傷つく鳥 






 北欧神話の邪神ロキの心臓を食べた、巨人族の魔女アングルボダ。
 その腹を突き破って、魔狼フェンリル、邪蛇ヨルムンガンド、半身が腐った娘ヘルは生まれた。
 後に、魔狼は極寒の地で鎖に繋がれ。
 邪蛇は海に投げ落とされ。
 娘は『闇と氷と死者の国ニブルヘム』へと差し出される。

 三人の子供には――『大いなる災い』との予言が下されていたから。

   * * *

 ――不遇の子供たち。

 誰よりも奔放な性格の父親は、それでも彼らをそう思っている。
 特に、遠く離れた死者の国へと差し出された小さな娘が不憫だった。

 キミがニブルヘムへと落とされる日に泣かなかったボクを恨むだろうか。
 半身の腐ったまま生まれ落ちたキミは、この神の国でも生き辛い。
 キミの生の為に、オーディンの――神々の提案を承諾したボクを恨むだろうか。
 死に近い姿のキミの命は、あのままではすぐについえてしまう。
 それを惜しみ、それ以上に恐ろしく感じたボクを不甲斐ないと罵るだろうか。

 ――キミを送る寂しい参列。
 その列を鷹になってどこまでもどこまでも追いかけたことをキミは知らないし……

 傷ついた鳥のようなキミの目を、ボクはどれだけ時が経っても、忘れられない。

   * * *

 高台にあるその古びた洋館には、都心部にほど近い街としては羨ましくなるほどの大きな庭があった。
 掃除炊事家事全般にプロ並みの手腕を持つスーパー主夫がいても、庭まではなかなか手がまわらず、少し気を抜くとなかなかに素晴しい鬱蒼とした緑の山が出来上がっていたりする。
 そこは、その地域に住む鳥たちの溜まり場になっていた。
 良く晴れた朝なんぞは目覚まし時計よろしく鳥がさえずり、なかなかゆっくりと寝かせてもらえない。趣きある庭と表現すれば聞こえがいいが、どちらかと言えば朝が弱い屋敷の主としてはもう少し静かに目覚めたいところで。
 まぁ、闇野に言わせると
「静かだとロキ様、いつまでたっても自力ではお起きになれないじゃないですか。丁度良い目覚まし時計です」
 耳に痛い台詞になる。
 今日も空はからりと晴れているのだろう。カーテンを開けなくてもわかる鳥たちの元気なさえずりでそうとわかるのだが、それが一転、バサバサ、ギャーギャーとした不穏な気配が立ち上り、さすがのロキもがばりと跳ね起きて窓をバンッと開けたのだった。
 冬の冷たい空気が、無邪気な悪意を持ってざわりとロキに襲い掛かる。
「あ」
 そこには、今まさに黒いカラスに空中で足蹴りを食らわされたスズメの姿。
 不吉な緩やかさで舞い散る羽毛と、ギチッと金属めいた声をあげたそのスズメは、くるくると螺旋を描いて地面に墜落した。
 ワァッと飛び立つ他の鳥たちの様子には目もくれず、ロキはパジャマ姿のまま庭へと向かう。
 なぜかカラスにも懐かれるロキであったので、得意げに空中を旋回していたカラスが見慣れない子だとわかると
「ボクの庭で殺生は禁止!」
 相手が言葉を解する生物ではないとわかっていながらも声をあげずにはいられない。
 燕雀探偵社の庭での暗黙の了解のひとつ『食物連鎖以外の殺生禁止』が保たれてこそ『燕も雀もくつろげる探偵社』なのだから。
 眼光が鋭かったのか、それともなにか他に感じるものがあったのか、カラスは慌てふためいて逃げ去った。
 視線を足元へと落とせば、スズメは地面に蹲りながらも、羽毛の隙間に空気をいっぱいに溜め込んで必要以上に丸々と膨らんでいた。
 その丸々とした茶色い毛糸玉の一部分だけが不自然に抜け落ちている。無残にも右翼の付け根の羽をえぐられ、地肌が露出していた。不幸中の幸いで出血はしていないようではあったが、このまま放っておくわけにもいかないだろう。
「威嚇のつもり? それだけの元気があるなら大丈夫かな」
 ロキは両手でスズメを掬い上げる。バタバタと動かそうとする両翼を包むようにすると、くるりと目を動かして大人しくなった。一月下旬の冷えた空気の中、手の中だけがほっこりとあたたまる。トクトクトクと速足で刻む鼓動は、小動物の命そのもの。
 ロキが庭を後にすると、騒動などとうに忘れ去ったかのように、朝に相応しいにぎやかな鳥のさえずりが再開されるのであった。


「ロキ様、それでその姿ですか……」
 遅めの朝食をロキに提供しながらの闇野の言葉には、苦笑が入り混じっていた。
 なぜなら食卓テーブルには、クロワッサンに野菜サラダにカリッと焼いたベーコン、コンソメスープ、コーヒー等々と並んで、スズメが入った小箱が乗っていたからだ。
 しかもスズメには、得体の知れない緑色の軟膏がべったりと塗りたくられている。これが、朝食がこんなにも遅くなった原因であった。朝から得体の知れない薬草を台所でじっくりことこと煮込まれては、朝食の準備などできるはずがない。
「あのままじゃぁ死んじゃうだけじゃない。うちの庭では殺生禁止」
 花の飾られたテーブルにセットされた椅子に上がり、前足をついて箱を覗き込んでいたフェンリルが
「こいつ、食べていい?」
 なんとも無邪気に口にするのを言葉だけで牽制する父親であったが、長男にとってのスズメは立派に『食物連鎖』の中に入るのだろうと考えると複雑で、ついつい野菜サラダのキュウリを与えてしまう。
 しゃりしゃりした食感のキュウリを大概の犬は好むのだが、フェンリルはぺろりと三切れ平らげて『腹に溜まらない』と嘆くので、プチトマトも与えてしまう。薄い皮をプチッと犬歯で裂く感触と、じゅわっと口に広がる甘味がお気に入りらしい。
 カリカリに焼いたベーコンの切れ端も彼の大好物で、フェンリルは期待に満ち充ちてキラキラと輝く目で父親を見上げた。
 犬は大概雑食でなんでも食べるものだが……はて、我が息子は犬の範疇に入れていいのだったっけかとそこに来て疑問を持ちつつも、ついついベーコンを与えてしまう父親であった。
 遅めの朝食が終わっても、いつものように書斎に向かうでもないロキの様子に、闇野は苦笑する。滅多にいつかない、まゆらが出入りするようになった頃に購入した大型テレビを据えたリビングに陣取って、スズメの様子を見ていたりした。
 左右の翼を広げては折れていないか丹念に調べているところなど、息子の目からしてもなんとも甲斐甲斐しい。スズメの方も保護されているのが理解できているのだろう、黒い目をくるくると動かしながらされるがままになっている。
「やっぱり、あいつ食べたい」
 薄く開いたリビングの扉の隙間からそんな父親の姿をこっそり盗み見しつつ、超弩級のファザコンの片割れが食欲なのか捕食欲なのかそれとも単純な嫉妬からなのか舌なめずりをするが、もう片方が叱咤する。
「駄目ですよ、兄さん。ロキ様は、リスとかネズミとかハムスターとか、小さい動物がお好きな、心の優しい方なんですから」
「でもあいつ、弱ってんじゃねーか。無駄死にさせるよりかは、フェンリル様の血となり肉となりだなぁ」
「だから駄目ですってば。それにまだ死んでませんし……それに、特に……傷ついた鳥は……ロキ様にとっては特別なんです」
「特別?」
「傷ついた鳥にヘル姉さんが似ているって、以前ロキ様が。ヘル姉さん、今頃どうされているでしょうね……」
「今頃もなにも…………かわりなんかあるはずないだろ」
 フェンリルの言葉に微妙な間があったことには気がつかず、闇野は『そうですね』と頷く。フェンリルがその顔をどんな気持ちで見上げていたのか、ちっとも気がついていないようであった。
 そんなふたりに、なんの前触れもなく声がかかった。
「なにやってるんだか、ふたりとも。そんなところにいたら寒いでしょ」
 薄く開けた扉の向こう側でもしょもしょと内緒話をしている息子たちをあきれた顔をして眺めやっているロキに気がつくと、闇野はひとり焦ってしまい
「あ、わ、だっ台所の片づけしてきますッ」
 らしくなくバタバタと足音をたてて逃げてしまった。
「そいつ、食べてもいい?」
 頭だけリビングに突き出して、小首をかしげての無邪気な問いかけに
「ダメ」
 苦笑混じりに駄目出しされて、肩をすくめて――犬もとい狼であるのであくまで比喩であるが――弟の後を追う。
 フェンリルはわざとゆっくりとした歩調で廊下を進みながら、父親との会話を思い出す。
 ヘルがこちらの世界にやってきて、弟を刺したこと。
 そして、ロキの前で儚く消えていったこと。
 その事実を自分は知っているが、弟はなにひとつ知らないこと。
 そんな『事実』をロキに確認したことがあった。
『あの子――ヤミノ君には内緒にしていてくれる?』
 こちらの世界でロキと合流してまもなく、ふたりきりの時間に向けた質問の最後にされたのは、そんなお願い。
『ヘルは一足先にいるべき場所に戻っただけなんだよ。ちゃんとニブルヘムにいる。以前となにも変わらずに』
 なにせニブルヘムは『闇と氷と死者の国』なのだから……ボクの力ではどうしようもないほどにあの子にはあの場所が必要で、あの国にはあの子が必要なんだ。
 そう続けたロキの顔は、どこまでも静謐で。
 そこに存在しているとわかっているからそれでいいのだと――無理矢理にでも自分を納得させているようでもいて。
 フェンリルは躊躇いもせず、ヘルの話を封印すると決めたのだ。
 自分たち兄弟にとっても、父親であるロキにとっても――ヘルは綺麗で可愛くて、小さな子供のまま、時を止めている。
 今はまだ、それでいいのだ。

   * * *

「ベツに、ボクは大きな動物も大好きなんだけどな。なにせボクの息子たちは、大きな狼と蛇なんだし」
 ロキはぽてぽてと遠ざかっていくフェンリルの気配を感じながら、膝の上に乗せたスズメに話しかける。
「それに、ヤミノ君もらしくないな。あんな話を覚えてるなんて……」
 どこか遠いものを見る目でおのれを眺めやるロキを、スズメは丸い目で見上げた。
「傷ついた鳥にヘルは似ているって言葉を……まだ覚えてたとは」
 うっかりと口にしてしまった昔の言葉を、あの子があんなに気にしていたとは思わなかった。
 父親失格だね、と自嘲気味に笑ったロキを、言葉のわからないスズメは不思議そうに見つめてから、こてんと首をかしげた。
 目の前で傷つかれるのは、まだ我慢できる。
 でも、手も届かない場所で傷つかれるのは、たまらない。
 傷ついた目をしたまま、遠くの地に離れ離れになるのは、同じ意味。
 手を伸ばせば届く場所にある傷なら、癒せもできように。
 遠く遠く離れて触れ合えない場所の、心の傷は――いつまでもいつまでも彼女をさいなませるだろう。
 そこにいてくれるだけでいいと気持ちを無理矢理に誤魔化しても、悲しい気持ちは変わらずそこにあるのに。
 ロキは、丸いスズメを両の手につかまえ、目を閉じてそのぬくもりを感じるのであった。




燕雀探偵者って、どんな由来で名付けられたのか大いなる謎です。
そして、捏造ネリネリしすぎな小話でした(笑)。