Pteron 

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「ボク、神サマなのに……泥棒に入られるなんて……泥棒の神サマに負けるなんて……自信ソーシツ……」
 薄い青のグラデーションに染め上げられた空に、白く淡い雲がゆったりとたなびいている、良い天気。
 そんな爽やかな朝に似つかわしくない、鬱陶しい言葉と魂を口から吐き出しているのは、自称・悪戯と欺瞞の神様であった子供だ。
 もそもそと朝食のパンケーキを食べているが、今日に限っては闇野が通販で個人養蜂家から取り寄せた蜂蜜をたっぷりとかけたパンケーキも、とっときの紅茶もおいしく感じられなかった。
 しゃっきりとしたレタスやキュウリの緑も、鮮やかなプチトマトの赤色も半減して見える。
 味噌汁に納豆御飯をリクエストしていればよかったかもと昨日の自分に少しばかり文句を言いたい気分だ。
 あわせて――『急性心筋梗塞』――この言葉が少しばかり可愛らしく感じられてならない。嫌な単語には違いないが、色味には影響がなく、且つ味が半分は残る単語であったからだ。
「ロキ様、新山警部に連絡しておきましょうか?」
「ヤだ。ますみちゃんに笑われるのなんて」
 誰も盗難事件を笑ったりしませんよ、ロキ様。
 なんて正論は、この落ち込んでいる少年探偵の耳には届かないだろう。耳から『落ち込みの小さな神様』がぞろぞろと列を作り、ロキの肩や頭の上で陰気なダンスを踊っているのが見えるようだ。
 闇野はさりげなくロキの肩をはたいてから、その手を握りこぶしにした。
「ロキ様、元気出して下さい! この闇野、ロキ様の為にその泥棒さんを捕まえてみせますっ! ホラ兄さん、現場で匂いを嗅いで犯人追跡ですよ!」
「だからオレは犬じゃないってのッ!」
「ヤミノ君とフェンリルが泥棒を捕まえるなんて危ないからヤメナサイ。……って言うか、ボク、探偵か。よし、恐れ多くも邪神のロキ様から絵をがめた泥棒はボクが捕まえる!」
 …………自信を喪失するのもはやければ、立ち直りもはやい神様でもあった。

   ***

「異常は……見つからないなぁ」
 朝食も身支度も終えれば、探偵としてのお仕事開始。
 一階と二階の狭間、階段の踊り場には、館の主と、その館の主夫と、狼もとい飼い犬に擬態した黒い犬が揃っていた。
 先に調べた勝手知ったる我が家の玄関もその他の部屋の窓にも、開いている箇所もなければ少しの異常も見受けられなかった。
 誰かが侵入した痕跡どころか、土のひとかけらもない。
 絨毯も手入れが行き届いていて、不自然に摺った跡さえない。
 まぁ、土のかけらでもあろうものなら、絨毯に変なヨレでもあろうものなら、家の掃除が趣味でプロの域に達しているハウスキーパー闇野が目ざとく発見しさっさと掃除をしかねないので、この屋敷内での犯罪の痕跡を探すのは至難のわざかもしれない。
 そんなことをつらつらと考えていても不毛なだけだ。ここは定石通り、事件発生現場に戻るのが正解だろう。
 と、三人は階段踊り場に揃っているわけだが、何度見ても、やはり、異常は見受けられない。
 背の高い闇野でも脚立を使わないと普通には外せない位置に絵を飾っていたはずなのだが、無理やりに絵を外した形跡も、壁紙の痛みもない。
 ただ、玄関を見下ろすようにして両手を広げていた女神だけがいない。
「やっぱりここは兄さんの出番ですよ! さぁ兄さん、泥棒さんの匂いを嗅いで追跡ですよ!」
「えぇーー。ヤだっつってんだろ。なんかお前、あのミステリー女に感化され……ヤだなぁダディ、ボク、悪口なんていってないよぉぉ??」
 なにやらひとりで盛り上がっている弟の姿は某女子高生の姿を髣髴とさせるものがあると思わずにいられないフェンリルであったが、途中で誰かさんのさめた視線に気がついて非常に焦る。
 本人がいくら否定しようとも、父親であるロキが例の女子高生を気に入っている事実はひっくり返りようがないとわかっているだけに、ちょっぴり身の危険を感じる長男であった。
 なにせ父親は、かの地では邪神と言われていた男なのだから……今は子供の姿であろうとも、あなどってはいけない……はず。恐らく。きっと。
「わぁぁぁい、タンテイケンなんてうーれしーなー。ダディといっしょだねー」
 白々しいまでの棒読みで喜んでから、フェンリルは現場の匂いを嗅ぎだした。その姿は、まさしく犬以外の何者でもなかった。
 閑古鳥鳴きまくりの陰気な探偵社と言えど、そこそこに依頼人が来るので、応接室にもなっている二階へと続くその階段にはさまざまな匂いが残っている。
 家の住人の匂い。入り浸っては上書きされていくまゆらの匂い。同じく三日とあけずにやってくる鳴神の匂い。玲也の匂い。今回の事件の依頼人代理である、光太郎の匂い。ずっと前に来た依頼人の匂い。最近来た依頼人の匂い……ひとつひとつ分別していっても、あやしい匂いは残っていなかった。
 けれども、とふと思う。あやしい匂いは残っていなかったけれど……
「……絵がひとりでに外に出て行ったって、ありかなぁ?」
「ひとりで??」
 ぽつんと呟かれたフェンリルの言葉を拾って、ロキは腕組みをして考える。
「ひとりで、ねぇ?」
「兄さん、実は風邪ひいてました、なんて今更言わないでしょうね?」
「なにを言う、今日はエンジン絶好調だぜ!」
 微妙に誰にもわからない返答を返しながらも、フェンリルは『絵がひとりで歩いて行った』匂いを無意識に辿っていた。
 絵は壁から離れて、ほんの少し床に引きずるようにして匂いを残しながら階段を下り、玄関へと向かっている。古臭い絵の具の匂いがずっと続いているのだから、ひとりでにふらふらと出歩くのが常の匂いではないだけに間違えようがないだろう。
「……昨日運び込んだ時の匂いでもないぜ」
 さっきからなにかとないがしろにされているのを根に持っているのか、ちらりと背の高い弟にねめつけるような視線を送って、フェンリルがぼそりと付け加える。
「とにかく、ここでうだうだしててもしょうがないから、匂いを追ってみよう。フェンリル、頼むよ」
 滅多に頼みごとなんてしないロキに頼られたからか、フェンリルは短い尻尾をフリフリ、弟に向けるのとはまったく違う表情にさっと変わると張り切って匂いを追い出したのであった。


 燕雀探偵社を出て、街中へと向かう。
 児童公園や商店街もこえて、町外れへとやって来た。かれこれ一時間は歩き続けているはずである。
 ロキはすっかりとくたびれていた。
『これだから子供の身体は嫌なんだ』
 途中からひとりでなにやらぶつくさと呟いていたが、このあたりになるともはや無言である。自信喪失も立ち直りもはやいが、体力切れもはやい神様であった。
「結構遠くまで来たんですねぇ、ソティスさんは」
「ボクは自分の出不精をまざまざと眼前に突きつけられた気持ちだヨ、ヤミノ君」
 ボク、こんなトコまで来たのはじめてかも。こんなトコもあるんだ。と呟きが続く。どこか虚脱しかかっている声色であった。
 そんな、虚脱した主の言葉に対する闇野の返答は
「そうですねぇ。ロキ様の出無精は筋金入りですからねぇ」
 であったので、とりあえず『ありがとう』なんて返してしまうロキであった。
 細い川の流れに、草の生えた土手。幅の狭い川にかかる小さな石橋。立ち枯れたような木がぽつんぽつんとある寂れた雰囲気を醸し出す地域が、この街の周辺にあったなんて知らなかった三人。
 見る風景が違えば空の色さえ違って見えるようで、朝はあんなにも良い天気であったのに、現在は空一面を薄い灰色の雲が覆い尽くしていた。吹き渡る風も心なしか温度が低かった。
「地蔵があったり、豆腐売りの自転車のおじさんでも通りかかれば、完璧『田舎の川沿い風景』だね」
 なんて変な先入観が思わずぽろりとでてしまうのは、闇野の言葉によって虚脱を突き抜けてしまったからなのだろうか。
 実際、東京都と言ってもほんの少し前までは田舎だったのだし。と、神様の基準である『昔』で考える。
「ロキ様駄目ですよ、田舎の風景なら畑もなくては」
「田んぼも必需品だよ、ダディ。駄菓子屋におばぁさん、夏祭りに屋台、みたいに、ちゃんとセットで揃ってなきゃ」
 燕雀探偵社の男どもは『日本の田舎の風景』に変なこだわりを持っているようでもあった。
 土手の下には、安っぽい瓦屋根の家がせせこましく立ち並び、所々にはトタン屋根も見えた。いつか崩れるのではないかと心配してしまいそうなぼろぼろのアパートや、長屋と言うのがぴったりな細長い建物もいくつか見受けられた。
 本当の田舎と違うのは、無駄に広く取られた庭や余裕のスペースなどは少しもなく、高い石垣や塀が細切れにその場所を分けていて、もちろん闇野やフェンリルの主張する『田畑』の存在などかけらもありはしない。
 上から見下ろしているからわかるものの、あそこに住人以外が迷い込めば簡単に迷路状態になるだろうと三人は感じた。
「ダディ、ここからあっちに向かってるよ」
 鼻の頭まで黒いフェンリルは、石橋の脇から土手下へと向かう道を、まさしく鼻で指し示す。
「では、迷路探検といくか」
 ロキの言葉に明るい返答でもって後をついていく闇野の後ろ姿を見下ろしながら、フェンリルは眉を――犬もとい狼であるので眉はないからあくまで比喩であるが――ひそめて、考える。
 ――児童公園のあたりから、絵の匂いと一緒に、ヒトの匂いがついてまわってるって、オヤジに言った方がいいのかな……
 でも、どこかで嗅いだことがあるような匂いなんだよな……ほんの少しだけ、ほんのわずかだけ、鼻先にふっと匂った匂い……残り香よりももっと頼りない匂い……
「でも、ま、絵はひとりでに出て行ったんだから、関係ないよな」
 絵は『ヒト』に持ち去られたんじゃなくて、勝手に出て行ったのだから……
 フェンリルはふたりの後を追いかける為に、走り出したのであった。





第4話のキーワードは『迷路』『攻撃』『探偵失踪』