Pteron 

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 水の中は、滞るを知らずたえず流れていた。
 見上げる水面ははるか彼方で、光ひとつ見えない。
 それでいて深海の奥底でもないらしく、そこは真の闇ではなかった。おのれの指の先も、周囲の光景も良く見えた。
 常とは違う青い水。海の底でもない水。それ以外はわからなかった。
 その中では、激しい水の流れに飲み込まれ底知れない無音に感じる瞬間もあれば、圧迫感を抱くほどに水音が耳を通して脳を掻きまわしている時もある。
 どこまで流されるのか――どこまで引きずり込まれるのか――そんな恐怖が脳裏を掠める瞬間もある。
 死に遠い存在ではあったが、このままでは『死』と同じ立場ではないかと焦りが湧き上がる瞬間もある。
 だが、それらの想いを平らかにし、心穏やかにロキは目を閉じてそこにいた。流れに逆らわず、さりとて流されるわけでもなく、そこにただ立っていた。もうどれだけの時間が過ぎたのかもわからないほどに、じっと立っていた。
 水は彼がもっとも苦手とするもの。けれども今彼は、水の中で深く浅く呼吸を繰り返すことに専念していた。
 そこは、水の隙間をついて彼が作り出した小さな球形の中であった。薄い膜一枚を隔てて、そこだけが彼女の領域とは異なっていた。
 その中には闇野とフェンリルもいたが、彼らはここに取り込まれた瞬間からぴくりとも動かない。水に取り込まれただけであるし、次の瞬間にもおのれの空間に引きずり込んだので、最悪な状態ではないだろうけれど……こうも長い間おのれの気配しかないと不安が募るのはとめられなかった。
 大丈夫かと様子を見たい気持ちを無理矢理になだめ、ロキはおのれが作り出した結界の維持に魔力を注ぐ。
 元の身体であれば容易であることが子供の姿であるだけに難しく、一定以上の力をふるう時に有効な鍵であるレイヴァテインもないのであれば、意識のほとんどを結界の維持に割り振らなければ力の方向性が狂ってどうなるのか彼にもわからなかった。刻一刻と水圧をかえ、流れをかえるこの水の中では、繊細な力の方向性、それが大事であった。
 意識がよそに向いた瞬間、自分も彼らもこの膨大な水に飲み込まれるのは必至。なればそれはするべきではないと、残る理性でおのれを懸命になだめる。
 邪神と言われた身であるのになんて不甲斐ない、とかすかに笑うが、その笑みもすぐに水の中に掻き消えていく。
 闇野とフェンリルが生きているのか死んでいるのか。無事であるのかそうでないのか。すぐ背後にいるのに確かめもできないなんて、まるでシュレーディンガーの猫を背に負った気分であった。
 そしてまた、ロキ自身も猫であった。こんな場所で、他者と関われず漂っているだけの自分は、果たして生きていると言えるのだろうか……。
 ――きっと彼女たちは心配している。
 どれだけ無心になろうとしても脳裏によぎる存在がある。大堂寺まゆらや大島玲也や、鳴神や……腐れ縁のフレイやヘイムダルの顔さえもよみがえってくるのに、ロキは少しだけ笑った。不思議と、彼らを思い出している時は、努力しなくても心が穏やかで……穏やか過ぎて、自制しないとそれに飲み込まれてしまいそうな誘惑すらあった。
 彼女たちに『無事』だと伝えたいのにそれができないのならば、彼女たちにとっておのれもまた生死不明の閉じ込められた猫。
 きっと彼女たちは心配しているはず。もしかしたらまゆらと玲也は泣いているかもしれない。
 彼女たちを泣かしたくなんかないけれど、こればっかりは仕方ない。いつまでも猫をきどるつもりはないけれど。
 彼女はここに三人を取り込んでから、接触してくる様子はない……だがロキは、その瞬間こそを待ちわびていた。
 
 そして、その時は――来た。

 水は唐突に流れをとめ、頭上と思しき場所に小さな光が生まれた。
 それはぐんぐんとこちらへと近づく。白い翼……いや、手だ。球体に向けて長く細く伸ばされたのは、彼女の手だ。
 だが、それは球体へと触れることなく、てんで見当違いの場所をうろうろと彷徨う。あと少しで触れる――そう思った瞬間に、彼女の手は、まるで『惑わなくてはいけない』と命令でも出されたかのようにふいに離れていく。
 ロキはタイミングをはかる為に身構えているのだが、彼女の動きの意味がはかれずに戸惑うばかりだ。
『あとひとつ……あとひとつなのに』
 水を辿って聞こえたその言葉は、彼女の声だろうか。
『あとひとつですべてが揃うのに……あぁ、わたくしの夫……ばらばらにされた聖骸を繋ぎ合わせ……ひとつに……』
 自分たちを捕らえている者にしては、深い憂いの含まれた声であった。
 彼女は『自分たち』を捜しているのではないかもしれない。彷徨う白い手の舞に、ふとそう思った。または、彼女にとって『自分たち』はまったく違う『見立て』になっているのかもしれない。
 水の膜を通して、はるか頭上の白い光を目をこらして見つめる。白い光に埋もれて、十三個の黒い小さなモノがうずくまってそこにあった。
「十三個?」
 嫌な符号にロキは眉をひそめる。
 ナイル川の豊かなる流れ。
 ばらばらにされた十四個の聖骸。
 みつからない最後のひとつをさがし続ける女の手。
 肘から翼が生えているように描かれた女神の絵。
 製作者がつけたわけではない『ソティス』の名前。
「彼女はソティスじゃない……」
 ――『イシス』だ。
 冥界の王の妻イシスは、その性質により、シリウスの化身ソティスとも同一視される古代エジプトの女神。
 イシスは、十四個に切断された夫オシリスの遺骸を集めた伝承でも有名な女神だ。
 彼女は、頭上に玉座をしめす絵や文字を戴くか、または両肘から翼を生やした女の姿で描かれることが多い。
 もしも、あの絵の『星』はミスリードで、翼こそが画家の描こうとしていた女神の象徴であったのなら……
「彼女の別名は……嘆きの未亡人」
 女神イシスの別称は『生命の女主人』『偉大なる女魔術師』『神々の母』――と多々あるものの、最後のひとつ、ナイル川に沈められた聖骸だけは拾えなかった彼女を指して『嘆きの未亡人』とも表現される。
 ロキは、水の球をかすめるだけの白い手を呆然と見つめる。
 彼女が『イシス』である限り、昔の言い伝えにのっとり――いつまでたっても『最後のひとつ』である『自分たち』は発見されない。
『十四人目の絵の持ち主』であり『十四人目の破産者』は、ここに閉じ込められている限り有り得ない。
 白い光を見上げるロキの心に、はじめて『絶望』に似た色が閃いた。

   * * *

 焼けてささくれた畳敷きの四畳一間でも、そこに住んでいられるだけ彼にはマシな環境だった。
 この小さな部屋を彼に貸し与えてくれたのは、若かりし日からの付き合いの友人のひとり。
 彼らは、若さにまかせて無謀な道を突き進んだ自分を、多くの戒めの言葉と、励ましの言葉と、そして僅かずつでも持ち寄った金で後押ししてくれた。
 そんな彼らも、ひとりかけ、ふたりかけして、皮肉にも、今まできちんとした定職に就けなかった自分が一番最後まで残りそうな気配が漂ってきた。
 そうは言っても、最近は身体の痛みも激しく、日雇いの仕事や金屑集めなんかもできなくなって数年が経つ。
 支援者の最後のひとりが死んで生活保護も受けられなければ、この古びた畳と同化するほどにぐずぐずと肉が腐敗するまで誰にも発見されない、なんて未来予想はどんなへぼ占い師に占わせても外れはしないだろう。
 宮島潤三。どこにでもある名前に、どこにでもいる身寄りのない老人であった。
 彼は、若い頃画家を名乗っていた。なかなかに将来有望なものを秘めた画家、などと評価されたものだ。
 若い頃は自由を求めて外国なんぞを渡り歩き、そこでパトロンを見つけて絵を描いたりもしていたものだ。
 今目の前に、その若かりし日の過ちのひとつ――否、最大の過ちが存在しているのが信じられなくて、老人はため息にも似た息を吐き出した。
「アイシス」
 目の前の絵には『ソティスの翼』なんて気取った名前がつけられていたが、彼にとってこの絵は『アイシス』の肖像であった。パトロンに依頼され、パトロンの妻を描いたものだ。
 彼女は若く美しかった。手っ取り早く言えば、潤三は彼女に恋焦がれた。しかし彼女は、夫に尽くし盛り立てる気概に溢れた女性であった。彼女が彼に見向きをするなど有り得なかった。
 彼女の名前が『アイシス』であったから、女神の絵に仕立てた。
 エジプトの女神イシスはまさしく彼女そのもので、夫であるオシリスを愛し、殺害されてばらまかれた遺骸を拾い集める気概があり、その後も神々と対等に渡り合い、最後には息子を王位に就かせた伝承がある。
 エジプト王――ファラオたちの母とまで呼ばれる偉大な女神。
『イシス』を英語読みにすれば『アイシス』になるところまで一致していた。
 ただし、イシスの象徴とも言うべき翼を描かず、美しい彼女の額に星を輝かせ顔の細部を描き込まなかったのは、焦がれても手にはいらない女への想いと、彼女と共に歩むのが当然であり、且つ潤沢な財産も持ったパトロンへの嫉妬や意趣返しでもあった。
 微妙にずらされたイシスとソティスの違いに、ふたりは気づかなかった。
 まもなくその国を離れたが、数年後にその男が事業に失敗して破産したとのうわさを耳にした。
『アイシス』――『ソティスの翼』は、散り散りになった財産と一緒に、闇へと葬られたと聞き……潤三はほっとしたものであった。
 そのはずであるのに、何十年も経った今、画家仲間から聞いた『ソティスの翼』のうわさに、嘘だと思いつつ赴いた展示会で、まさかの再会を果たしてしまった。
『アイシスの肖像』を無謀にも盗み出そうと考えたのは、若かりし日の苦い記憶を焼き払いたかったからだ。
 だが、今こうして目の前に絵を置いても、潤三はどうするでもなく、日がな一日絵を眺めているだけであった。
 そんな退廃的な日々に響いたのは、小さな足音と――ノックの音。
「あの……すみませーん……」
 恐る恐るかけられた、女の子の、声。
「……君は?」
 鍵すらもかけていなかった薄っぺらいドアを遠慮がちに開けてこちらを覗いている見知らぬ女子高生に向ける、普通の言葉は。
 彼女の登場を合図にしたに突然巻き起こった怪異によって、掻き消える――。





第7話のキーワードは『復活』『責任』『プロポーズ?!』