上から見てもはっきりとわかる迷路状態の細い路地は、やはり中に一歩踏み込んでしまうとその複雑さ加減をありありと全面に押し出すものであった。
あの青い屋根を起点に現在位置を覚えておこうとしても、先の路地先では右手にあったそれが、今は左手にあったかと思うと次の瞬間には掻き消えてしまう。この通りは行けそうだと思えばそこは袋小路、なんてことも多々あった。
その路地を、フェンリルと言う探偵犬を先頭に、子供と青年が辿る。
彼らの位置把握能力は複雑な路地の真っ只中においても少しも狂うことなく、辿った道もきっちりと覚えていたが、今はひたすらに先導を追いかけるのに専念していれば良かった。
安っぽい建物ばかりがせせこましく立ち並ぶその界隈には似つかわしくない、上等のコートやスーツに身を包んだ二人組みが迷わずに道を辿る姿を見れば、誰もが奇異に思うだろう。
塀の上から一行を無言で見下ろす野良猫。不審者であるはずなのに怯えた視線を向ける飼い犬。
彼らの視線を捨て置いて、一行は青い瓦屋根をした、平屋作りの建物前へと辿り着いていた。
黄色っぽく古めかしい外壁。細長い作り。
長方形の一方に立て付けの悪いスチールのドアがあり、半開きになったそこからは廊下らしきものが奥へと向かって続いている。
その廊下の左右には、等間隔に木でできたドアが五つほど並んでいるのが見て取れた。はめ込まれた摺りガラスがぼんやり浮かび上がって見える。
左側中央のドアのそれにはダンボールでも貼り付けてあるのか、そこだけ黒く抜け落ちている。この長屋は、脛に傷を持つ者たちの住処であるようだ。
奥は薄暗くてよくわからないものの、狭い廊下をさらに狭くするように荷物が積み上げられていて、一層なにがあるのかわからなくさせていた。
「長屋……ですかね」
「紛れもない長屋だねぇ」
アパートとは口が裂けても言えない、ほこりっぽく貧相な建物。一月一万円、もしかしたら五千円の家賃を切るかもしれないその建物の奥へと向けて匂いが続いているとフェンリルは訴える。
「う〜〜、ほこりで鼻がひん曲がりそう……」
フェンリルは嫌々な気持ちを隠そうともせず、鼻にしわを寄せてふんっと息を吐き出す。本性も見た目も獣であるだけに、敏感な鼻が今は害になっていた。
うだうだしていても仕方ない。先と同じ台詞を飲み込み、ロキは半開きのドアを開け、長屋へと踏み込む。
なにせ『ソティスの翼』は譲り受けたわけでも買い取ったわけでもなく、正式な所有権は画廊――光太郎の父親にあるのだから。
二十二万円を弁償するつもりがないのなら『ほこりっぽいのなんてイヤ』なんていつもの我侭で放り出すわけには行かないし、依頼放棄をするわけにもいかない。探偵とは信用第一の職業なのだから。
なによりも、神を名乗っていたおのれの手の内での紛失なんてプライドが許さないだろう。
廊下の中央にぶら下がった、昼でも夜でもつけっぱなしのふるぼけた裸電球が照らす廊下を進み、フェンリルが
「ここだよ、ダディ」
黒い鼻で指し示したのは、一番奥のドア。
塗装が剥げた丸い取っ手をひねると、それはなんの抵抗もなく開いた。
通信教育で習った錠開けの腕前をご披露、とばかりに針金を手にスタンバイしていた闇野も拍子抜けするくらいのあっけなさであった。
大きく開け放った薄っぺらいドアの向こうにあったのは、日に焼けて色褪せた畳が敷き詰められた四畳一間。
すれて薄くなった青いカーテンに渋茶色の座布団。
押入れに入れられもせず部屋の隅に重ねられた布団に、小さな座卓、小ぶりな箪笥、安っぽい保温ポットなどの、一人身の生活感があふれた、部屋。
そして――壁にかけられた『ソティスの翼』
そんなもののいちいちを確認する暇もなく、ロキと闇野、フェンリルは、ドアを開けた瞬間に、膨れ上がり破裂するかのような水の固まりに襲われ、目を見張る。
自然現象では有りえない、紛れも無い『攻撃』
今までちらりとも感じ取れなかった濃い闇の気配を感じて肌がそそけたつ。
「ヤミノ君! フェンリル!」
危機を感知した条件反射ひとつで後退し、さっと左右に離れた闇野とフェンリルの立ち位置を視界の端で確認し、ロキは意識を澄ませるとおのれの魔杖を呼び出した。
彼の呼びかけに応じて彼の手にあらわれたのは、ロキがこの人の世で力をふるう鍵。
この世にはない物質、この世にはない力によって現存する、まさしく魔の杖。
三日月を模した部分に絡みつき、緩やかに揺れる布の先に下がった金色の輪が、この場には不似合いなほどに澄んだ音を響かせた。
それを手に、ふたりを庇うように一歩踏み出したのだが――……
「ロキ様ッ!」
膨張した水の塊からするどく鞭に似た流れが閃き、ロキの手を強く打つ。
もう一本の水流がレイヴァテインを力任せにロキの手から捻り取ったのだが、熱いモノにでも触れた生物のように魔杖から身を剥がす。
放り出されたレイヴァテインが小さな玄関に甲高い音をたてて落ちるまでの短い時間の中で、白い奔流と黒い影に三人は引きずり込まれ――姿を消した。
後には、どこまでも日常的な光景だけが残る。
壁にかけられた時計が、いつもとなんらかわらず正午を指し示す。
窓の外に広がった暗い空からは、三人の痕跡を消すかのように、雨がぽつりぽつりと降り出していた。
***
正午の時報を合図にしたかのように降り出した雨。
空一面を銀色に染め、そこから細い細い銀の糸をたらし続ける雨雲を見上げ、玲也はそっと息を吐き出した。
大島家のくつろぎの間の窓は大きくとられていて曇りひとつないけれど、玲也が手で触れたところから、玲也が息をこぼしたところから、白くじわりと曇っては徐々に透明になっていく。
雨が降っていて気温が下がったからだろうか、ガラスを通して体温が少しずつ奪われていくのを感じた。
窓の外の緑が雨に打たれて震えている様子は、どこか寒々しかった。
「今日はロキ様のおうちに行こうと思ってたのに、おうちのご用でいけなかったです……ロキ様に会いたかったなぁ」
玲也のため息は恋する少女のそれではあったが……ふとその表情が別種の色に染まった。それは、困惑に似た色であった。
「今日見た女神様の夢のお話をロキ様に伝えたかったですけど……。今日の女神様は笑ってたですよって」
でも、その笑い方が……なんだかちょっと……怖かったですって言ったら、ロキ様なんて言うかなぁ……。
玲也は悲しげに空を見つめる。
銀色は見る間に濃い黒になり、ざぁざぁと強く雨を降り注がせるのであった。
***
その地域の住人でもなければ、すぐには出てこられない迷路に似た細い路地。
その路地を背にして、長い髪の少女が呆然と立っていた。
その手には、彼女には似つかわしくない、かわった形の杖が握られている。
月を模した月光色の杖――
それは今、降り出した雨に冷たく濡れていた。
「ロキ君たち……どこに……」
彼女の目の前には、ぼろぼろな外壁、安っぽいスチール製のドアで作られた平屋の建物が横たわっている。
彼女――まゆらは、たった今ここから出てきたばかり。
家のあらかたの用事も片付いた休みの午前、いつものように『不思議ミステリー』を求めて燕雀探偵社へと向かっていたまゆらが見つけたのは、黒い犬を先頭にどこかへと向かっているロキと闇野の姿。
「ロキ君と外で会うなんてめずらしー。ロキ君、出無精だもんね」
散歩かな? と一瞬思ったものの、声をかけるでもなく後をつけはじめたのは単なる好奇心。または、昨日散々いじめられた意趣返し。
そんな軽い気持ちだったのだが、彼らの目的地らしき場所は、普段の彼らには似つかわしくない場所。この街で生まれ育ったまゆらも、こんなほこりっぽい地域があるなんて知らなかった場所。
建物の中に入ろうかどうしようかとぐずぐずと逡巡している間に、空は黒く掻き曇り、雨が容赦なく降ってきて。
雨宿りも兼ねてロキたちの姿を追って長屋へと踏み込んでみたものの、そこに人の気配は微塵も感じられず。
ただ、一番奥の部屋のドアが大きく開いているのが不思議で。
恐る恐る近づいたその部屋の中には、やはり誰も――ロキも、闇野も、黒い犬さえもおらず。
「これ……ロキ君の……?」
ひとり分の生活道具が調った小さな部屋に、彼が手にしているのを何度か――それがいつだったのかと思い出そうとすると記憶がぼやけて遠のいていくのが不思議だったけれど――たしかに彼の持ち物であると認識できる杖だけがぽつんと落ちていて。
拾い上げた不思議なその杖は、主と離れて凍えきっていた。その冷たさが、彼はどこにいるのかと、どこに行ったのかと確かめるよりもはっきりと、まゆらに彼らの不在を知らしめていた。
杖を手に建物から出てきても、やはり彼らの姿はなく。
呆然と立ち尽くしたままの彼女の細い肩を、雨だけが叩いていた。
「ロキ君……どこ……」
その答えをくれるものは、どこにも居ない。
|