A Flurry Of Falling Cherry Blossoms 

【 2 】






 困惑顔の闇野が書斎兼応接室に顔を出したのは、太陽が西の空にその姿をすっかりと隠しやった頃であった。
「ロキ様……まゆらさんの様子がおかしいのですが……」
「まゆらがどうかしたの?」
 うたたねなら良いものの、ソファでこんこんと眠り続けていては、さすがにブランケット一枚では風邪をひく。
 闇野に頼んでゲストルームにまゆらを運んでもらったのは、もう一時間も前の話。
「あの、それが、家に帰るか、夕飯を召し上がって帰るにしてもそろそろ起きた方がいいと思って起こそうとしたんですけど……」
 ――ヤミノ君らしくないな、なんとも歯切れが悪い。とのんびりと考えてなどいられない言葉を、闇野は躊躇いつつも口にした。
「……起きないんです、まゆらさん」
「起きない?」
「声をかけても、ゆすぶってみても……起きないんです」
 ナニそれ? 
 と口にする間もなく、ロキは二階の端にあるゲストルームへと走り出していた。闇野がここまで躊躇う。それが尋常ではないとわかるだけに。
 ドアを開け放した薄暗いゲストルームの、上品なグリーンでまとめられたベッドに横たわるまゆらは、肌の白さもあいまってぼんやりと光ってみえた。
「呼吸……」
 ドアを開けたまま部屋に入りもせず立ち尽くしていたロキは、それだけをぽつりと呟くのが精一杯だった。廊下の明かりが作り出す、足元の黒い影よりも暗い声だった。
「呼吸、ですか?」
 ロキに指摘され、闇野もまゆらの呼吸を観察する。先ほどまでは安らかに続いていた寝息が――今はまったく聞こえない。
 唐突にロキはまゆらの枕辺へと歩き出す。そして、枕辺にひざまずき、投げ出されていたまゆらの手をとった。指を手首にあてがい、目を閉じて脈をさぐる。
「……かすかにしか感じられない」
「ロキ様、それって……」
「これが普通の眠りじゃないってことだよ」
 冷たく凍えたまゆらの手から指を離し、ロキは黙って立ち上がった。
 一歩。微妙な間が、ベッドとロキの間につくられる。ほんのわずかの『間』であるはずなのに、傍らに立った闇野は、その『間』が途方もない距離に思えてならなかった。
「ロキ様、もしかして、あの手紙は……」
「厄介な相手の『お仕事』だったみたいだよ、まったく」
 立ち尽くしたまま、まゆらの白い寝顔を見下ろしているロキの横顔は、どこか無表情で――闇野はぞっとした。なにかを切り捨てた表情だったからだ。
「ロキ様、どうされますか? どなたかの仕業だったとしても、最終的な狙いがロキ様であるのなら、このままではまゆらさんは目覚めないかもしれません」
 ロキは、なんの反応も示さなかった。
「助けに行かれますか? それとも、このままにしておきますか? ある意味、罠とわかっていてロキ様が乗る必要はありません」
「……ヤミノ君、自分の言葉の意味、わかってる?」
 微塵も動かず返されたロキの言葉は、氷よりも冷たかった。
「まゆらさんを切り捨てても良いのではないかとの、提案です」
「……ッ」
 正当すぎるほどの正論に、ロキが返す言葉などあるはずがない。
 まゆらなど所詮、あまたいる『人間』のひとりで、身内でもなんでもない。切り捨てても害はない存在。
 こちらは『ヒト』ですらないのだから、『異種族』を切り捨てるのになにを躊躇う必要があるだろうか。
 ――その通りではあるけれど。
 動揺を押し殺し切れなかったロキの右手が強いこぶしを作るのをみて、闇野は淡く笑った。その『正論』を誰よりもはやく脳裏に閃かせたはずの人が、なにを躊躇っているのだろう、と。
「でも、まゆらさんはもはや大切な『家族』ですからね。そうは言ってはいられません。なにせロキ様は、身内には甘い方ですし?」
 ほんの一瞬でも、『まゆらを切り捨てる』なんて考えた自分自身が嫌だと感じたのなら、なにを躊躇う必要があるのだろう。
「……言ってくれるよ、ヒトの気も知らないで」
 ロキはようやく顔を上げ、闇野にかたい笑みを向けた。
 まゆらを助ける。それには、みっつの手段があった。
 まゆらが目覚めないのは、魔法で眠りの世界にまゆらの精神を閉じ込めているからだとすぐに知れた。そんなものは、神の世界においても『ルーン魔法の達人』と呼ばれていたロキにとっては、一目で知れる事実だ。
 手段の内のひとつめは、手紙の差出人を特定し、まゆらを眠りの世界に閉じ込めているだろう魔法を解かせること。一番安全で、一番確実で、一番の正攻法だ。
 ふたつめは、外側から反対魔法をぶつけ、無理矢理に精神を引きずり出すこと。失敗する可能性は高いが、最悪まゆらひとりの犠牲で済む方法でもある。なにより、上手くいけば短期間で済む。
 みっつめは――まゆらの精神世界にもぐり、閉じ込められた核を見つけ出すこと。
『ヒトの気も知らないで』――その言葉は、あきらかにみっつめの方法を意識しての言葉であった。
 精神世界に入るには、自我を保つ強固なガードを突破しなければならない。負ければ、まゆらを助けるどころか、ロキの自我すら崩壊するだろう。
 それを突破したとしても、精神世界とは曖昧で、混沌としていて、繊細だ。
 他者の、見られたくないものまで暴く罪悪感と、知らなくても良いものまで知ってしまうかもしれない恐怖感も立ちはだかっている。
 彼女がボクのことをどう思っているか――?? そんなものまで丸見えになるのは――ロキであっても恐ろしかった。
「ま、やるしかないけどね」
 ロキは、無理矢理にも強気の笑みを作った。
 他の手段は選択肢からはやばやと除外され、選ぶものはひとつしか残っていなかった。ひとつめは時間的猶予、ふたつめはハイリスクだからだ。
 正攻法が一番正しいとはわかっていながらも――精神の入っていない器は衰弱してその活動を停止するのも早い。悠長に犯人探しなんてできなかった。医学的に肉体を生かすのはできるかもしれないが、根本的な解決とは程遠いと、ヒトならざるロキにはわかってもいた。
「行って来るよ、ヤミノ君」
 ロキは、再び枕辺に膝をつき、まゆらの手をとった。生きているとは思えないほどに凍えきった手だった。
 ロキはその手を、おのれの額に軽く押し付け、目を閉じる。その姿は、神に祈るかのような静けさをまとっていた。
 ロキは視覚を閉じ、聴覚も閉じ、彼女の手をとる指と額以外の触覚も閉じ、ただひたすらにまゆらへと感覚を研ぎ澄ませた。
 かすかに脈をうつ血の流れにおのれの意識を乗せて行く――。
 額から彼女の指先へ熱を移すように……意識を澄ませて……少しずつ、少しずつ……彼女の中へ潜っていくイメージを――おのれの意識を混ぜるようにして、深く深く潜る――……海の底へ……彼女の中へ……闇の奥へと……
「おはやいお戻りを。ロキ様、まゆらさん」
 生きている気配が絶えたその部屋に、月は淡い光を投げかけるのであった。

   * * *

 第一のガード――『自己防衛』
 幾層にも重なり合ったその壁を潜り抜けたロキは、ある意味拍子抜けしてしまった。
 他者と自己を分ける壁がこんなにも簡単であるはずがない。
 だが、ロキは、水の膜を押し分けたほどの感触しか知らず、あっさりとまゆらの内側へと入り込んでいた。
 そして――精神世界とは、過去と現在が同じ場所に存在する、混沌とした場所。記憶や感情が断片的に漂う世界。
 そう認識していたロキは、目の前に広がる光景にも唖然としていた。
 そこは、夏の世界だった。
 どこかの学校の敷地内なのだろうか、遠くで子供のざわめきと、電子チャイムが聞こえた。
 暑い日差し、焼けた風、青々と緑を茂らせた木々の様子に、ロキは一瞬めまいを感じたほどであった。
「ここは……ドコだ?」
 冬の世界から来たので、この陽射しの中での厚手のコートは拷問だ。意識のみの存在であるはずなのに、この暑さは本物の感触だった。
 コートを脱いだロキが、ここがどれだけ変でもまゆらがいるのは確かだ、と気を取り直して周りを見回した時――木の向こう側から突然バレーボールが転がってきた。
 ロキの足元までコロコロと転がって、ゆっくりと止まる、白いボール。
「すみませーん、ボール、知りませんかぁ?」
 茂みの向こう側から飛び出してくる、女の子が。
「……まゆら?」
 その姿を目にして、思わずロキは呆然と呟く。
 目の前に転がったボールを目指してかけてくる彼女は、ロキが知る彼女よりも少し幼い顔立ちだった。
 いつものセーラー服ではなく、紺色のプリーツスカート。白いカッターシャツの胸元には『二―C 大堂寺』と書かれた名札。空色のリボンタイ。長い髪は、ゆるく編んでおさげにしていた。
 この夏の陽射しに焼かれたはずの腕が輝くほど白く見えるところなどは、ロキが知るまゆらと変わらない。彼女はどこか、日焼けとは無縁の存在だった。
 その腕が、当然とばかりにロキの足元に伸び、ボールを拾い上げた。
「あれ? キミ、どうしたの?」
 きょとんとしたまなざしを向けられて、迂闊にもロキはなにも言えなかった。
 ここはおそらく、まゆらが中学生の時の世界。
 まだ、燕雀探偵社で出会う前の世界。
 そうはわかっているものの――だからと言って、少しのショックもないわけが――ない。彼女の中には、たしかに『おのれたちと出会った』記憶もあるはずなのに。
 ――参った。
 ロキは胸中だけで呟く。
 彼女から知らない人を見るような視線を向けられるのがこんなにも辛いものだったなんて――知らずにいられれば良かったのに。
 ロキは、右手をぎゅっと握りしめて――痛みに耐えるしかなかった。