまった電球の残骸が天井にしがみつくように等間隔で並ぶ短い廊下を渡り、バーのホールへと入っても、まだまっすぐに進む。
 そして、突き当たりのカウンターの奥にある、酒瓶の残骸とほこりだけがある棚へと真向かう。腰に片手をあてた、挑発的な態度で。
「やっぱりここだったんだね」
 その言葉に反応したのは、棚の奥の奥、半分割れた酒瓶の影。そこにひっそりと無害な無機物の顔をして隠れていた、年代物の小さな銀のボンボニエール。
 その蓋に施された花の意匠が淡く輝いたかと思うと、ぱかりと勢い良く蓋が開き、中身が少年に向けて放出される。内におさまっていたのは害のない金平糖でもキャンディーでもなく、彼を滅ぼさんと欲する、黒い魔。
 少年は、襲い掛かってくる影にも似た存在を前にしても少しもひるまず、意識を澄ませ、高らかに召還する。

『レイヴァテイン――!』

 月の光を秘めたかのような、彼の魔杖を。
 けれども、彼の手に現れた杖を本体であるボンボニエールに向けて振り下ろすよりも先に、廊下の奥からあがったのは……悲鳴。
「きゃぁぁぁぁっ!」
 少年は、するどく視線を翻す。
「まゆらッ?!」







 危機察知能力とは動物の本能 







 

 ま白い光に包まれていた朝もやや過ぎると、穏やかな午前の色にかわる。
 中天を目指してゆっくりと太陽はのぼり、スズメのさえずりが似合うなんとも穏やかな燕雀探偵社。
 その、いつもの書斎には、不機嫌を通り越して無表情になった少年探偵と。
 ソファに座る勇気もなく、小さくちぢこまって立ちすくんでいる、おしかけ探偵助手の少女。
「まゆら、ボクは言ったはずだよ。今回の事件は『とってもタチが悪い』からココで待っていてって」
 現場から、彼女の無事を確認する言葉以外は一言も口を聞かずにずんずんと歩いて帰ってきた探偵社のロキの定位置。
 その場所に腰掛けてからも、実に三十分もロキは口を開かなかった。玄関で出迎えた闇野が、いつもの『お茶をお入れします』の言葉を封印するくらいの無表情で、どれだけ彼が怒っているのかがわかろうものだ。
 もちろん、言いつけを守らなかったまゆらにもわかっている。彼が心底怒っているのだと。
「でもでもっ。わたし、ちゃんと役に立ったでしょ?」
 ぼそぼそと反論する言葉に、ロキはちらりと視線をくれてやるだけで返答した。その冷たい態度と表情に、まゆらは再び口をつぐむしかない。
 たしかに彼女がいなければ、ボンボニエールに宿っていた魔に操られていた人間が隠れていた――しかも腕力自慢の男がふたりもいたなどとわからずに、不意打ちをつかれていたところであった。彼女はそう言う意味ではいつも『鼻が利く』し『役に立つ』
 だからと言って、毎度毎度そんな役割をあてがうわけにもいかないし、今日も『お手柄だ』なんてほめるつもりもなかった。自分には囮役なんて必要ないとロキは考えているし、実際必要ないのだから。
 今日は、まゆらに同行していた黒い犬に擬態した魔狼フェンリルが、彼女の窮地に割り込んでくれた為に大事には至らなかった。それも、毎度毎度そんなわけにはいかないだろう。
 いくらロキやその周囲の者達が人ならざる力を持っていても、なにごとにも『絶対の自信』なんてないし持つ気もない。危険や不確定要素はなるだけ減らしてことにあたりたい。この、十全に力をふるえない子供の肉体であれば尚のこと。
 そう考えているのに、まゆらはいつもそんな配慮を台無しにしてくれるのだ、
『だってロキ君がミステリーを独り占めするんだもん! わたし、ロキ君の助手なのに〜〜っ』
 ……そんな言葉で。
「危機察知能力にも回避能力にも疎いくせに、わざわざキケンに首を突っ込みに行くのは自殺行為だって言ってるんだ」
 いつもは誰よりも鈍感のくせに。どうして彼女はこんなにも『キケン』に首を突っ込みたがるのだろう。『事件』のにおいを嗅ぎ取ってくるのだろう。
 ロキは、
「……ごもっともです」
 小さくちぢこまったままどうすることもできなくてしょぼんと突っ立っているまゆらを眺めながら内心で小さくため息をつく。
 ロキの背後にある大きな窓から惜しげもなく降り注ぐ午前の光の白さとは似ても似つかない沈黙が降り積む。
「挙句の果てには、言いつけさえもちゃんと守らないし」
 そんな彼女の行動を完全にとめられもしないおのれの方が、実は非力なのではないかと感じてしまう。
 なんとも口惜しい。彼女が少しでも傷つけば、海よりも深く落ち込むだろう自身のありようを予想できるだけに、悔しい。
 ロキはまゆらとは反対側の壁に向かって長いため息を吐き出して目を瞑る。
 口惜しかったり悔しかったりするのも、実は、終わってみれば些細な感情に成り下がる。
 今一番腹がたっているのは、まゆらが机の前でも、ソファにでもなく、扉に近い壁に背を向けて立ち尽くしていること。その一点。
 ……どうしてそんなにも距離を取るかな、キミは。
 そう言ってしまいたいけれど、言えるわけもない。いつもは危機のひとつも察知できないくせに、今ばかりはどうして。そう言いたい欲求を、ロキは目を瞑ることで抑えていたのだけれど。
 我慢の限界って物は神様にだってある。
 ロキは、先の静かな怒りが嘘ででもあるかのように微笑んだ。
「しょうがないなぁ」
 いっそ穏やかな、または晴れやかな花のような笑みに、まゆらは目を真ん丸くして……ついで、ロキがいつものように折れてくれたのだと喜んだ。『しょうがないなぁ』――苦笑やあきれが混じった言葉で折れてくれたのだと。
「でもね、これからはちゃんとボクの言いつけを守ること!」
「うん、ロキ君D」
 機嫌を直してくれたのだと、まゆらの語尾にはハートマークがくっついた。
「ホントのホントにちゃんと守るの?」
 まゆらの言葉の軽さに「ホントかなぁ?」と疑ってくるのもいつものロキらしくて。
「ホントだよぉ、ロキ君っ」
 思わず必死に言い募ってしまう、まゆら。
「じゃぁ、そんな日陰なんかじゃなくて、こっちおいでよ」
 え! それはヤだっ。
 まゆらはなぜか拒絶する。ロキがずっと発散していた無言の怒りは、すぐに忘れられるものではないからだ。
 のだが、今度は一転、
「こちらからだと暗くて、まゆらの顔が見えないよ?」
 珍しいロキの気弱な声色に、まゆらはよろろっとよろめいたかと思うと、
「ボクの言いつけは守るんだよネ?」
 追加の催促を受けては仕方がない、じりじりと机ににじり寄りはじめた。
 ソファの後ろを通り、机のまん前までにじり寄る。子供のロキでは、椅子から立ち上がって机に乗ってめいっぱい手を伸ばしでもしない限り届かない場所。大きな書斎机と言う頑丈な障害物の存在がまゆらを守ってくれる位置。
「まゆら、こっちおいで」
 そんな位置までにじり寄ったのに、それでは充分ではないのか、ロキが指し示したのはおのれの左側。
「怪我がないかちゃんと確かめたいんだ」
 扉からは一番遠い、壁側。
「まーゆーらー?」
 気弱な声色に混じった懇願の色に、まゆらはようやっと警戒心を解きほぐし、えへへと笑いながらロキが指し示す位置に立つ。もう怒ってないんだね、こんな弱気で甘えっ子なロキ君はじめてー。なんて思いながら。
 ロキの真左ではなくて、彼が身を起こして一歩踏み出し手を伸ばせば届く微妙な位置に立つのは、人と話をするには普通の距離。そこにも窓から降り注ぐ午前の光は十二分に落ちていて、怪我ひとつないまゆらの白い手を輝かせた。
 まゆらに怪我がないと認めたロキは満足げに頷いた。
「じゃぁ、試験だ。キミがホントにボクの言いつけを守って、なおかつ優秀な探偵助手かどうかのネ」
「え、試験?!」
「ソ。試験」
 そんなの聞いてないよロキ君の雰囲気にだまされた〜〜っ。
 まゆらは喚くが、
「しばらく目をつむってそこに立っといで」
 そんな簡単な言いつけであったので、意表をつかれた。
 ついで「な〜んだ簡単じゃない」と安請け合いして目を閉じる。
 窓から降り注ぐ午前の光はぽかぽかして気持ちがいいし、これでホントの意味でロキ君の怒りがおさまるんなら安いものよね。そんな心境。
 であったので。
 ロキがさっと身を起こし、そのままの勢いで机に片膝をついて伸び上がったかと思うとあっと言う間にまゆらに口付けた時にもなんの危機察知もできなくて。
 まゆらを守ってくれる盾であったはずの書斎机は、その時ばかりは身長差をなくす為のたんなる踏み台。あっさりとまゆらを裏切ってロキの味方になるなんて予想もしてなくて。
「〜〜〜〜〜っ?!」
 迂闊にも、たっぷりと十秒も硬直した後も、まゆらは言葉にもならない叫びを発するしかできない。
 その間にロキときたら、悪戯っぽい仕草でおのれの唇をぺろりと舐めていた。『不敵』の表現がぴったりの表情で、まさしく余裕綽々。
「なってないなぁ、まゆら。それじゃぁ探偵失格。危機察知能力も探偵の基本だよ?」
「えぇぇぇっそんなぁっ。再試験っリベンジっ!」
 ……だからソレが『危機察知能力に欠けてる』って言うんだ。
 とロキは考えるが、まぁしばらくこのネタで遊べそうだと考え直す。
 ちなみに、もしまゆらが寸前で気がついたとしても『言いつけを守れない助手失格』の判定で結果は同じこと。
 もしまゆらに野性的な危機察知能力があったとしても、相手が相手では無力なもののようで。





ロキさん、キス魔への第一幕(笑)。