Diamant 

【 1 】






 ガラスの本質は液体だ。

   * * *

「うわぁ、綺麗ですぅ」
 良く晴れた空の下、少女がひとり、うっとりとした声をあげていた。近隣にある有名小学校の制服姿の、ふわふわと揺れる髪に大きなリボンをつけた大層可愛らしい少女だ。彼女があげる声は、そこが騒がしい駅前の横断歩道脇であるとの現実を忘れそうなほどにうっとりとした声で、なんとも微笑ましい。
 目の前に掲げられた籐のバスケットには、色とりどりの小瓶。
 透明な赤、深い青、新緑色、淡いピンク、琥珀色、神秘的な紫。
 細長いもの、ころんと丸いもの、ひし形に似たもの、長方形のもの、くねくねと歪んだもの。
 ひとつとして同じ色、同じ形はなかった。
 細い首にはこれまた色鮮やかなサテンやオーガンジーのリボンがキュッと結ばれていてとても可愛らしく、女の子の心をくすぐる。
「香水の試供品なの。お嬢ちゃんもどうぞ」
「わぁ、いいですかぁ。嬉しいですぅ」
 小さなもの、綺麗なもの、可愛いものが好きな年頃だ。少女――大島玲也の声も自然に弾む。
「瓶ごとに中身も違うのよ。そうねぇ、お嬢ちゃんには、これなんかがおすすめね。スズランの香りなの」
 籐のバスケットを持ったその人物は、玲也の目では、二十代後半の可愛らしい女性に見えた。細い紫色のフレームの眼鏡が玲也を覗き込んでいる。
 つばの大きな白い帽子に飾られた、繊細な青紫の花のコサージュが印象的な装いの女性だ。
「スズランですか。レイヤ、大好きですぅ」
 ペコリと礼儀正しく頭を下げ、玲也は淡いグリーンの小瓶とサフラン色のカードを手にちょうど青にかわった横断歩道を渡りだす。
 ちらりと後ろを振り返れば、試供品を配る女性は、今度は大学生らしき三人組に声をかけていた。あわせて、社会人らしいふたり組みも興味深げにバスケットを覗き込んでいた。この場所での試供品配りなど日常茶飯事の光景だから、警戒心なんてものは少しもなかった。
「うわぁ、香水なんて、大人みたいですぅ」
 玲也が香水瓶を陽にかざしかざししながらゆっくりと向かったのは、どこかと問わずともわかる燕雀探偵社だ。
「それにこのガラスの色も、ロキ様と一緒ですぅ」
 おのれの発言に『きゃっ』と照れてから、玲也は蓋を開けてみた。
 一月の冷たい空気を春の色に染めかえるかのようにふんわりと広がったのは、ナチュラルな花の香り。
「えっと、手首につけるですね。ドキドキですぅ」
 ちょんちょんっと両の手首に香水をつけると、ふんわりとした香りに包まれてとても幸せな気分になる。一般的に見れば『お年頃』と言うにはまだまだ年が足りない彼女であるが、『恋する年頃』に年齢制限などはないのだし、装いたい気持ちにも年齢制限はないだろう。
 玲也は『とても幸せな』気分のまま探偵社の鉄門を押し開け、いつものように屋敷の中へと足を踏み入れる。
 勝手知ったる屋敷の書斎に顔を出すと、香水瓶よりも濃い緑の目をした探偵が出迎えてくれる。玲也と同じ年頃の、黒衣を身に纏った少年探偵だ。玲也の中に宿った『とても幸せ』の温度が一度あがったみたい。自然と頬がほころんでしまう。
「おや、レイヤ、いい香りがするね?」
『きゃっもう気がつかれちゃったですぅ』
 玲也はもじもじとするしかない。
 その足元で、丸々とした黒い犬のフェンリルがくんくんと鼻を鳴らしたかと思うと、くしゅんっとひとつくしゃみをした。玲也の頭の上に着地したえっちゃんも同じようにくちっとくしゃみをして身体を震わせる。途端、玲也は泣きそうになる。『とても幸せ』がわしゃわしゃと霧散してしまったようであった。
「フェンリルはそんな意地悪しないで、こっちおいで」
『意地悪なんてしてないよ、ダディ』
 玲也には聞こえない言葉で反論する息子を膝の上に迎え入れ、ゴメンとばかりにその黒い頭を撫でるロキは、玲也に向けて微笑みかけた。
「レイヤ、ごめんね。犬の嗅覚は人より鋭いから、ちょっと慣れなかったみたい」
 とっても似合っているよ、と褒めれば、ほわっと玲也の頬が赤く染まる。『とても幸せ』はロキの微笑みひとつで玲也の手に何倍にもなって戻ってきていた。なんともわかりやすい。
 そこに、玲也と同じように燕雀探偵社に入り浸っている、おしかけ探偵助手の女子高生、大堂寺まゆらが
「こんにちは〜、ロキ君、レイヤちゃん、わんこっ」
 いつものように元気良く入ってきた。彼女の亜麻色の長い髪がふわりと揺れると部屋の中にほのかに香る芳香に気がつかないロキではなかった。
「まゆらもいつもと違う感じが……」
『ダディの嗅覚も犬並みだね』
 膝の上でつっこむ息子に、父親はなんとも言えない笑みを向ける。なんだか、ひどい言われようの気がして微妙だ。
「すっご〜い、ロキ君、どうしてすぐにわかるの?」
「以前、誰かさんに犬並みの嗅覚と言われたり……」
 あまり自慢できることではないので、ロキは曖昧にぼかす。
「もしかしてまゆらさん、白い帽子のおねぇさんに香水もらったですかぁ?」
「レイヤちゃんも?」
「そうですぅ。スズランの香水なんですよぉ」
「わたしのはホワイトローズだって」
 それぞれの香水瓶を取り出して、きゃぁきゃぁと香りを評価しあっている光景など、やはりなんとも言えない『至福の世界』ではあったが、ロキは少しばかり気になってしまった。
「ふたりとも、その香水、人から貰ったの?」
「はいですぅ。白い帽子にサフランのコサージュをつけてて、紫のフレームの眼鏡をかけたおねぇさんでしたよ〜。香水の試供品だって、道でたくさん配ってたです」
「そうそう、とっても可愛い小瓶がたっくさんだったよね」
「……まさかそれって、長い黒髪のヒト?」
「ちがうですぅ」
「それとも、ツインテールにした子?」
「違ったよねぇ、レイヤちゃん」
「……ショートカットとか……」
「ちがうですよぉ。くるくるのウェーブが背中まであって、茶色く染めてた可愛いおねぇさんでしたよぉ?」
 どうしたですか、ロキ様? 
 玲也とまゆらはわけがわからずに首をかしげるが、ロキはほっと息を吐いた。あからさまな安堵であった。
「……『あいつら』の仕業じゃないかと思って」
 フェンリルとえっちゃんだけが『誰』を指し示すのかわかって、うんうんと首を縦に振っている。誰だって『あいつら』を疑うねぇ――そんな様子だ。
 だが『あいつら』の存在を知らない者にしたら、どこか遠くを見る目で安堵しながらのロキの発言は謎言葉以外のなにものでもないだろう。
「あいつらって?」
 玲也とまゆらに綺麗にはもられ、慌てて話題をそらそうとした時、タイミングよく闇野が紅茶を運んできたのでなんとか『あいつら』――もといトラブルメーカーな『運命の女神たち』の話題から脱出できたロキは
「うん、ふたりともよく似合ってるなぁって思っただけ」
 かつての異称――『神界のプレイボーイ』――を髣髴とさせる微笑を浮かべて、なんとかふたりを丸め込んだ。
 世の中には、知らなくてもよいことなんて山とあるのだから。

   * * *

 五日後の午後、ロキは珍しくえっちゃんを頭に乗せて、ひとりで街をぶらぶらと歩いていた。
 ここ二日ばかり大雪が降って屋敷に閉じこもりとなると、出不精のロキと言えど外に出たくなるらしい。一月の冷たい空気がそわりと頬を撫でていくのも、不快と思えば不快に、気持ち良いと思えば気持ち良く感じられるものだ。ようは、同じ現象でも気の持ち方ひとつで見方がかわる。
 慌しくにぎやかな大晦日や新年も過ぎ、成人式も終わったとなれば、今度は聖バレンタイン・デーまでしばしイベントはお休み。街も、雪と白のシンプルな装いが似合うのだが、気の早い店などでは節分とバレンタイン・デーのディスプレイが組まれていたりした。季節に敏感であるのか鈍感であるのか、なにやら考え込んでしまいそうだ。
 そんな白い街を、これまた白い息をほわほわと漂わせながらぶらぶらと歩いていたロキであったが、途中からなんとなく気分がむかむかと悪くなってきた。
 それは、歩道のそこかしこに残る踏みしめられた茶色い雪や、雪で汚れたショーウィンドーに気がついたからではない。
 街のそこかしこで腕を絡めて歩く恋人たちの多さにうんざりしたのだ。
下は黄色い帽子をかぶった幼稚園児から、上は杖をついて歩くカップルまでと、色とりどり、年齢とりどりの恋人たち。
 楽しそうに語らい笑いあうカップルや、無言でも楽しそうなカップルを見るのは別に嫌いでもなければ好きでもなく、はっきり言えばどうでも良いが、それらがこうもたくさん道々に溢れかえっていると腹も立つ。
 バレンタイン・デーはまだまだ先なのに、一体どうなっているのだろう?
 それとも、成人式で見合いパーティでも催されて、秋津国に住む縁結びの神様が降臨して節操なしに縁を結んだとか?
 目の前にあふれるカップルたちが尋常な数でない為に、あんまりにも馬鹿馬鹿しい考えも浮かぼうってものだ。
「いくら寒いからって、それはないんじゃないの?」
 ――いや別にうらやましいわけじゃないぞ。
 ロキは誰に弁解するでもなく口にするが、確かに『いくら寒いから』の理由ではこれだけのカップルが発生するはずがない。そうであれば、北国などカップルだらけのはずし、破局は即死活問題になるだろう。
 えっちゃんは意味がわからず、ロキの言葉に首をひねって『ぷにゅ?』と鳴くだけだ。
 道ですれ違った制服姿の恋人同士で数を数え始めて二十二組目だが、
「……あれって、小学生と高校生のカップル……」
 思わず目で追ってしまったのは、近隣の小学校の制服を着た三・四年生くらいの女の子と、高校の制服を着た男のカップル。
 それって有りなのか。思わず呟いてしまうが、指と指を絡めあってラブラブと歩く様子などあきらかなバカップルだ。その間にある空気は、けして『兄妹』なんかではない。なんとも言えない身長差と年の差に、ロキはなにを言うこともできなかった。
「ホント、カップルばっかりー」
「あれでしょ、恋が叶う香水!」
 ロキの後ろを歩いていた女子高生の会話が自然に耳に入る。
「あたしも欲しかったんだけど、もう配ってたヒト、いないんだって」
「ユイとマッチーはもらえて、で、アレでしょう」
「ナカニシとタカシナ先輩に告られたんでしょー。もーぅしんじらんなーいうらやましーい」
 きゃーきゃーと甲高い声でしゃべくり続ける女子高生の会話の内容で、なんとなくこの街の状態がわかってきたロキであった。
 願いが叶う神様の宿った樹の葉っぱとか、恋が叶うおまじないとか香水とか、この国の人たちは本当に流行りもの、他力本願が好きだ。そして、それを頭から信じ込めるのだから、なんともおめでたい。願いや恋愛ごとが『香水』なんかで叶えば誰も苦労はしないだろうに。
 けれど、実際にこの街の様子を目の当たりにしてしまうと、そうと断言はできない気分になるロキであった。
「ふ〜ん、ますますもってあのヴェルダンディーの仕業じゃないのが不思議だねぇ。そう思わない、えっちゃん?」
 頭の上で式神がうんうんと頷く。えっちゃんだって、あのマッドサイエンティスト含む『運命の女神たち』が今までどんな騒動を巻き起こしているか知悉しているのだ。
「まぁいいや。ヤミノ君とフェンリルにお土産買って帰ろうねぇ」
 ロキは、家族がお気に入りのたい焼きを買いに店へと向かうのであった。




ロンリーな探偵の呟きはちょっとどころでなくイタイ。