Pteron 

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 暗い、暗い場所で、誰かがすすり泣いている。
 悲しい。寂しい。
 そのすすり泣きは、聞いている方にも途方もない悲しさと寂しさを引き起こす。

『かわいそうに』
 わたしは、あなたを慰めてあげたくて仕方ない。
『あなたは、幸せになりたいだけだよね……』
 わたしは、あなたに言葉を贈りたくて仕方がないのに――胸の中に生まれた冷たい感触の痛みに、なにも言えない。それがまた……悲しい。

   ***

 百貨店の上階には、大概、多目的使用の為の大部屋があるものだ。
 今週の催し物は、近隣の街にある画廊が特別展示会を打っていた。
 平日の午後であるからか、はたまた投資目的にもなりそうでない無名の作品ばかりを展示しているからか、閲覧者はまばらであった。
 部屋の中央に灰色のパーテーションを置き、壁のぐるりと、パーテーションの表裏に絵を飾っている。
 大小あわせて二十点程度であろうか。これが、都心部の有名画廊であればもう少し気合も入ろうものだが、少し外れた地域の画廊ならこんなものだろう。
 そんな、ぱっとしない展示会場に、どこからどうみても小学生にしか見えない二人組みが混じっていた。
 絵画の展示会と言えば、出入り口で名前と住所の記帳を求められるものだが、受付嬢もその二人組みにそれを求めはしない。かわりに、不用意に作品に触りはしないか、いたずらでもしないかとはらはらしてふたりの挙動を監視しているくらいである。
 二人組みの片割れは、近隣にある有名小学校の制服を身にまとった、おっとりとした顔立ちの女の子だ。
 あの小学校は、寄宿舎もあるくらいのお金持ち学校で、しつけにも厳しいと有名だから大丈夫だろうけど……と、受付嬢は頭の隅で考える。
 もうひとりは、子供にしては大人びた装いの男の子だった。
 黒いコートに、真っ白なブラウス。胸元で優雅な結び目を作ったリボンの端が、少年が動くのにあわせてひらひらと揺れていた。リボンの結び目にさりげなく留められたのは、ガーネットのアンティーク細工。細い金の鎖が光を弾いている。
 絵を眺める為にほんの少し上向き加減の横顔のラインや、子供特有の柔らかな髪の下にある深い緑色の目は、監視しているはずの若い受付嬢が時折見惚れてしまうものがある。
『アタシってもしかしなくてもショタ??』
 などと受付嬢が内心でダラダラと冷や汗をかいているなど、その二人組みは知るはずもなかった。
「ロキ様……ここのはずですけど……」
 自信なさげに呟いたのは、髪に大きなリボンを飾った女の子だ。女の子は、ロキと呼んだ男の子の左腕にしがみつき、その背中に隠れるようにして絵を見ていた。
 彼が見上げていたのは、彼女にとってはおどろおどろしく見える、ぼやけたタッチの沼地の風景画。ところどころに花の赤や黄色、木々の緑があったものの、深いよどみをあらわしたその絵は、明るい色やふんわりとした絵が好きな少女には陰気以外には見えないものであった。
「レイヤが見た夢の中の絵は、女神だったんだね?」
 文句なく人並み以上に可愛らしい少女にぎゅっとしがみつかれていてもなんの感慨もないのか、ロキは少女に確認する。
「頭の上にお星様を飾った、綺麗な女神様だったです」
 彼らがこんな場所にいる理由は、大島玲也がここ一週間ばかり同じ夢を見ていたからであった。
 ――金色の額縁におさまった、頭上に星を戴いた女神の絵が、暗い場所で泣いている夢。舞い散る白い羽すら物悲しくて、目が覚めるといつも泣いている自分に気付くのだと玲也は続けた。
 そして、今朝の新聞に入っていた、この展示会の広告を見た瞬間、彼女の中で夢と展示会が結びついたらしい。
 彼女の直感を子供の戯言、彼女の夢をただの夢だとロキには言えなかった。
 何故なら、玲也すら知らない彼女の正体は――北欧伝承に名前の挙がる、美と豊穣の女神フレイヤ。彼女の直感はいつも正しく、彼女の夢は予知夢に他ならないのだ。
「でも、女神様の絵、見当たらないです……」
 きょろきょろと周りを見渡すが、それらしい絵が見当たらずに、玲也は心細げな声を出す。
「あれじゃない?」
 杖をついた小柄な老人が立ち去ったそこに、それらしい絵があった。老人の背中にすっかりと隠れてしまうほどに小さな絵だったので今まで気がつかなかったらしい。
「そうです、この女神様ですっ」
 金色の額縁におさまっているのは、白い薄絹の衣装をまとった女性の絵であった。
 玲也の言う通り、白くなめらかな額に小さな星が輝いていたが、その星の輝きによって顔の細部ははっきりと描かれていない、穏やかな微笑をたたえた口元が印象的な不思議な絵。
 見る者は、そこに大切な女性を連想するだろう。例えば、母親や、恋人や、姉妹や娘の顔を……。
 その女性が、蓮と思われる花が咲いている川辺に片膝をつき、相対するこちらへとたおやかに両手を広げている。
 その両腕の動きをあらわしているのか、白い燐光で風の流れが描かれていた。見ようによっては腕から生えた白い翼にも見えた。
「なるほど、だから『ソティスの翼』なんだ」
 ロキは、絵の下に貼られた小さなプレートに視線をやって納得する。この絵には直接翼や羽を連想させるものは描かれていないが、名前をつけた者は感性のするどい人であったらしい。
 絵の左隅に書きなぐったサインがあったが、画家名ははっきりとしていないのか、『不明』となっているのもまた奇妙な印象を強くした。
「ロキ様、ソティスってなんですか?」
「ソティスは、エジプト神話に出てくる女神。大犬座の一等星シリウスと同一視されていて、大抵は星を戴いた女性の姿で描かれる。シリウスはナイル川の氾濫を告げる星と言われていたから、ソティスは豊穣の女神になる」
「川が氾濫するのに、良い女神様ですか??」
 玲也がこっくりと小首を傾げた。
「ナイル川が氾濫した後は、栄養がたっぷりはいった土が残るんだ。ナイル川が氾濫しないと、逆に作物なんかがちゃんと成長しないんだよ」
「ふーん、そうですか。ひとつ勉強になりましたですっ」
 ロキ様はイロイロなこと知ってるですねぇ、と玲也はここに来てはじめて笑ったが、ロキはその笑顔を内心複雑な思いで見ていた。エジプトの豊穣の女神の絵を見に来た、北欧伝承の豊穣の女神。こんな場面に立ち会うなど今後もあるだろうか。
「あれ? 探偵じゃないか」
 ふと声をかけられて、ロキは背後を振り返った。そこには、見慣れた人物が立っていた。なかなかに端正な面差しに、陽気な口元の微妙なバランスを持った、高校のブレザー制服を着た男だ。
「……光ちゃん。ここも光ちゃんの画廊? ホントに手広いねぇ」
「俺の画廊じゃなくてオヤジの画廊。まぁ、最近は画廊経営にもあきて閉店するつもりだ〜なんて言ってたけどな。今日の展示会は、最後の花道ってわけだな」
 コバンザメのように『光ちゃん』と呼ばれた垣ノ内光太郎の後ろに張り付いていた貧相な顔の責任者がぎょっとした。そんな話、これっぽちも聞いてないアルヨ、そんな表情である。
「光ちゃん、後ろに死人が発生してるヨ……」
「あ、悪りぃ、オフレコ」
 ちっとも悪く思っていない仕草で片手を挙げおのれが漏らした情報を闇に葬ろうとしているが、ロキはその様子に『絶対わざとだ』と確信する。後ろにできあがっている死体は、どう考えても光太郎の嫌いなタイプの人間であるようだからだ。金にカツカツして、他人を見下す態度が張り付いているが、金を持った相手と権力者にはこびへつらう。品もなにもない粗野で毛並みの悪い身替わりだけははやいキツネ。
 光太郎は、先の発言がどんな影響を及ぼすかなんてちっとも感じていない鷹揚とした態度のままである。ある意味、俺様皇帝を地でいく男だ。
「なんだ、この絵気に入ったのか? なんともお目が高いねぇ」
 探偵になら端数は負けてやるよ、お前んちの階段踊り場になんか丁度良い感じじゃないか? 
 と、自分の店ではないと言ったその口で軽く交渉を持ちかけてくるのだからあなどれない相手である。後ろで、やや復活した死体、もといこの展示会の責任者が冷や汗をかきながら揉み手で『若〜〜』と焦っているのなどお構いなしである。
 そんなふたりのやり取りを真剣な面持ちで見ていた玲也が、突然両手を胸元で握り締めた格好で話に割って入った。
「光太郎さんっ。女神様の絵、レイヤ連れて帰りたいですっ。お金、いくらいるですか??」
 いきなりなその発言に、目を丸くしたのは男どもだ。
「れ……レイヤ??」
「に……二十二万だけど……って??」
 子供には到底縁のない金額ではあったが、玲也はほっとした表情をみせた。さっそく、お気に入りのパンダマークのついた財布を取り出す。
「良かったです。レイヤ、二十五万円持ってるです」
 今度は目を丸くする、ではおさまらない若旦那。大慌てで手を振った。
「いやぁ、さすがにお嬢には売れないなぁ。せめて保護者を通してもらわないと……」
 責任者の冷や汗などは軽く放っておけるが、玲也の言葉は無視できない光太郎である。その玲也の真剣な表情を前にしては、光太郎が冷や汗をかく番だ。
「なら、どうしてボクならいいわけ?」
 ボクだって子供なのにさぁ。と、拗ねてみる、ロキ。
「ヤミノ君を通してならって子供扱いのセリフはないわけ?」
「お前の場合はそんな発言は今更だろっ。探偵は探偵だから、それ以外のナニモノでもないし、な」
 だいたいお前、子供だとか言うんなら小学校にでも行けよ、と続けられ、ロキは肩をすくめるしかできなかった。反論の余地もないし、そもそも光太郎に反論するだけ徒労にしかならない。
 そんな彼らのやり取りに、更に割って入った人物がいた。
「この絵、二十二万ですか。実はワシもこの絵が昨日から気になっとりましてなぁ。これは本気で考えてみようかなぁ」
 六十代後半だろうか、横に広く縦に短い体型の男が目を細めて『ソティスの翼』を眺めていた。
 地味な生地で仕立てたチョッキの金ボタンをきちんと留めているが、そのボタンははじけ飛ぶ瞬間を今か今かと待ち構えているようだ。金ボタンの下には、旨い物をたらふく食べて蓄えた脂肪と贅肉がぱんぱんにつまっていて実に重そうである。
 フロア責任者が飛ぶようにして男にへばりつく。小金持ちそうな服装、小金持ちそうな体型。そして明言された購買意欲に、これはきちんとした客だと内心小躍りした。
 金持ちの餓鬼どもの会話にはついていけない平々凡々の稼ぎの自分。画廊は絵を売ってなんぼの世界。店ごとリストラされる運命なら、ここで契約にこぎつけて最後の給料に少しでも上乗せしてもらわなければ割に合わない。そんな思惑が『透けて』どころかありありとにじみ出ていた。
「……女神様、あのおじさんの家に行くですか?」
 受付横の長椅子に腰掛け、後日交渉日を設けましょうと話し合っている責任者と老人の様子を、複雑な表情で玲也は見つめた。
「うーん、まぁ、すぐに売買が成立するってのもないだろうし」
 なんて不確定な慰め方をするしかできないロキ。
『ソティスの翼』を眺めやる老人の横顔がうっとりと夢見るような表情であったことや裕福そうな服装を考えるに、これは交渉が成立するかもしれないとの予感もあった。
 二十二万円は一般的な子供にとっては縁の遠い金額であるが、ある程度の大人にとってはさほどの額ではないからだ。
「いやぁ、実は、若い時分に憧れた映画女優にそっくりな絵でしてなぁ……」
 掻く髪もない頭をがしがしと照れ隠しの意味で掻いている老人と責任者との会話がもれてくる。
「おっさんのくせに頬を赤らめるなっつの」
 光太郎がそのやりとりに毒づく。
 その傍らでは、ロキが賛同の意味で何度もうなずいていた。
 頬を赤らめるのなんて、女の子以外がするのは猥褻物だと考えているふたりであった。





中編連載物です。しばし原作風味の事件簿にお付き合い下さい。
第2話のキーワードは『絵画』『急死』『盗難事件』