カンパニュラ 

【 1 】






 背の高い青年と、彼の足元でブンブンと尻尾を振る黒い犬と。
 そして、彼らを追いかけてきたと一目でわかる、上がった息を繰り返す黒衣の少年が。
 稲も植わっていない、はさがけもしていない、丸刈りにされたような田んぼが両脇に続く細い農道の真ん中で真向かっていた。
 三人の間に落ちているのは、長い沈黙と、なんとも言えない緊張と、夕陽が作り出す濃く長い影だけ。
「ロキ様……」
 青年のかすれた、情けない声に、少年は精一杯の虚勢を張る為に腰に手を当てて強気な声で名を呼んだ。
「ヤミノ君」
 青年が、怒られた子供のようにびくりと肩を震わせる。
 けれども、少年は声色をかえはしない。かえたりなんかできない。できるわけが――ない。
「キミがナニ勘違いしたのかなんて聞きたくないけど、キミがボクを必要としなくてもボクがキミを必要なんだから、家出なんて許さないよっ」
 一息に言い切った少年の言葉に相槌を入れるタイミングで、遠くの農家の鶏がコッケーと間抜けな声で鳴き、一月の夕刻色に溶けて行く。
 三人を見守るかのようにその屋根だけを覗かせた山寺から鐘の音がひとつ、美しく鳴り響くのであった。

   * * *

 都心部に程近い街に、その屋敷はあった。
 重そうな鉄門脇に掲げられているのはただの表札ではなく『燕雀探偵社』の文字。
 大きく古めかしい洋館。広い庭に鬱蒼と茂った庭木。高い塀がぐるりを囲んでいて、一種独特な雰囲気だ。
 家人は、所長である少年探偵と、秘書兼主夫の青年と、黒い犬。その他、普通の人間には見えない者たち。全員が全員、『ヒトならざる者』であった。
 そんな衝撃の事実を知らず、その探偵社に毎日のように入り浸る『不思議ミステリー』好きな女子高生の姿があった。今日も今日とて、日曜日の朝も早い時間から顔を出している。彼女にとっての『燕雀探偵社』は完全に『生活の一部』になっているらしい。
 彼女が来れば新しい紅茶のポットを用意するのは、もはや家事一般を一手に担う闇野の条件反射になっていた。
 だからもってその日も新しいポットを手に、主とそのおしかけ探偵助手がいるはずの書斎へと向かった闇野だったのだが……風が押し開けたのか、ほんのわずかだけ開いていた扉の隙間から聞こえたふたりの話し声に、ふと足を止めた。
「だからボクは思うんだ」
 主であるロキの声だ。聞こうと耳をそばだてなくても、自然と耳に入ってくる。
 闇野にとっては誰よりもなによりも好きな声で、話し声を聞いているだけで無条件で嬉しくなってくる。
 だが、彼が廊下にいるとも知らないロキは、きっぱりとした口調で言った。
「あのふたりの息子はいらない。とっても邪魔」 

 ……。
 邪魔。
 とっても邪魔。
 息子はとっても邪魔。
 ロキ様にとっての自分たちは……
 ――とっても邪魔??

 闇野は紅茶のポットを手にしたまま静かにきびすを返して台所に戻ると、窓際で式神と一緒に日向ぼっこを楽しんでいる兄の黒い尻尾を引っつかみ、そのままの勢いで外に出て行った。
 衝動的な家出。
 それ以外のなにものでもない彼の行動をとめる者は誰もいなかった。
 台所にはキラキラとした午前の光が落ちていつもの穏やかな光景を演出し、彼らの不在を隠しやるのであった。


「ヤミノ君? ヤーミーノーくーん??」
 まゆらが顔を出せば新しい紅茶のポットを持ってくるのが条件反射になっているはずの闇野がその日は顔を出さなかったばかりか、彼女が帰る時になっても姿をあらわさなかった。
 声を張り上げても彼は顔を出しもしない。廊下に、部屋に、ロキの声だけが微妙な余韻を残して響くだけだ。
「買い物に行くとかも聞いてないし……」
 ロキは、ひとがたふたりプラスアルファで生活するには無駄に広い屋敷を、闇野の姿をさがして歩く。
 それぞれの自室や、ゲストルーム、物置を覗く。優秀なハウスキーパーとして掃除をしている姿もない。
「おかしいな、お昼ご飯の準備もしてないなんて……」
 闇野の城である、日当たりの良いキッチンで昼食の準備をしている姿もない。
「フェンリルとえっちゃんもいないし……」
 だだっ広い屋敷に、ぽつんとひとりだけ。そう考えると、見た目は子供でも中身はいい大人であるのに、なにやら寂しく感じるものなのだから不思議だ。
 闇野とふたりきりで生活していた時もそれでいいと思っていたし寂しくはなかったのに、そこから少しばかり人数が減った状態になっただけで、今はもうこんなにも寂しい。昨日までの生活がそれだけにぎやかであったのかと、まざまざと思い知らされる。それが当然だと思い込んでいたおのれに、今更ながらに驚いた。
 一月の白い光が落ちたリビングも、あたたかく優しい印象なのに、そこに他者の気配がないだけでなんとも寒々しい。
 ロキは家人の姿をさがし求めて、まだ確認していない屋根裏部屋へと続く階段へ足を向けるのであった。

   * * *
 
 一方、その少し前の家出人は、フェンリルとえっちゃんを衝動的に連れて出て来てしまったが、なんの考えもなく街を歩いているだけであった。
 けれども、どこをどう歩いたのかすでにわからず、見知らぬ大きな公園のベンチで早々に途方に暮れていた。
 フェンリルはと言えば、
「ひとさらいーっ! だっでぃーたーすーけーてぇぇぇぇぇぇぇ!」
 荷物のように闇野に抱えられている間中声が枯れるほどに喚き散らしていたので、おかげで現在はぜいぜいと苦しそうに喘いでいるありさまであった。
 同じ境遇であったはずの式神は、フェンリルと一緒くたに抱えられている間くるくると目をまわしていて今さっき目を覚ましたところであったが、状況がわからずにうろうろと不安げな顔でそのあたりを飛び交っている。
 一月の冷気は歩き続けていた闇野の身体には心地よい感触を持って頬を撫でていく。
 毛皮に包まれたフェンリルにとってもそれは同じであったらしく、労感を吹き飛ばすように身震いをひとつしてから、
「お前、どうしちまったんだよ。いきなり『家』飛び出してくるなんて」
 見た目はいい大人であるのに捨てられた子供のようにしょんぼりとうなだれている弟に、ようやく落ち着いた兄が声をかける。
 どんよりと重たい空気を肩からぶら下げたまま、闇野がゆらりと顔をあげた。眼鏡の奥の目は完全に『腐った魚』だ。魂はかけらも入っていなかった。
 案の定、ようやく口を開いたかと思えば、その声にも生気はかけらもなかった。しかもその内容は、脳みそが壊れたのかと思えるほどのものだった。
「兄さん、私たちはロキ様の傍から離れた方がいいんですよ……」
「はぁ??」
 なにをやぶからぼうに、である。
『敬愛する父親から離れる』――そんな思考は、フェンリルの中にはミジンコほどもありはしなかった。いや、彼に言わせれば、ミジンコの足の、その第一関節よりも『ない』と誇るだろう。
 そんな兄であったので『何をこのバカ弟は言っているのだろう??』以外の感想は浮かんでこなかった。
「お前……なにか変なモノ通販で買ったのか? それとも天然の平和ボケ?」
 頭から怒鳴りつけて
『家出にオレを巻き込むな、勝手にしろ!』
 と言い放ちたいところであったが、フェンリルはなけなしの理性で衝動を押さえ込み、恐る恐る問いかける。
 なぜなら――寒い寒い地に、切れない鎖に繋がれていた長い長いあの時間は、簡単に忘れられるものではないからだ。
 おのれとたいしてかわらぬ状況で長い長い時間をたったひとりで過ごしてきたのは目の前にいるこの弟も同じであるのだから、それから解き放たれた今、なにを考えているのだろうと不思議であったので。
 思えば、この弟と、じっくりと『あの時』のことを話し合っていない。弟が暗く深い海の底でひとりなにを考えていたのか……知らない。そこからようやっと抜け出せたと言うのに、その平和からも逃げ出そうとしているのが理解できない。
 フェンリルの意味深げな視線に気づかず、闇野は空を仰いだ。頭上には薄く透明度の高い蒼穹がどこまでも続いている。
 海の底は広くとも、空を仰いでも望んだ蒼は届かなくて。薄い膜一枚が、絶対に越えられない強固な境界線となっていて。
 その空が今自分の上に広がっているように、ロキの上にもあるのだと考えると、妙に悲しく、また嬉しかった。
 ここには、焦がれても手に入らなかった『自由』がある。たとえそれが仮初めであったとしても『錯覚』ではないのだ。
「平和……平和なんですよ、ここは。ロキ様おひとりで生活されても、なに不自由ないほどに」
「……」
「神界から追放されたロキ様の気持ちが落ち着くのに十分な時間が経った今、私たちは必要ないのかもしれません。いいえ、私たちの為にロキ様はいて下さったのかもしれません。ロキ様は、私たちから解放されるべきなのです」
「ヨルムンガンド……なにかあったのかよ」
 滅多に口にしないその名前に、闇野はそこに兄がいるのだとやっと気がついたかのように瞬きをひとつして、フェンリルへと視線を転じた。
「ふたりの息子はいらない。とっても邪魔だと――まゆらさんにおっしゃっていました」
「ジャマッ?!」
 さすがのフェンリルも顎がっくーん状態で、しばらく固まってしまったが……
「うん、まぁ、邪魔かも、しれん」
 妙に納得して押し黙ってしまった。
 なにしろ父親は、勝手気ままな悪戯と欺瞞の神様。本来なら『家族』なんてものに縛られるのはそぐわない存在だ。
 むしろ、一方的に依存して足枷になっているのは――闇野の言葉通り、自分たちの方。
 兄弟共に黄昏てしまったふたりの上にも、一月の晴れた空にのぼった太陽から等しく陽射しがそそがれる。
「だからって家出なんてオレはいーやーだーぁぁ! だっでぇぇぇぇぇぃぃぃいっ!」
 そんなのは問題外だぁぁぁ!
 フェンリルは再び叫び始めるが、悲しいかなヒトならざる身の弟以外にその言葉はわかるはずがない。
 その弟は魂を空の彼方に飛ばしていたので、
「兄さん……逃避行と言えば北ですよ……北を目指しますよ……ふふふふふ」
 兄の叫びを綺麗に黙殺していた。
「お前、なに変なドラマに毒されてんだよぉぉぉぉっ! 感化されすぎぃぃぃぃ!」
 公園に、悲しい犬の遠吠えが響くのであった。



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家族運大波有り、北に向かうべからずの大吉おみくじの怪ここにっ。
しばし息子たちの家出にお付き合い下さい(笑)。