Pteron 

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 小さな部屋の中に、突如として黒い嵐が巻き起こった。
 黒い風が竜巻となって部屋の調度を巻き上げる。
 バタバタと激しくたなびく擦り切れたカーテン。
 部屋の中を紙切れのように旋回する座布団。
 壁にかけていた古びた時計は、軽く吹き飛んで壁にあたり粉々に砕けた。
 やせ衰えた老人の身体は、激しい風に右に左に揺さぶられる。声はおろか息もできないありさまだ。
「きゃぁぁぁッ! なに、コレ?!」
 部屋を訪ねてきた女子高生――まゆらも、その暴力的なまでの風の勢力圏内に巻き込まれてしまっていた。
 両腕をあげて顔をかばいながら開けた視界には、老人の前の壁に立てかけられたあの『絵』から、恐ろしい勢いで風が放出されているのが見えた。それも、黒い風だ。それが細いロープになり、全身に絡み付こうとする。制服のプリーツスカートにしがみつかれた、微妙な重みは紛れもない現実であった。
 その冷たい感触にぞっとして、まゆらは思わずいやいやをするように片手で風を薙ぎ払った。それは、ロキの杖を持つ手であった。
「……え?!」
 ほんの少しだけ風の勢いが殺され、スカートにしがみつかれていた重みもなくなり、黒いロープが十三本の風に分かれたが、次の瞬間には先よりも激しく風がまゆらへと向かった。
 今度はまゆらの息が殺される番であった。
 全身をすっぽりと黒い風に巻かれ、視界も殺された。
 耳さえも風に浸食されて、唸り以外は聞こえない。
「や……やぁッ!!」
 なに? コレ、なに?! 
 混乱する頭でいくら考えても答えなど出るはずがない。
 ただ、涸れた叫び声をあげ、黒く塗りつぶされて見えない目をぎゅっと瞑り、力いっぱいレイヴァテインを胸元でにぎりしめるしかなかった。
 そんな、強い風に掻き消されて聞こえないまゆらの耳に、

 ――まゆら……――

 ロキの声が聞こえた気が――した。
 それは、あまりにも不安で心が作り出した幻聴なのだろうか。反面、幻聴でもロキの声を聞けて、不覚にも涙がこぼれた。

 ――まゆら、それを投げて……ッ――

 また、ロキの声が聞こえた。すぐ近くのような、とても遠くのような、不思議な声だった。
 どこ? ロキ君――どこ?!
 必死に目を開けたが、やはりそこは黒い風の中で、ロキの姿は見えなかった。
『杖を……』
 幻聴ではない、たしかに聞こえるロキの声に、まゆらの心は大きく弾んだ。
『ボクを信じて――レイヴァテインを投げて!』
「ロキ君……ッ!」
 まゆらは強く目を瞑り、風に引きちぎられそうになりながらも両手をあげ……杖を力いっぱい投げた。

 ロキの声を道しるべに。
 それは――『ソティスの翼』がある、方向。

 ――――ッ
 …………ッ
 ざん……ッ!!

 一瞬の無音がその部屋を支配した次の間に、獣の咆哮に似た空気の断末魔が部屋を揺るがし、尋常ではない水が溢れた。
 止んだ風のかわりに溢れた足を浚う大量の水の感触に、まゆらは恐る恐る目を開ける。
 そこには、水の中で月色の杖を構えた少年が髪から水をしたたらせ、不敵な笑みを浮かべて立っていた。
 ロキだ。
「ロキ君……っ」
 いた。ちゃんと彼はいた!
 そう感じると、全身からへなへなと力が抜けた。
 ぺたんと座り込んだそこはまだ水に侵食されたままであったが、まゆらは構わなかった。立っていられなかった。
 ロキの後ろには、水の中に倒れ伏した闇野とフェンリルと、水をすべて吐き出した『ソティスの翼』があったが――その額縁には、まゆらがレイヴァテインを投げつけた時にできたのだろう無残なひび割れが刻まれている。
 薄いガラスの表面にもひびが走り、女神の微笑がいびつに歪んでいた。どこにも慈愛の痕跡はなかった。
 老人は、なにが起きたのか理解ができず、呆然と、絵と少年を見つめるしかできなかった。

   * * *

 その後のロキの調査で、潤三のパトロンであった男は、妻アイシスの尽力により、再び事業を起こして成功していた事実が判明した。
 彼女はどこまでいっても『イシス』並みの気概を持った女性であったらしい。
 一方『ソティスの翼』には邪気も魔もついてはいなかったが、潤三の執着が絵に凝り固まり、呪いの絵となっていたようだ。
 イシスが拾い集めた十四の遺骸――十四人の破産者を作り出し、おのれの創造主の元に帰る……そんな呪いだ。
 他者に執着するのも自己に執着するのも、結局はコインの裏と表だ。『ソティスの翼』は彼の想いを受け、同じほどに彼に執着したのかもしれない。
 もしかしたらはじめは『呪いの絵』でもなんでもなく、今までの十三人の破産者は単なる偶然であったのかもしれない。
 だが、展示会で潤三と再会したのがきっかけなのか、はたまた『ロキ』と言う神の存在に触発されたのか……それともそのふたつがきっかけとなり、今までの十三人の破産者の怨念が絵を変質させたのかはわからなかったが、絵が他者に強く関与できる異質な力を得たのはあの展示会が境ではないかとロキは推測していたりした。玲也の夢はすべてあの展示会をさしていたのだから。
「どちらにしても、もう関係ないけど」
 十三人の所有者が『ソティスの翼』のせいで破産したとしてもそうでなかったとしても、彼女の所有者が次々と破産した事実は変わりないし、もうその絵も純粋無垢なままこの世には存在しないのだから。
 ひとり、またひとりと犠牲者をつくりだすごとに、異国の地から一歩一歩、創造主の元へと帰ってきた『ソティスの翼』の想いは、潤三の執念、または妄執に似た自己愛。
 たくさんの人々を動かして、世界の果てからこの地へとやってきたその執念は、ロキにとっても恐ろしいもの。
「やっぱり、天災以外は人間が一番恐ろしいってことだね」
 ――天災は、ほとんどが神々のせいだから。
 最後の言葉だけは口にしないけれど。
『人の執念』を恐ろしいと考えているロキの深い色がさす横顔に、まゆらが不思議そうな視線を向けた。
「? なにか言った? ロキ君」
「いーや、別に、なぁんにも」
 ロキは、ソファから不思議そうな視線を送るまゆらをはぐらかす為に、ことさらに無感情に言い放つ。
 手の中には薫り高い紅茶。手の中に戻ってきた――日常。それを、無意味な感想ひとつで壊してしまう理由はないだろう。
 定位置の書斎机の上には、垣ノ内氏に提出する報告書の束。
 馬鹿正直に起きたことをすべて報告するつもりなんてないので、適当に話をでっち上げてしまった。きっと光太郎がなんとかしてくれるだろうし。
 そんなことをぼんやりと考えていたらなにやら強い視線を感じて、もう一度ソファに視線を転じる。
 そこには、眉間にしわを寄せた、まゆら。
「なーんかおかしいの、ロキ君。なにか隠し事、してない?」
「……イッパイしてるって言ったら?」
 途端、まゆらの眉がはの字になった。思わず、うっとうめいてしまうロキ。
 なんだなんだ、これくらいいつものやり取りじゃないか。こんな言葉でそんな反応するなんて、ずるい。
「もぅロキ君、黙ってどっか行っちゃったりしないでよぉ」
 なんだか今にも泣きそうな、声。いや、ここ最近何度も聞いた声だ。
 まゆらのこの声を聞くと、なんだか身の置き所がなくなる気がするロキである。女の子って、こんなところ、無意識にずるい。
「あ……あのねぇ、まゆら……」
「もぅロキ君たちがどっか行っちゃうなんてヤだからねぇ」
 今にもべそべそと泣き出しそうなまゆらに『キミそんなキャラじゃないでしょ』と突っ込みたくもなるけれど、それは――それだけ彼女を不安にした反動で。なにも言えなくなる。
 でも、
「ずっとそばにいてよ……ロキ君」
 涙をこらえてのそんな言葉は
「まるでプロポーズみたいだよ、まゆら」
 思わず混ぜっ返したくもなるもので。
「え、どこが?!」
「ずっとそばにいてなんて、まるで『死がふたりをわかつまで』みたいじゃない?」
「えぇぇっそんなんじゃないもんっ」
「ずっとそばにいるだけの責任、とってくれるの?」
「せっ責任って……わたしがロキ君を養うとか?」
『年収いくらくらいの仕事に就けばロキ君を養えるだろう』
 真剣に考えていそうなうろたえ気味のまゆらの声に、途端、楽しくまゆらをおちょくっていたロキの顔が微妙に変化した。それは、どちらかと言うと、不機嫌の部類に入る顔だ。
「まゆらくらいボクが養うよ」
 そんな甲斐性なしなんて思われたくないな。
 とまで考えて、
『……まゆらくらい養うって、ナニ考えてんのボク……』
 脳内で途方に暮れる。
 まぁ、すでにふたりの扶養家族がいるのだから今更と言えば今更だけれど、とまで考えて、それも微妙に考えがおかしいと気がつくありさまで。
「ボクはまゆらを泣かした責任、とる覚悟はできてるんだけど?」
 照れ隠しに話の方向を微妙に変えようと、再び混ぜっ返してみるのだけれど。
「…………ちょっと期待してる」
『おや?』
 うろたえまくっていたまゆらが、ロキの『責任』発言でぶすりとした顔をして押し黙ったので、ロキは盛大に疑問符を飛ばした。
 最近のまゆらの反応はなにやら予想外ばかりで、こちらの方が混乱すると言うか、調子が狂うと言うか。
「……ちなみにまゆら、ボクがとる責任ってどんなだと思ってる??」
 恐る恐る問いかけてみる。
「……ロキ君の責任のとり方なんだから、いつかトランシルバニアで吸血鬼に会わせてくれるとか、UFO呼んでくれるとかだと思うの」
 だから一生懸命仏頂面してるの! だってロキ君、わたしが喜んだりしたら『やっぱやめる』って言いかねないから!!
 ぶすーと頬を膨らませたまま、まゆらが必死に仏頂面をつくるので……
「く……あはははははっ! まゆらってば……まゆらってば、やっぱ最高!」
 ロキは声をたてて笑った。目の端には、笑いすぎての涙まで。
『一体、まゆらはボクをどんな風に思ってるわけ?』
 そう考えないでもないけれど、まゆらの突拍子もない発想の前ではそんな疑問も軽く吹き飛んでしまう。
「ひどーいロキ君! そこまで笑うことないじゃないーっ!」
 じたじたじた。先の雰囲気も払拭するほどにじたじたするまゆら。一生懸命の仏頂面ではなく、大真面目に頬を膨らませている。その様子がまたおかしい。
「おや、おふたりとも、なにやら楽しそうですね。お茶のおかわりはいかがですか?」
 そこに、新しい紅茶のポットを手にした闇野と、その足元からフェンリルも書斎へとやって来て。
 そのすぐ後に、報告書を受け取りに来た光太郎も顔を出した。
「一応オヤジには渡しとく。絵はなくなっちまったようだけど、仕方なかったみたいだし?」
 クラシカルな赤い蝋で封をした封筒を片手でふりふり、『絵はなくなった』とだけ口頭で告げられた垣ノ内氏の代理人は意味ありげに笑う。
「まぁ、絵とか置き物関係ってこんなの日常茶飯事だから、オヤジのヤツ、別段気にしないだろうけどな」
「それってどう言うこと??」
 まゆらが不思議そうに問いかけるが、その目には期待感がきらりと宿っていた。
「だからうちのオヤジ、アレ系統のいわくつきとかナガレモノ集めるの好きだから、あの手の騒動には事欠かないわけで……勝手に燃えたり水浸しになったり消えたりなんて日常茶飯事」
 きゃー! 光太郎君のお父様ってミステリー!!
 まゆらが両手をにぎにぎして喜んだ。今にも垣ノ内家に駆け込まん勢いだ。
「それじゃぁもしかして……あの画廊を閉めるってのも、ガセ?」
 ロキが半眼で光太郎を見つめる。
「オレ、そんなの言ったっけか? あの画廊なくなったらオヤジの収集物がおさまりつかなくなるから、それ、絶対ナシ。絵とかって保管するだけでも結構手間かかるんだから、専門職のヤツがどうしても必要だし」
 ……たしかに『オフレコ』って言ってたし。『公式見解ではなかった』ってわけね。
 ロキはわざとらしくため息をつく。光太郎の言葉は三割引で聞いておかないといけないのを忘れていたおのれが悪い。
「それで? 光ちゃんか、光ちゃんのパパが引っ掛けたかったのって、結局どれ?」
「そうそう、あの画廊のサカイサン、三日前に急に辞めたらしくてさぁ。『ソティスの翼』紛失の責任、感じちゃったのかもしれないな?」
「ふ〜〜〜〜ん、そう」
 光太郎の急な話の方向転換にも関わらず、ロキはきちんと言葉の意味を読み取っていた。こんなところが光太郎と気が合う点なのだろう。
 トラブル付きの二十二万円とろくでもないキツネ顔責任者。どちらの比重が重かったのかなんて、一目瞭然。あの展示会の偶然の出会いでこんな結果を引き出すなんて、垣ノ内家の血はなんとも恐ろしい。
 そんな目的があったのなら、『ソティスの翼』を台無しにした責任は感じなくても良いらしい。はからずも利用されたのはちょっと悔しいが、まぁ光太郎相手なら仕方がないか、とロキは内心で肩をすくめる。
 本当に、人間ってばしたたかだ。神様も利用してしまうのだから。かわりに、神様はあまり人間に手出ししないのに。
 今現在『ソティスの翼』は潤三の手元にある。変質した想いと変質した絵を抱え、彼はこれから残り少ない人生を送らなければならない――今まで通り。それが、彼の、彼すらも自覚しなかった罪による責任の取り方であるのなら、ロキには手出しをする権利もないしその気もなかった。
 まゆらだけが状況がわからず、不思議そうな表情のままきょとんとふたりのやりとりを眺めていた。
 そんな彼女のすぐ目の前を、まゆらには見えない式神のえっちゃんがふよふよと漂い、ロキの頭の上へとぽよよんと着地する。
 ロキは、燕雀探偵社に戻ってきたいつもの空気に目を細めた。

 絶望の色には慣れっこになっても、この空気がある限り癒される。
 ここにある、地に堕ちた心を天まで舞い上げてくれる――ボクのPteron





原作風味の事件もどきでした(笑)。
ところで、ロキさんの責任の取り方ってどんななのでしょうねぇ。大島嬢もいてるのですけど(苦笑)。