共同戦線異常あり 

【 2 】






 午前はあんなにも穏やかであたたかく良い天気であったのに。
 正午を跨ぐと、どうしてだか空の機嫌は悪くなり。
 あっと言う間にどしゃぶりの雨に沈む街。
 緑が鬱蒼と茂った洋館も、雨のとばりに隠れていた。
「まるで、ますみちゃんの登場を飾る為に降る雨だねぇ」
 書斎机の後ろに大きくとった窓の向こうは真っ黒け。まだ午後二時なのに、はやばやと街灯がともっていた。
 闇野が毎朝ぴかぴかになるまで丹念に磨き上げている窓ガラスを激しく叩き、ごうごうと音たてて雨は降り続いている。
 雨の線が刻まれるよりもはやくに新たな雨粒が降り注ぐその窓をいつもの椅子に腰掛けて頬杖をつきながら見やり、これ見よがしにため息をつくのは、燕雀探偵社の所長であるロキだ。
 ため息の向かう先、ソファにふんぞり返っているのは、よれよれの背広を着たひげ面の中年男。自称ハードボイルド・デカ。正体は、たんなる独身男である。
「水も滴るイイ男の登場って言いたいんだろう、小僧っ子」
「あんまりにもベタ過ぎるので反論する気も起きないヨ……」
 ロキはもうひとつため息をつく。うぬぼれもここまでくれば処置なし、だ。
 ロキの膝の上に陣取っている黒い犬も、ため息に賛同するかのようにふんっと鼻を鳴らした。
 薫り高いはずの闇野の紅茶も、強い雨の匂いに紛れてただの色付き水。その半分は目の前の男にも原因があったけれど、こうなっては手をつける気にもならないではないか。もうひとつおまけにため息をつく。
「それで? ますみちゃんはここを喫茶店かなにかと勘違いしているわけじゃぁないんだったら、なんの用? たんに暇だから遊びに来たってのはないでしょ?」
「いいじゃないか。たまには『たんにヒマだから遊びに来た』ってコトで。ほ〜ら、刑事さんだよ〜」
「……これでもちょっとは譲歩して『刑事さんは仕事が忙しいから遊びに来たんじゃないだろな』ってスタンスとってあげたのに、それでイイワケ? 都民の血税泥棒呼ばわりしてもイイ?」
 ぬけぬけと『遊びに来た』と公言した公僕を、ロキは半眼でじっとりと睨む。この不良警部が。仕事しろ、仕事。
「そんな台詞は納税者になってからいいな」
 ここの茶ぁも菓子も旨いんだからいいだろう。
 との言葉を新山警部に返されたロキは一瞬言葉につまり、目をぱちくりとさせた。なんとも珍しい表情であった。
 そして、恐る恐る、脇に控える主夫兼秘書を見上げる。
「……ボクって自営業者だけど、税金って払ってるのかなぁ、ヤミノ君。……気になんてしてないけど」
「さぁ、そのあたりなんとも……。公共料金はきちんと払っていますけど」
「お、税金未納者か? 小僧っ子はともかく、眼鏡の兄さん名義では税金納付の義務があるだろう? 税務署に通報するぞ?」
「……仕方ないから、遊びに来てくれた不良警部を歓迎するよ。わ〜い刑事さんだぁ、うれしーなぁ。ボク、ケイサツテチョウって見たことないなぁ。いつか見せてよ、ひげ面写真」
 ロキは四度目のため息をつきつつ、完全なる棒読み状態で、歓待とは口が裂けても言えない歓待をした。
『この不良中年が』――そんな気持ちがありありと溢れ返っている言葉だ、と膝の上でフェンリルは思うものの、賢明にも指摘したりなんかはしなかった。ロキが隠すつもりもないのだから、指摘してもしなくても意味はないだろう。
「なんだ小僧っ子、喉の調子でも悪いか?」
 さすがに隠し過ぎなかったのが悪いのか、そんなツッコミを受けて五度目のため息が出そうになる。誰のせいだと思っているのだ、誰の。
「そう言えば小僧っ子、今日の昼前に公園で見かけたぞ」
「だからその小僧っ子ってやめてくれない、ますみちゃん?」
 ソファにふんぞり返って一杯目の紅茶を飲み終わった新山警部は、そんなロキの言葉などいつも綺麗に黙殺してくれる。
 そろそろこのやり取りは嘆願の域に入りそうだなと考えながら、闇野は新山警部に二杯目の紅茶をすすめた。香りや味を楽しんでいる様子もなくずずずーと音をたててすするところなどなんとも紅茶のいれ甲斐もない客ではあっても、客は客。屋敷の主の品位を下げる必要はないだろう。
 新山警部は、闇野の微妙な葛藤なんかにもちろん気がつくはずもなく、二杯目の紅茶も一息に飲み干した。
「いやぁ、お前さんがあの東山君と知り合いだったなんて驚きだなぁ」
「……」
「あのカスミちゃん、かわいいだろう?」
「……」
 ヘイムダルやフレイの言葉は口からでまかせだったのだろうか。やっぱり誘拐なのだ、幼児誘拐。でなければ、勤務中にこんなところに居ついている不良とは言え、新山警部が一般庶民である小学生や赤ん坊の名前を知っているはずがないではないか。
 との疑惑がロキと闇野の心中にまざまざと浮かぶが、新山警部は不自然にひっくり返ったままそっぽを向いた。
「カスミちゃんの父親の話なんか、東山君から聞いたりしてないだろうなぁ。東山君も知らないだろうなぁ、叔父さんのコトなんか」
「……ますみちゃんってば、あの赤ん坊を見てたの?」
 正体は北欧の神であるとは言っても、この世界ではたんなる小学生――立派な不登校児ではあるが――で通しているヘイムダルと、親戚でもなんでもないフレイが預かっている赤ん坊。
 ヘイムダルの謎の言葉。
 新山警部が彼らを見ていた事実。そしてそれをわざわざこちらに告げる意図。
 それらから導かれるのは、彼女が――ヘイムダルとフレイに誘拐された線を消すとするならば――なんらかの事件に関わっていること。
「東山和臣氏がなぁ、行方不明なんだよなぁ。なんともまぁ、不憫だよなぁ。あんなにちっこい女の子が、両親と離れて、しっかりしててもまだ子供の従兄弟に預けられてるなんてなぁ」
 壁に向かって続けられる、新山警部の謎言葉。
 雨はますます激しく降り注ぎ、ロキに波乱の予感を与えるのであった。

   * * *

『それじゃぁそろそろ帰るわ。これでも結構忙しい身なんでな』
 燕雀探偵社で遅めの昼食とはやめのおやつよろしくサンドイッチとデザートまで平らげてから去った新山警部を見送るかのように雨はやみ、西の空から雨に洗われた空気を通してまばゆい夕陽が世界を照らす時間になっていた。
 そんな時間まで、ロキは定位置に腰掛けたままなにかしらを考え込んでいた。闇野がいれた紅茶に手をつけるでもなく、広げた洋書を読むでなく、じっとなにもない宙を睨んでいる。
「ヤミノ君……」
「はい、ロキ様」
 名前を呼んだきりまた無言になるロキの言葉を、闇野は辛抱強く待った。こんな表情のロキは、頭の中で膨大な量の考えごとをしているのだとわかっているからだ。
 そしてその考えごとをまとめ終わってからその答えを後押しする為に、意見を求めてもらえるようになった我が身が嬉しいと感じる一瞬でもあった。
 フェンリルも今はソファに移動して丸まっていたが、どこか張り詰めた空気を感じ取って沈黙している。
 ロキは、ようやく意見がまとまったらしい。顔をあげ、今度はしっかりと闇野を見つめて、名を呼んだ。
「ヤミノ君、ヘイムダルって結構貧乏くじひきまくってるよね」
 だからもって、長時間熟考し、真面目な顔で向けられた言葉がそんなものだったので、闇野はなんと返していいのかわからずに口を噤んだ。
「虹の橋の門番を押し付けられた時だってそうだ。ヘイムダルのヤツ、引き受ける義務なんてなかったのに、ヒトが良すぎるって言うかやっぱり貧乏くじだよネ。その上、植物の成長が聞こえるほどの聴覚に千里眼なんてものも押し付けられて、挙句の果てにはそれのおかげでボクに右目までとられてサ」
 右目をとれって命令したのはオーディンだからボクのせいじゃぁないにしてもさぁ。そうだ、それで恨まれてるって理不尽じゃない?
 ロキはぱたぱたと片手を振りつつ、だらだらとヘイムダルの苦労話を語っている。その様子は心底嫌そうにも見えた。
「こっちに来たらこっちで、行かなくてもいいだろう塾になんか律儀に行ってるみたいだし? 親戚付き合いなんかに巻かれて、なにやらワケ有りの赤ん坊の世話までやっちゃってるし? いやぁ、ここまで来ると、ヘイムダルってとってもイイヒトって感じしない? 尊敬しちゃうな」
「ロキ様、その口調はちっとも『尊敬』なんて感じられませんが」
「まさしく『ざまぁみろ』の口調だね、ダディ?」
 闇野もフェンリルも苦笑する以外なにもできなかった。長々と考え込んでいたかと思えば、彼の口から出てくる言葉のなんと大人げない。
「でも、まぁ、カスミちゃんの父親が行方不明なまんまってのは、別問題だよな、うん。父親の件で母親も忙しくて、なんてのもかわいそうだし」
 べらべらとしゃべり続けていたのとはまったく違う口調でロキが結論を口にしたので、闇野は先とは違う笑みを浮かべる。フェンリルも、黒々とした目でロキを見つめた。
 穏やかに変化した空気に、ふたりは目を細める。自分たちが大好きな父親は、なによりも家族思いなのだ。その想いを向けられているのが自分たちなのだと考えると、なんとも嬉しくてこそばゆい心地がする。
「両親と離れ離れなんて……寂しいし」
「そうですね。できれば、一緒にいさせてあげたいですね」
 自分たちのように、家族がバラバラになるなんて――嫌ですね。
 闇野が口にしなかったその言葉を、ロキもフェンリルも心の中でしみじみと呟く。離れ離れの気持ちは、誰よりもおのれたちが知っている。
 ぷにゃんっ。
 血の繋がらない式神が存在を主張するかのように鳴くと
「えっちゃんも大切な家族だよ」
 おいで、とばかりに差し伸べられたロキの両手に、えっちゃんは喜んで飛び込むのであった。




公共料金とかちゃんと払っているらしいです。