Diamant 

【 4 】






 ロキは、闇野にふたりを預け、自身は街へと出ていた。
『恋が叶う香水』の効力は切れたのか、ラブラブのラの字もアツアツのアの字も街には見当たらなかった。鬱陶しいほどに道に溢れていたラブラブカップルたちが急にいなくなると、それはそれで妙に寂しく感じるのだから不思議だ。
 それどころか、いつもよりもあからさまに人影が少ない。これが新しい『香水』の効果なのだろうか。
 年中無休のはずの店舗も幾つか、不自然に閉まったままだ。店主やスタッフまでもが『呪い』に巻き込まれ、店を開けるに開けられないのだろう。もしかしたらそんな思考すらなく、昏々と眠り続けているのかもしれない。
 そんな違和をひとつひとつ拾い上げながら、ロキはあの公園近くにある小さな店で目当ての人物をようやく見つけた。
 今日はつばの大きな白い帽子ではなく、黒いベレー帽をかぶり、くるくると巻いた髪を流した後ろ姿。ふんわりとした黒いベルベットのスカートから伸びた足に黒い靴。手には黒い手袋まではめていた。
 以前は上から下まで淡い春の色尽くめで冬のさなかに咲いた季節違いの花のようであったが、今日はどこからどこまでも黒い無彩色の姿で、それはどこか影に似ていた。それも、あるかないかの光につくられた、薄い薄い影だ。
「おねぇさんっ。みーつけた」
 彼女は、宝石店の軒先にやや突き出す形で設置してある背の低いショーケースを、上半身を預けるようにして眺めやっていた。
 この手の位置にある商品は、手頃な値段のピアスやプチペンダントが飾ってあるものだ。砂粒のような宝石が飾られているが、それらは照明の力を借りてキラキラと鮮やかに煌いていた。
 ロキの声に彼女はゆっくりと振り向いたが、どこか表情に乏しい顔だった。
 寸の前まで煌く宝飾品を映していたとは思えない精気の抜け落ちた目に、ロキは気づかないフリをして
「知り合いたちの話の続き、聞きたくない?」
 公園へと彼女を誘うのであった。


 青い空、冬の空気の中でも色鮮やかな常緑樹。
 そこかしこに置かれたベンチも、そこにいる人物もかわりがないのに、ふたりの立ち居地は微妙に違っていた。ベンチに腰を下ろしているのは彼女だけで、ロキはその傍らに立っていた。
 ロキの手には、月と空を飛ぶものを模した魔の杖レイヴァテインが握られている。
 彼女はその杖の唐突な出現にも驚きひとつ見せず、黒縁眼鏡の奥からぼんやりとロキの姿をみつめているだけであった。
「おねぇさんでしょ。香水を使ったヒトたちや、その相手を眠らせているのは」
 ロキの指摘に対しても、ぼんやりとした視線を言葉を紡ぐ彼の口元へとふらりと流しただけである。数日前に話をした最後に『すぐにスキな人を見つけられる』と、やがて訪れるであろう新しい恋の予感に目を輝かせていた彼女と同一人物とは思えないほどであった。
「……眠らせてる?」
 自身こそが夢の中で生きているようなぼんやりとした声で復唱するが、ロキにはわかっていた。この街の異常は、すべて彼女に起因しているのだと。
「ローマ神話のエーオースって知っている? 『光』と『輝き』と名前がついた二頭の馬にひかせた馬車に乗り、太陽よりも早く空に駆けて『天空の門』を開く暁の女神。彼女は薔薇色の指を持ち、サフラン色の衣をまとっていると言われている」
「薔薇色の指……」
 彼女はゆっくりと両手をあげて、その手の平に視線を落とした。今は黒い手袋に覆われていて、その太い指も、炎にじわじわと焼かれた肌も見えなかった。
 薔薇色の指なんて想像できない。そう言わんばかりの色が、そのぼんやりとした視線から滲み出ていた。
「彼女はまた、女神アプロディテに呪いをかけられたのでも有名な女神。呪いってね、とっかえひっかえ、次々と新しい恋をする移り気な呪い」
「恋……」
「おねぇさんと話をした時、その女神の話を思い出しちゃった」
「恋……」
 ぼんやりと呟かれた単語に、正気に返る気配はなかった。
「本当はまだ好きだったんだね。香水作るヒト」
「……あたしが?」
 ロキは、ポケットから小さなカードを取り出した。それは、彼女が勝手に作った、調合師の店の住所が印刷されたカードだった。淡いサフラン色のカードには、色鮮やかな花のイラストが描かれていた。
「彼、寝る間も惜しんで香水作ってたんだ。それこそ、暁すら関係ないってくらいにね。おねぇさん、眠ってほしかったんだねぇ、彼に」
 彼女は、不思議そうにロキの緑色の目を見ていた。今まで作ったことがないほどに深い深い緑の目は、到底ガラスなんかでは再現できないもの。深く濃く透明に澄んで美しいかと思えば奥底に潜む光と闇の存在に気づくような。
 抗い難い魅力的な目だと感じながらも、もっと気になるのは、彼の言葉の方。
「あのヒト、まだ寝てないの??」
「おねぇさんの願い通り、今は前後不覚になるほどぐっすり」
 なにせ、街中巻き込んで『暁知らず』の状態なのだから、その中心人物が眠れずにいられるわけがない。
「変な『魔』だねぇ。おねぇさんの願いを叶えて、街中眠りの底に沈めるなんて」
 ロキは杖を構えていながらも、どこかおかしそうであった。
「まぁ、この現象の先に厄介なコトを考えていたのかもしれないけど……ボクの知り合いたちを巻き込んだのが運の尽き。キミの所業はこのまま『美しいお話』で終わらせてもらうよ」
 ロキはレイヴァテインの力を解放し――世界は暁の色に染まった。

   * * *

「ガラスって、ギヤマンとも言うじゃない?」
 花の香りの残滓がほのかにただよう、燕雀探偵社の書斎兼応接室。
「オランダ語で『ダイヤモンド』を意味する『ディアマンテ』から転化した言葉とも言われているんだよ」
 ロキは、いつものおばぁちゃんの豆知識を闇野相手に披露していた。
「ガラスも、磨き上げればダイヤモンドほどの価値になると思わない?」
「ガラスがダイヤですか……」
「ダイヤモンドも『地上最高の硬度を誇る』なんて言われているけど、決して割れないわけじゃないしね。金槌一本で簡単に割れるところなんて、ガラスも一緒じゃない? ダイヤモンドは火にくべれば燃えて跡形もなくなるって考えれば、液体にもどるガラスの方が柔軟性に富んでいて強いのかもしれない」
「ガラスの方が強い、ですか?」
 えっちゃんだけはなんとなく意味がわかったのか、闇野の頭の上でうんうんと頷いている。
「それにガラスって、自由自在に色も形も変えられるし、そう考えたらダイヤモンドよりガラスの方が面白いかも」
「はぁ……闇野はカラスやカササギではないので、ヒカリモノの価値はいまいち」
「ボクもヒカリモノの価値はいまいちわからないな。ガラスもダイヤモンドも、無価値と思えば無価値。この世にふたつとないと思えば貴重なものに感じられるし。ようするに、価値を決めるのは常に他人だってことだね」
「はぁ」
 時折、父親の言葉がわからない息子であった。
「だから、あのおねぇさんの指も、ぱっと見ただけでは女の子らしくない指だけど、自分がスキなことに没頭している職人の指だと思えば微笑ましいし。あの恐ろしく自己中心的なところも、超前向きとか強烈な個性とも言えなくないし。ダイヤモンドよりガラスの方がスキだってヒトもいるだろうなってこと」
 そんなヒトは山ほどはいないだろうけれど、たったひとりでも彼女の魅力に気がついて受け入れられる度量があれば、きっと彼女はダイヤモンドよりも魅力的なガラスになるはずだ。
「あいは〜あいはダイヤモンド〜〜ぉぉ♪ って歌もあったじゃない? 愛さえあればガラスもダイヤ」
 ロキの歌声は、言っては悪いが強烈な破壊力がある。
 その、ほんの短いフレーズを耳にして、ぐっすりと眠り込んでいたはずのまゆらと玲也がすごい勢いで飛び起きた。
「地鳴り?! ラップ現象?! 死霊のうめき?!」
 まゆらは大騒ぎで、玲也は顔面蒼白だ。
 闇野は
『ロキ様の歌声も美声と思えば美声』
 ……胸中で呟いたとか呟かなかったとか。





あいはだいやもんど。