Pteron 

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 彼は『彼女』に何度も会いに行ったのだ。
 百貨店で催された展示会にも毎日足を運んだし、展示会が終わった後もその画廊の前まで毎日通った。
 歩くに何の不自由もない身体ではない。
 遠くに通うのに交通機関を気軽に使えるほど裕福でもない。
 いや、はっきりと言えば、『彼女』に会いに行くのは、彼にとって気軽にできる事柄ではなかった。身体的にも、金銭的にも――精神的にも。
『彼女』には心の底から嘘偽りなく会いたかった。けれど、それは喜びばかりをもたらす行為でも時間でもなかった。
 向かい合うその時に彼の中に湧き上がるのは……悔恨。
 それでも会いに行かずにはいられなかったのは、『彼女』をこの世に生み出したのが、彼その人であったから。
 そして、彼が『彼女』に会いに行ったのは、ただ『生みの親』だからではなかった。展示会期間中はその目的だけであったが、展示会が終わる頃には、目的が変わってしまっていた。
『彼女』を――盗み出す。その為に『彼女』を所有する画廊まで行ったのだが、外から眺めやったどこにも『彼女』はおらず。
 これが罰かと――または、人の道に外れた行為を今まさに行おうと決意したおのれを天がいさめてくれているのだろうかと自嘲気味に笑うしかできなかった。
 そうこうしている間に、『彼女』はどこかへと売られてしまった。画廊の店主らしきキツネ顔の男が、店裏で煙草をふかしながらぶつぶつと呟いていたのを偶然聞いてしまったのだ。
『彼女』を取り戻したい。
 それには、『彼女』につけられた二十二万円もの金があればなんとかなったかもしれないか、彼にとってのその金額は、出費を迷うなどの選択も与えてくれる額ではなかった。明日の生活にも友人たちの援助がなければことかくありさまである彼にとって、その金額は持たざる財産であった。
 今日、その家の前までやって来たのも、『彼女』を盗み出す為だった。だが、やはりこの不甲斐ない身や精神で盗みなどできるはずもなく。
『彼女』を簡単に身請けできるだけの財力を持っていると一目で知れる大きな屋敷の前に立ち、おのれのぼろ長屋の一室とは雲泥の差である外壁や窓や屋根を見上げるしかできない。
 闇に沈んだ『燕雀探偵社』の文字を震える指でなぞるのが精一杯だ。
 どれだけの時間をぼんやりと窓を見上げるだけで費やしたのか。かっくりと首が折れてしまえば、再び見上げる気力なんてあろうはずがなく。
 きびすを返し、夜の闇にまぎれるようにして長屋へと帰ろうとしたその道の先に――文字通り『舞い降りた』のは……
「アイシス」
 どんな手品なのか、杖をつきながらぽつりぽつりと歩いていた彼の前に、『彼女』が両手を広げて立ちふさがったのだ。
 淡い燐光に包まれて、夜の闇の中にふわふわと宙に浮いてそこにいる『ソティスの翼』
 非日常的な――まさしく『怪異』の中にあっても『彼女』の美しい微笑みはなんら曇りはしていないが――おのれが作り出したはずの存在は、長い年月をかけてまったく別の存在へと生まれ変わっていたかのようであった。
「アイシス、どうして」
 どうして『彼女』が……?
 その疑問以外に彼が持つべき言葉はないだろう。
 ……いや、『彼女』こそが帰りたがっていたのに違いない。
 恐る恐る手を伸ばして触れた『彼女』が錯覚でもまぼろしでもないのならば――まさしく『彼女』こそが帰りたがってここに来たのに違いない。『彼女』自身の意思で帰ってきたのならば、『彼女』を腕に抱くのになんの罪があるだろうか。
 彼はほんのつかの間逡巡したが、それは多分に他者への言い訳に費やされていた。
 彼は躊躇いを捨てて両手を伸ばし、『彼女』を包む冷たい額縁を抱えると、足を引きずりながら闇の中へと消えた。
 それは、人目をはばかる黒い興奮を胸に抱いた後ろ姿であった。

   * * *

 黒い空から落ちてくる、降り止まない雨。
 屋根や木々を恐ろしいほどの勢いで叩きつけながら降ったのは初日の一時だけで、それ以降はさぁさぁと降り続いていた。
 街はすっかりと雨雲の支配下に置かれ、昼でも街灯が煌々とともっていた。その光も、空の黒色に押され、ほんのわずかの範囲しかその勢力を維持できないでいた。
 アスファルトは黒々と濡れて乾く暇などなく、排水溝も落ち葉やゴミが詰まりあふれる寸前になっていた。
 児童公園も水没し、もちろん遊ぶ子供の姿などあるはずがない。
 季節外れの長雨に、うんざりとした空気が人々の間に漂っていた。
 燕雀探偵社の庭に植えられている木も、天の雫を受けて伸びやかに枝を伸ばしている、なんて悠長な表現ではなく、雨に打たれてじっと耐えている。
 まゆらは燕雀探偵社の門の前に立ち、ピンク色の傘の中から明かりのともらない窓を見上げるしかできなかった。
 門は閉まったままだ。今日も昨日も、その前も。
 身体はとうに冷え切っていて、指の先がじんっと痛いくらいだ。
 何度こうしてこの門の前で立ったことだろう。
 何時間こうしてこの門の前で過ごしているだろう。
 数え切れないほどの諦めの悪さに、まゆらは自嘲の笑みを刻めもしない。
「ロキ君、三日も留守にしてるなんて……」
 玄関に施錠しているのも珍しいことなら、鉄の門すらかたく閉められているなんてはじめてではないだろうか。そして、彼らが揃って何日も不在にしているのもはじめてのはずだ。
 人の居ない屋敷は、一層寂れた雰囲気を漂わせていた。灯りのともらない窓が並ぶ屋敷は空の雨雲に同化して、闇に沈んでいた。
 まゆらは視線を上にあげ、空を見上げる。
 まるで、彼らを空の奥深くに隠して発見を恐れてでもいるかのように晴れ間をちらとも見せない黒い空。
 彼らの後をつけて長屋へと辿り着いたあの日から、この雨は一瞬たりとも途切れていない。
「絶対、おかしいよ」
 まゆらは傘を持つ左手とは反対の手にきゅっと力を込める。右手には、あの日みつけたロキのレイヴァテインが握られていた。
 こうして閉ざされた門の前に立っていると、時折、彼らの存在自体がなかったのではないかと思う瞬間がある。ロキや闇野や黒い犬などはじめからおらず、この屋敷は元から廃屋だったのではないかと――。
 凍えて冷たくなったまゆらの指でもなお冷たく感じるその不可思議な杖の感触だけが、彼女にロキたちの存在を確かなものと認識させていた。彼らはちゃんといる。今はどこかに行っているだけ、と強く心で念じる。
 それならばどうして今はいないの? どこに行ったのかわからないの?? 
 まゆらの必死の思いを裏返そうとするのも、まゆらの心であった。
「ロキ君……光太郎君の依頼、受けてるんだもの。そんな時にどっか行ったりしないはず」
 調査にでかけて不在にするのなら、一言あるのがロキであり闇野であろうし……それすらもないほどに自分が信用も信頼もされていないとは思っていない。
 そこまで彼らと薄っぺらい関係ではないと思いたいけれど……
「もしかして」
 そう思わずにいられないのは、やはりこの彼らの不在がおかしいと感じる不安からだろうか。
 彼らのことを考えると、不安で不安で仕方がなくなるのだ。気持ちがぐらぐらと揺れて少しもとどまってくれない。
 彼らを信じていなくてはいけないのに……ともすれば彼らを疑ってしまいそうになる自分の心が嫌で、まゆらは傘の中から白い喉をそらせるようにして天を仰ぎ、ぎゅっと目をつぶった。
「……まゆらさん?」
 そんな時に耳に届いたのは、心細げな女の子の声。
 光だけではなく音まで吸い込みながら雨がさぁさぁと降り続いていても、彼女の声は小さくとも良く澄んで耳に届いた。
 ぱっと開けたまゆらの目に映ってきたのは、玲也の姿。
 ここしばらく見ていない空の青と同じ色の傘。
 その空色に包まれた玲也の顔は、まるで天使か人形のように可愛らしい彼女には似つかわしくない暗いものだった。あまり眠れていないのだろうか、やわらかな薔薇色の頬もどこか色味が悪くこわばっていた。
「レイヤちゃん……」
「まゆらさん、おかしいです。ロキ様、昨日も、その前もおうちに居てないです……」
 うん。頷きだけで返す返答に、玲也は泣きそうな表情になる。彼女も自分と同じ不安を抱えているのだと、すぐにわかった。
 ――違うの。大丈夫だよ。
 そう玲也に言ってあげたいし、言ってあげなければならないと彼女よりも大人の自覚が訴えるけれど、今はそんな根拠のない慰めは口にしたくなかった。その言葉は、彼らを疑いそうになる自分に言い聞かせる言葉になってしまいそうだったから。
「まゆらさん、レイヤ、心配なんです。あの女神様の夢、今日も昨日もその前も見たです。女神様、笑ってたですけど……女神様がすごく怖かったです」
 それに……それに、ロキ様たちが水の中にいる夢も見たです……ロキ様たち、大丈夫だといいですけど……。
「ロキ君たちが……水の中に??」
「ハイです」
 玲也は心配そうに屋敷を見上げた。暗い窓の向こう側にロキの姿を捜そうとする、不安でさびしい視線だった。
「ロキ君たち、苦しそうだった? 溺れてた?」
「いいえ、溺れてはいなかったですけど……ロキ様、恐いくらいに無表情で……。苦しそうな顔より、もっと苦しそうで……。レイヤ、ロキ様には笑ってて欲しいです。あんなロキ様、レイヤは見たくないです」
「ねぇ……レイヤちゃん。もしかしたら、ロキ君たちを最後に見たの……」
「どうしたですか?」
 くるりと向けられた心配そうな玲也の視線に、まゆらは口をつぐんだ。
『ロキ君たちを最後に見たの、わたしかもしれない』
 飲み込んだ言葉を心の中で反芻する。
 心配につぶれそうな彼女に不確定な希望などちらつかせたくはなかった。
 あげるのなら、完全な希望の形をあげたい。彼女がもう二度とこんな寂しい表情をしないですむように。
 まゆらは、先とは違う強い視線を屋敷に向けた。
 もう一度、あの部屋に行こう――それは、強く決意した視線であった。
 人探しをするなら、その人が最後に確認できた場所から調査する。事件が起きたならまずは現場に戻る。それが探偵の鉄則なのだから。
 まゆらの右手で彼女の決意に呼応するかのように、レイヴァテインが鈍い光を弾いて瞬いたのだった。





第6話のキーワードは『水中』『絶望』『嵐の予感』