Diamant 

【 2 】






 ひさびさの散歩にでかけた日は天気の谷間だったのか、それから再び二日間雪降りで屋敷に閉じ込められっぱなしだったロキは、やっぱり三日目の晴れの日には街へと繰り出していた。
 一週間の内に二回も街中に散歩に出るなんて珍しい、とまゆらあたりが見れば驚くだろう。しかも、頬が切れるかと思うほどにキンと冷えたこの世界に、燕雀探偵社の所長が出てくるなんて天変地異の前触れかと思えるほどに珍しい。
 なぜならロキは、事件でもないのであれば、書斎でぬくぬくとあたたまって紅茶に読書を堪能する方が好きだと常々行動で示している少年であったからだ。
 その、天変地異の前触れを具現した少年の手には現在、ごぼうとれんこんが入った買い物袋が下がっていた。
 良く晴れた青い空に白い雲、かっちりとしたシルエットの黒衣、そして茶色いごぼうと白いれんこん。
 野菜は泥つきの方が新鮮でおいしいんだよねぇとおばぁちゃんの豆知識を思い出しつつ、アンバランスな彩りを纏いながらロキは商店街を歩いていた。
「散歩に行くから、なにか買い出しがあれば買ってくるけど?」
 玄関前の雪掻きに忙しい主夫に声をかければ、お節料理からこちら和風料理に凝っているらしい闇野からのリクエストが、なんとごぼうとれんこん。
 今日は煮物になるらしい、とつらつら考えながらごほうとれんこんを店先で選んでいたロキの姿は、日本人離れした容貌とあいまってとてもシュールであったと某多角経営者の息子は証言する。思わず声もかけられなかったほどだと彼は続けた。
 そんな誰かさんたちの意見などもちろん知らないロキは、えっちゃんを頭の上に乗せてぶらぶらと街を歩いていた。
 やっぱり今日も今日とて目に付く、街のそこかしこに沸いて出ているアツアツラブラブのカップルたち。
 一月の空気も、彼らをくっつける為に気温を下げているのではないかと、問答無用で傍観者の位置に立たざるを得ないロキは再び考えたりする。
「さむ……」
 心が寒いわけじゃないぞ。
 頭上のえっちゃんに言い訳するでもなく口にするが、えっちゃんはなだめるかのようにロキの頭をなでなでした。
 わー、あの小学生と高校生のカップル、まだ続いてるんだー。
 ふと気がついた、道路の反対側をラブラブと歩いているあの年の差カップルをぼんやりと見送っていたロキは、背後にある細長いビルの小さな扉が突如開いてそこから人が勢い良く飛び出てくるのに気がつかなかった。
「うわぁっ!」
 小さな身体に後ろから勢い良くタックルをくらわせられれば、叫び声と共に倒れるしかない。これ、自然の摂理。
 がつっと道路に倒れた上から、追加打撃とでも言うようにその人物が倒れこんで来て、ぐぇっと潰されたカエルよろしくうめくしかないのも自然の摂理であった。そこに神様も人間も隔たりはなかった。
「……イヤァ! ごぼうの匂いがする!!」
 ロキに勢い良くタックルをくらわせ、そのままのしかかるように倒れこんだ人物は、とてもとても間違った言葉を口にしてガバリとロキの上から飛びのいた。まるで、こちらが悪いと言わんばかりの叫びだ。
 ……謝罪の言葉はないんかい。
 やさぐれそうになった彼の心境は、誰が見ても否定しないだろうと……思われるものであった。

   * * *

「本当にごめんなさい。キミ、大丈夫だった?」
「ま……まぁ、大丈夫」
 ロキは、なんとも歯切れの悪い返答を口にしていた。
 確かに、したたかに顔面を打ったけれどもそれもたいしたことはないし、足を捻挫したわけでもない。
 相手は小柄な女性であったし、通りすがりの人間に意地悪をするほど暇でもないので、さらりと謝罪の言葉を受け取って道を急げばよかったのに、今彼らは、なぜか公園のベンチに並んで腰かけていた。
 それはなぜかと考えれば、彼女のいでたちが、サフランのコサージュを飾った白い帽子に紫色をしたフレームの眼鏡をかけた、その、数日前に耳にした姿と同じであったからと言うよりは……一瞬目にした、眼鏡の奥の色が――不遇のおのが娘を連想させたからかもしれない。
 傷ついた鳥。
 そんな謎の言葉がふと胸中をよぎり、ロキはどうしてだかひっぱられるようにして公園に居たのだった。
 と言っても、彼らの間には微妙な間があった。どうやら、間にある『ごぼう』が深い溝になっているらしい。
 かわりに、互いの口元からほわほわと立ち上る白い息がその隙間を埋める。空気は相変わらず、切るように冷たい。頭の上にちょこりと座ったえっちゃんだけがほこほことあたたかかった。
「おねぇさん、ごぼう嫌いなの?」
「ごぼうの独特な匂いがイヤなの。ささがきにしてる時なんてもう最悪。鼻つまんで逃げちゃう。でも、食べるのはスキ。食物繊維たっぷりでしょ。れんこんも好きよ。はさみ揚げ大スキ。作るのは苦手だけど。あ、はさみ揚げ作るって言ったら、残った油どうしようとかいつも思うのね。ちょっと途方に暮れちゃったりしない?」
「さぁ、ボクはもっぱら食べるの専門だから」
「食べる専門で人生過ごしていけたら幸せよねぇ! 憧れちゃうわ、そんな生活!」
 ……なんとも面白いおねぇさんだ、と思わずにいられない。くるくるとかわる表情の豊かさとたたみかける口調はまゆら以上だ。年の頃は二十代後半であろうに、まとう雰囲気はどこかしら純粋無垢な少女のもの。
 ふわふわとカールさせた茶色い髪に、くるくると良く動く大きな目。丸くふっくらとした頬。全体的に『可愛らしい』
 軽やかな黄色いスカートは、コサージュのサフラン染めを連想させた。青紫色の花であるサフランで布を染めると、夜明けに差し込む一筋の金色になる。季節に先駆けて咲いた春の色。
「それにしてもおねぇさん、凄い勢いで飛び出てきたね。どうかしたの?」
「あ……うん、ちょっとあって」
 女性は、膝元に視線を落とした。ロキは打ち身以外は無傷であったが、彼女の膝には出血まではしていないが、痛々しい擦り傷があった。
「うん、ちょっと、ふられちゃって」
 膝の上できゅっと握りしめた両の手は、たおやかな女性の小さな手とは言えない、どこか無造作に太い指。うつむいた横顔は、不自然に焼けた色。
 なんともアンバランスな印象で、ロキはそれらが不思議だった。
 ちぐはぐな印象。失恋をしてきたばかりとの告白を聞いても『かわいそう』との感情が微塵もわかない彼女の雰囲気。
 それはどこに由来するのだろうか?
「おねぇさんをふっちゃうなんて、贅沢な男だね」
 見た目だけなら充分可愛い彼女。話す口調も可愛らしい。けれど、どこか空虚な気がするのは何故だろう?
 彼女は、他人で、子供で、案外と聞き上手なロキを相手に話を続けた。
「彼ねぇ。いろんな花を蒸留して、自然な香りの香水をつくってるの」
「それでその人の為に、香水の試供品を配ってたの?」
 知ってたの? と彼女は眼鏡の奥で目を丸くする。
「知り合いの子たちが話してたから。願いが叶う香水だって」
「そうそうその噂ねぇ。それでねぇ、あの人、怒っちゃって。カードにお店の名前載せておいたから女の子たちが殺到しちゃってねぇ。『自分がつくったものを気に入って買ってくれるんじゃなくて、お守りにされるのは真っ平だ』って。きっかけは『お守り』でも、その内のひとりでも本気で気に入ってくれたらめっけものだと思うんだけどなぁ。そんな考えは怠惰の極みなんだってしかられちゃったの」
「へぇ、理想高そうだね、そのヒト」
「試供品って街で宣伝したのも、勝手にうちにある瓶に詰めてやったことだから、ケンカにもならなかった。……って言うか、『彼女』でもなんでもなかったんだって、あたし。願いや恋が叶う香水――なんて噂立っちゃって、配った本人が失恋以前なんて、意味ないじゃないって感じ」
「……」
 だんだんとこの、彼女への違和感、奇妙な居心地の悪さの正体がわかってきた気がするロキは、口を噤んだ。
 彼女は、ロキの微妙な沈黙など気にもせず、しゃべり続けている。
「あたしねぇ、実は、こう見えてもガラス職人の跡取りなの。見てよこの手、不細工でしょう? でも、あたし、ガラス作るの大スキよ。だって、綺麗でしょう? 色も形も自由自在だし。試供品で配ったのもね、全部あたしが作ったの。これでも職人歴長いのよ、子供の時から工房は遊び場だったもの」
 彼女は、悲しみを握りしめるように見えていた両の手をひらひらと閃かす。それはどこか、気まぐれに花から花へと移り飛ぶ蝶の動きを連想させた。
「彼がね、うちの工房にオリジナルの香水瓶を頼みに来た時に知り合ったの。あたし、こだわり持ってるヒト、スキ」
 彼女はロキの沈黙にも気づかず、話し続ける。
「でももういいの。あたし、すぐにスキな人、見つけられるから。あたしって昔から恋多き女って言われてるの」
 トラブルメーカーとも言われてるけど、どうしてかしらね?
 心底不思議そうに問われたけれども、ロキには返す言葉はなかった。
 周囲の意見はとても正しい。彼女は、他者の言葉を耳に入れることを知らないタイプの人物であったからだ。
 違和感の原因は――他者に追随するタイプに見える外見の中におさまっている自己完結の強い精神構造。『他者』が微塵も存在しない極端な思考。
 ほんの少し前までこの世の終わりのような顔をしていたのに、今はもう新しい恋に一直線になっている、ある意味幸せそうな顔。
 一瞬でも娘に――ヘルに似ているなんて思ったのが悔しくなるロキであった。