郷に入れば郷に従え 






 郷に入れば郷に従え。
 昔の人は良い言葉を残したものだ。

   * * *

 師も走るから師走。
 そんなうんちくが新聞やテレビに載る季節。
 寒さもめっきりひどくなり、出不精の燕雀探偵社の所長はますます出不精になっていた。彼にとっては『師走』なんて関係ないようだ。
 とは言っても、郷に入れば郷に従え。
 大晦日も押し迫った時間になれば、彼の目の前には蕎麦の丼が鎮座していた。ロキの好きな海老天がふたつも乗った豪華版だ。もちろん海老天は衣ばかりが大きな惣菜ものではなく、主夫がからりと揚げた海老天だ。
「年越し蕎麦の話題を聞くたびにねぇ」
 行儀よく両手をあわせて『いただきます』をしてのロキの台詞は、おばぁちゃんの豆知識の幕開けだ。
「細く長く生きられますようにって由来を思い出すより先に、借金取りじゃぁないんだけどなぁって思っちゃうんだよね」
 闇野が通販で取り寄せた、名人が作った一味唐辛子の入った小さな瓢箪を手にしながらの言葉に、闇野もえっちゃんも首をかしげるしかない。
「金を金槌で叩いて薄い金箔を作る工程は知っている?」
「金沢や京都が有名な伝統工芸です。その時にできる副産物があぶらとりがみですね」
「その時に、取りこぼした金の屑を、練った蕎麦団子に引っ付けて集めて火にくべれば金だけが残るってところから、蓄財祈願とか、もっと俗世的に言えば借金取りが師走時期に縁起担ぎとして食べたって説もあるんだ」
「借金取り、ですか?」
「う〜ん、借金取りに限定するのは語弊かな。江戸では米とかはツケ払いが普通で、年末に一括して店の者が集金にまわるんだ。それが伝わって、今は借金取りの縁起物。集金の取りこぼしがないようにって意味」
 まぁ、他にも諸説あるけど、ボクがまず先に思い出すのがその説なんだよね。
 ロキは蕎麦を啜りながらしめくくる。
 諸説あろうがなかろうが、年末に蕎麦を食べるのはこの国の風物詩だし蕎麦は美味いのでどうでも良いと言えばどうでも良かった。
 年末の風物詩も食べ終われば、いくら季節イベントとは無関係の燕雀探偵社でもそのまま寝るのは勿体無い。
 かと言って、テレビ嫌いのロキが主であるこの屋敷では、紅白歌合戦を観るなんて選択ははじめからありはしなかった。必然的に、行く年来る年がはじまるまで待つ必要もない。
「年末年始のご挨拶にでも行こうか?」
 なにせ、年が切り替わる特別な一日なのだから。それもいいだろう。
 ちなみに、万年赤貧神である鳴神は、年内は年越し蕎麦の配達に、年明けは年賀状の配達に命を燃やすと言っていたし。
 玲也は親戚の家に行くとかで二日前からここを離れているし。
 光太郎は家で年越しパーティを開くと招待状をくれたが、いくら『郷に入れば郷に従え』とは言っても無駄ににぎやかなのは興ざめだから丁重にお断りしたし。
 ヘイムダルとフレイは問題外。
 残るはまゆらだが、彼女の場合、状況は聞かなくてもわかる。
『高校にあがってから、年末年始はパパのお手伝い』
 誰よりも忙しそうだ。
 きっと、除夜の鐘、初詣と続くイベントにおおわらわだろう。
 さて、ボクたちの場合はどうなるのだろう? ロキはふとどうでも良いことを考える。
 昨今のイベント傾向に乗っかった参拝客となるのか、たんなる挨拶回りになるのか。神社関係者が相手となると、こんな時は微妙な線引きの上だ。
「パパさんにもご挨拶ですね」
「まゆらパパが一年で一番目立つ日だし」
 ある意味、どちらでも良いかもしれない。
 年末年始のご挨拶は、それこそ『郷に入れば郷に従え』の最たるものなのだから。
 ロキは仕立ての良い黒のコートにしっかりと腕を通し、良く冷えた夜の大晦日へと踏み出したのであった。

   * * *

 イベントごとを見逃すほど都心部はおめでたくはなく、各地では大規模な年越しカウントダウン・イベントなどが張られている。
 少し遠出して人波にもまれるのを選択する者も多かったが、やはり地元で年を越そうと考える者も案外多いらしい。
 石段を程よくあがったところにある、大堂寺 操が神主をつとめるその神社も、かなりの人出があった。
 十二月の最後の日、冷たく澄んだ空気にしずしずと乗って遠くまで響く除夜の鐘。
 ざわざわとさざめく人の気配。
 爆ぜる焚き火の音と、どこか懐かしい匂い。
 風が吹けば鎮守の森の木々が鳴く。
 年が切り替わる、厳かな雰囲気。
 空は良く晴れ、『宝石箱をひっくり返した』なんて陳腐な表現も違和感ないほどに、冬の星座が美しく煌く。
 一際目につくオリオン座のベルト。彼の死を悼んだ月の女神が投げた宝石。
 社内には奉納酒が樽で並び。
 一目で地元民とわかる年季の入った氏子たちと段取りの確認をしているらしい生真面目な顔の神主の姿もある。
 舞台はすでに出来上がっていた。
「へぇ。結構繁盛してるね、まゆらパパのとこ」
 そんな中に、黒衣のロキと、闇野、フェンリル、そしてえっちゃんのいつもの四人組が混ざっていた。これだけの人出、そして神社の境内であることがあわさって、何人かはぎょっとした顔で四人組を見つめていた。主に、上の方だ。
「信仰深い方たちって結構いるのですねぇ」
 闇野がつくづくと感心しているが
「単なる反射でしょ」
 大晦日には紅白歌合戦と除夜の鐘、年明けには初日の出に初詣。日本人のDNAに刻まれた反射行動。同じように、夏には盆踊り、秋には豊穣に関連した祭りに人々は繰り出す。
 ロキの言葉通り、今年も残り時間が百秒を切ると、どこからともなく数字を逆算する声が上がってきた。
 九十九! 九十八! 九十七!
 一秒進むごとに、唱和する声が増えてくる。なんともおかしくて、ロキは笑った。
「ロキ君じゃない。わぁ、来てくれたの?!」
「年末年始のご挨拶は、この国では習慣でしょ」
 またまたロキ様、素直じゃないんだからとの感想を闇野は飲み込む。なぜなら、実は年末年始のご挨拶にかこつけて、まゆらの巫女姿を拝みに来た主旨も一部入っているのだとわからないではない闇野であったからだ。
 社務所から出て来たらしいまゆらがロキを見つけてぱたぱたと駆け寄って来てくれたのに、周囲の男どもが「巫女さんだ巫女さん」とざわめくのがロキにとっては少しばかり予想外で鬱陶しかったらしい。何人かは許可も求めずに携帯電話のカメラを向けている。
 ――これでは、周囲の男どもとおのれの思考はなんらかわりがないではないか。
 だからもってあんな素っ気無い言葉を口にするのだから、息子の目からしても父親は本当に素直ではない。
 それでもロキが周囲の男どもに冷たい一瞥をくれたりなどしないのは、神社と言う聖域と年神を迎える神聖な時刻の相乗効果で、きっとそれらの写真は面白いものになっているだろうと考えているからだとまではさすがの闇野も考えが及ばなかった。彼らは可憐な巫女さんの肩に乗った白い影――ぼんやりと写ったえっちゃんの姿におびえて大騒ぎの正月を迎えるだろう。
 まぁ、それはまた別の話であるので、彼らの興味の範疇ではなかった。
 周囲の男どもが騒ぐまでもなく、まゆらはいつもとは違う巫女姿で、なんとも人目をひいていた。白い単に緋袴の姿は良く似合っていたが、恐ろしく寒そうだ。
「寒そうですね、まゆらさん。風邪なんてひかないで下さいね」
「こんなのは気合です、気合。それに、これからが本番ですし」
 カウントダウンは七十六秒。たしかに、これからが本番だ。
「振る舞い酒もする予定だけど、ロキ君は駄目よ」
 ロキは曖昧に笑うにとどめた。
『……祝い酒一杯でへべれけになった上に痴態まで晒す酒乱大堂寺親子の振る舞い酒なんて怖くて飲めないね』
 なんて、口が裂けても言えない。
『それに、振る舞い酒の一献なんか、飲んだうちに入らないし』
 ……見た目は子供でも中身は大人の、無言の主張だ。
「まゆら、お御籤やってるんでしょ。お御籤。せっかくボク専用の巫女さんがいるんだから、お御籤ひこう」
 さりげなく周囲の男どもへの牽制も混ぜ込んでいつもの我侭を口にするが、まゆらは素で気がついていない。
「でも、まだ年も明けてないよ?」
 カウントダウンは五十八秒。
「もう一分切ってるよ」
 それに、神社に来たのに賽銭のひとつも投げ入れていなければまともに社を見てもいないのだから、年明けなんて待つのは今更だ。
 それよりもなによりも、他国の神様が他国の神の社にお参りに来るところからしてナンセンスなのだし。
「もー、いいけどね。特別」
 お御籤を置いている白いテントへと向かえば、まゆら手ずから黒塗りの御籤箱を渡してくれる。
 からからと鳴らして数字が書かれた御籤棒を引き出せば、二十二番。
 ついで手渡された真っ白な紙に書かれていたのは、大きな『大吉』の文字。
「ロキ君、大吉!」
「でも、年始のお御籤って大吉多いって言うから、なんか複雑……」
「ここは素直に喜ぶべきですよ、ロキ様!」
 カウントダウンは三十五秒。
「それに、『運勢・波乱多し。要注意』『旅行・トラブル多し。北に向かうべからず』『家族運・大波有り』『願い事・精進しても叶わず』……やる気もそげる」
「わたし、二十二番だけは絶対にひかないようにしよう」
 まゆらが無駄な決意をした。
 カウントダウンは二十五秒。
「今年はとっても楽しかった。ロキ君や闇野さんに会えたし。不思議ミステリーも体験できたし」
 ロキは、除夜の鐘が鳴り響く中、誰よりもはやく松の枝にお御籤を結んだ。
 お御籤を枝に結ぶのは、厄払い。
 本来なら大吉のお御籤は持ち帰るべきものだが、二十二番のご宣託はロキのお気には召さなかったらしい。なにからなにまで『郷に従え』なんて、捻くれ者のロキにできるはずがなかった。
 その黒衣の後ろ姿を、まゆらはぶーと頬を膨らませて見ていた。
 神社の娘としては、そのあたりちょっと不服なのだけど、
「ま、ね。こちらも退屈だけはしなかったかな。来年も期待してるよ」
 くるりと振り返ったロキにそう言われ、あっと言う間にニコニコになる。
 カウントダウンは、とうとう十を切り、九、八、七……と、人のうねりが時を読む。
 五、四、三、二、一……
「明けましておめでとう、ロキ君!」
「今年もイロイロありそうだけど、よろしく」
 ニコニコで終わって、ニコニコではじまる新しい一年。そんな、綺麗な気持ちの切り替わりができるのなら、郷に入れば郷に従えもなかなか良いものだ。
 遠くのイベント会場であげられた花火がぱぁっと夜空に美しく花開き、境内にいるすべての人々は微笑みあったのであった。




『空ノ天球儀』シリーズはまだまだ続きます。今後もよろしくお願いいたします。