共同戦線異常あり 

【 3 】






 そのマンションの一室には『東山』と表札が出ている。そこは、母親と小学生の男の子のふたり暮しであるはずなのに、実質は、子供と謎の若い男が住んでいた。
 そして現在響き渡る、喉が裂けよとばかりの赤ん坊の泣き声に、隣近所の住人は
「東山さんちはどうなっているのだ?」
 と首をかしげていた。
 そんな隣近所の疑問など知るはずもなく、赤ん坊を泣き止ませようと必死であやす小学生もといヘイムダルであるが、今日はとことんと機嫌が悪いのか、気に入りのおもちゃを与えても、たまごボーロを出してきても『ぺいっ』と片手で拒み、更に甲高く泣き叫ぶありさまだ。イヤイヤをしてゴロゴロとベビーベッドの上で転がりまわっている。
「カスミ〜、勘弁してくれ〜〜。隣の部屋から苦情が来る〜〜」
 真剣に困ったヘイムダルは、まだ言葉などわからぬ赤子に必死に訴えた。ある意味、彼自身が泣きたい心境であった。
 これでも夜間などはぐずりもせずにすやすやと眠ってくれる子供なのでまだ預かってもいられるが、これが夜間も続くようならさすがにお手上げになるだろうなと考えたりもする。いくら神様であっても、できることとできないことがあるのだ。
 機嫌が良い時の無邪気な笑顔など見るとついほだされてしまうので、結局は面倒を見てしまうだろう自分など、とことんとヒトが良いのではないかともつらりと感じてしまうのだが。
 それに、ヒトの子の一歳と言えば、本来なら母親や父親と言った、血縁の、大人と生活するのが普通なのである。それが、本性は神とは言え、今は子供の姿の、実は血縁関係もまったくないおのれと生活しているこの赤ん坊の方が本当は色々な事柄を我慢しているのではないだろうか。時折そう考えられてならないのだ。
 黒々とした黒目、透明よりも澄んだ白目を見つめていると、この状況を『わかっているよ』と諭されている気分になる時がある。
「いやだからそうじゃないっ」
 今考えるべきは、この小さな従姉妹を泣き止ませること。隣近所がどうこうよりも、このまま際限もなく泣き続けて発熱でもされたら困る。
「カスミ〜〜良い子だから泣き止め〜〜」
「ヘイムダル、苦労してるみたいだねー。やっぱりキミって、どこまで行っても苦労人が似合ってるよ」
「な?! ロキ!!」
 はっと隣を見やれば、おのれと同じようにベビーベッドを覗き込んでいる宿敵の姿があった。
 いつの間に?! 気配なんて微塵も感じなかったぞ?? 
 と思うものの、場を圧倒するほどの泣き声の前では宿敵の気配など感じられるわけがない。
「女の子が泣いている時は、こうするのが一番さ」
「勝手にベッドの柵を下ろすな!!」
 ヘイムダルの静止なんて軽く無視してロキはベビーベッドの柵をおろすと、あろうことかその涙でベトベトの頬にむちゅーとばかりに口付けをした。
 その唐突な行動に、ヘイムダルがまっとうな対処をできるはずもなく、ただただ叫ぶしかできなかった。
「バカっ! 最低菌が移るじゃないか!!」
 その言い草はかなり難ありであったが、彼の偽らざる本心であった。
「あのねぇヘム、結果見てから文句言いなよ」
 とことんと呆れ果てたロキの口調に、赤ん坊へと視線を落とす。
 そこには、きょとんとした顔でふたりを見上げている、赤ん坊の姿が。
「幼くっても女の子は女の子。ボクの魅力で泣き止んだだろ?」
「一歳児を誘惑するな、この色魔っ!」
「し……色魔?! せっかくキミが苦労しているだろうからって協力してやったのに、ボクは悲しいっ」
「え? そ、そうなのか? すまん」
 どこかでやったやり取りに、ヘイムダルは思わず謝ってしまったのだが、
「や、ヘムに謝れるなんて気持ち悪いから置いといて」
 謝罪のしがいもない来訪者ではあった。
「そうそう、お土産忘れてた。つまらないものですがお納め下サイ」
「これはご丁寧に。って言うか、不法侵入だろお前!」
「細かいことは気にしない。あんまり神経質だと禿げるヨ」
『細かい』とか『神経質』とかのレベルじゃぁないだろう! との言葉をヘイムダルは必死に飲み込んだ。
 まぁ、今日のやり取りに関しては助かっている面が少なからずあるのであまり細かくつっこまない方がいいだろう。従姉妹が泣き止まなくて困っていたのは確かだし……。
 ヘイムダルは受け取った『土産』の紙袋を開けたのだが……
「歯固めビスケットにクッキー、たまごボーロ、ぴよぴよアヒル……お前、まともな土産のひとつも買えんのか?」
 なんとも脱力するしかなかった。しかも、ひとつひとつにハートマークのシールまでつけられている。
 アヒルの首にかけられたピンクのリボンに、思わずへにゃへにゃと脱力し床に座り込んでしまったヘイムダルの反応を笑える者はいないだろう。
「だーれがキミタチに土産だって言ったかね? カスミちゃんのに決まってるだろう? まだまだボクのことがわかっていないようだな、愛が足りない証拠じゃない?」
「僕はっ! お前のそんな不真面目なトコが大っっ嫌いなんだッ! 憎しみだけはハイオク満タンだッ!!」
「うわー、燃費悪そう。昨今のガソリン高騰のあおりで家計が火の車なんじゃない? とりあえず、それ以上アクセル踏み込むとカスミちゃんが泣くよぉ?」
「うっ」
 遊ばれているとわかりながらもそれに乗らずにはいられない損な性格のヘイムダルは、今回は弱みが別にあるのでなんとも不利が過ぎたのであった。
「……ロキ、一体ナニしに来たんだよ。見ての通り、お前と遊んでやる暇なんか一秒たりとも僕にはない」
「まぁまぁ。キミの為に来たんじゃなくて、彼女の為に来たんだ。……いや、結果的にはキミの為かな?」
 ロキはほのかな笑みを唇の端に乗せ、まだ小さな子供の、手の平の中央を指で優しく押した。ふにふにぷにぷにとした、なんとも言えない弾力で指を押し返す。
 なにも持っていない手にたくさんを掴もうとしているのか、子供はロキの指をぎゅうっと手の平全体で握りしめた。その力は、ひとりでは生きてもいられない非力な赤ん坊の存在から考えると、驚くほど強かった。
 まだ薄い桃色の爪が指先を飾っているのが不思議に思えるほどに小さな彼女に降りかかっている状況は、あまりにも可愛そうで。
「カスミちゃんの父親捜しの協力をするから、ちゃっちゃと情報を吐いた方がキミの身の為だと思うね」
 斜に構えた台詞をヘイムダルに向けながらもベビーベッドを見つめるロキの横顔はどことなく優しくて、ヘイムダルはいつもと様子が違う宿敵に唖然とし――『勝手に触るな』との言葉も吐けないのであった。
 詳しくは知らないが――ロキには、大神の命により、はやくに離れ離れになった娘がいると耳にしたのをふと思い出した。
「ところで、フレイがいないな」
 ロキはどうでもよいことに気がついたらしい。彼にとってのフレイとヘイムダルは単独の存在ではなく、あくまでセットであった。
「あいつは……カスミの父親の捜索に行ってる」
 どこから仕入れたのか、赤ん坊の事情を知っているらしいロキに隠しても無駄だろう。ヘイムダルは白状した。本気でロキがこの件に関わろうとするのならば、同じ目的で行動しているフレイにすぐに行き当たるはずであるし。
 しかし、ロキは遠い目をして、問答無用でフレイを切り捨てた。
「どーせフレイのことだ。考えなしに、うろうろと周辺を歩き回っているだけに違いない。ヒト探しは情報、そして足だ。ボクはあんまり体力ないから無駄足踏まないためにもイロイロ聞くから覚悟しな」
 ヘイムダルは、やっぱりこいつに借りをつくるなんてイヤだと思いつつ、先までの強烈な泣き声なんてかけらも感じさせないほど無邪気な笑みを浮かべた赤ん坊を見下ろし、
『こいつの為だ』
 とおのれに言い聞かすのであった。

   * * *

「ますみちゃんの独り言から推測するに、東山和臣氏は会社からの帰宅途中に行方不明になった、と。しかも、バスに乗った痕跡なしと警察の当時の捜査で判明」
「見事に普通の道ですねぇ、ロキ様」
「そうだねぇ。なぁんにも変な点のない道だねぇ。ある意味、拍子抜けしちゃうな」
 ロキと闇野はその会社の前に立ち、情報を整理していた。
 商店街からははずれた、ビルやマンションが建つ一角にその会社はあった。
 十階建ての、茶色い外壁をした、なんの特徴もないビル。そのビルの三階と四階が、和臣氏が勤める中小企業の支店フロアであった。
 和臣氏はこのビルを出て、バスで三区間走ったところに住んでいた。
 バス停までの短い通りは犯罪に巻き込まれるようないかがわしい雰囲気ではなく、小さな書店や食べ物屋、コンビニエンス・ストアがあるくらいだ。
 強いて言えば酒屋などがあやしいが、全国津々浦々の地酒を揃えているのが自慢のおしゃべりな三十代の男が店主で、その彼にしても和臣氏の風貌に心当たりはないと首を振った。
「和臣氏は特にアウトドア派なわけでもないので、思い立ったが吉日で山登りに行った、なんてオチもない、と」
「そう言えば、そんな捜索依頼もありましたねぇ」
「まぁそれはナツカシイ思い出と言うヤツなので横に置いとこう。カスミちゃんが生まれてからは、ますます寄り道なんかしなかったらしい」
「子煩悩なマイホーム・パパだったんですね。あぁでも、なにやら残業が増えたのか、帰りが遅くなったようだとの奥さんの証言があったらしいですねぇ。会社の記録には定時に帰っていることになっているそうですが」
「サービス残業なんじゃないかな? ボクたち、自営業で良かったねぇ」
 ロキはしみじみと呟いたが
「不定収入ですけどね」
 闇野につっこまれて、なにも言えない一家の大黒柱なのであった。特に今回は、収入らしい収入もない、完全趣味、ボランティア。返す言葉など有りはしない。
「奥さんの行動もおかしいし……。捜索願を出したくせに、三日後には取り下げたって? そのくせカスミちゃんをヘイムダルに預けっぱなしだったり、家に閉じこもりっぱなしってのも、どう考えても挙動不審」
「あやしすぎますねぇ。訪ねてみても、知らぬ存ぜぬで会ってもくれませんでしたし」
 ロキがヘイムダルをからかっている――もとい、彼から和臣氏の情報や風貌を聞きだしている間に、闇野は赤ん坊の実家を訪ねていた。だが、インターホン越しの恐々とした会話では信用なんてもちろんされるはずもなく、こちらはたいした情報は得られなかった。
 だが、ロキからしてみると、その状態自体も立派に『情報』となるらしい。
 いわく、東山夫人は、外に出ることすらできない状態。声にありありと猜疑心があらわれてもおかしくない状態。
 ちなみに、その訪問の途中東山家の近くで、うろうろと歩き回るフレイを見かけたらしい。やはりあてもなく歩き回っているだけのようであった。
「出勤経路や私生活にこれと言った問題がないとすると……あとは会社絡み、しかないだろうね? あやしいを通り越してる状態だけど、はてさて、これをどうやって証明したら良いやら……ボクにとってはそっちの方が難しいねぇ」
 ロキは、再びビルを見上げた。そこには、ロキにしか見えない、うっすらとした黒い影が色濃くまとわりついていたのであった。




アニメ版のクールな探偵はどこに行ったのだろう・・・。