「誰もいないなんて変だな……」
ロキは屋敷の隅々までさがしまわって、少しばかりくたびれていた。
屋敷は闇野が嬉々として導入したセントラルヒーティング設備で一定の室温に保たれているはずなのに、妙に寒々しい。
玄関ホールに置かれた振り子時計が時を刻む音ばかりがやけに響く。
闇野をさがし疲れて『一服』とばかりにおのれでいれた紅茶はやはり不味く、それも不満で仕方がない。
闇野と同じ茶葉を分量通りにいれているはずなのに、どうしてこんなに鋭角的な味がするのだろう。その味は『えぐい』を通り越して、なにかの罰ゲームのペナルティのようだ。
「ヤミノ君が帰ってきたら……」
今度こそ美味しいお茶のいれ方を教えてもらおう。
不味い紅茶に相応しくずずーと紅茶をすすりながらぼんやりと考えるが、それにはまず闇野たちがいなくては話にならない。
さて、一服も終わり。とばかりに立ちあがった時、ロキはふと窓の外をふらふらと飛んでいる白い影に気がついた。さんざんさがしまわっていたメンバーのひとり、式神のえっちゃんだ。
「えっちゃん、どうしたの?」
窓から迎え入れた式神は、ロキの手の中に飛び込むようにふらふらと落下した。その様子は、精も根も尽き果てたと表現しても大袈裟ではないほどで。
それでもえっちゃんはなにかを伝えようと一生懸命に身を起こし、闇野とフェンリルがなにかを勘違いして家出したとロキに告げたのだった。
「家出……?」
あの子たちが?
ロキは、あろうことか――思考が真っ白になった。
――家出。あの子たちが家出って……
「冗談きっついなぁ、えっちゃん」
そんな言葉は、言っている自分が一番信用できない言葉。
えっちゃんに限ってこの手の冗談があるはずがないではないか。
「じゃぁ……ホントなんだ」
ロキは、しょんぼりと床を見つめていたが……
「いいさ。出て行きたければ出て行けば。あの子たちもいつまでも子供じゃないんだから、家にいなきゃならないわけでなし。ボクはあの子たちの自主性を重んじるよ。子供の巣立ちを嫌がるほど狭量な父親じゃないしね」
……妙に生真面目な顔で、変に大人をきどった論をぶった。ただの強がりと、言葉の本意とのぎりぎりの境界線とすぐに知れる表情だ。
ロキは、式神をテーブルの上に置くと、かわりに紅茶ポットとカップを手に流しへと向かった。その後ろ姿は静かなだけに妙に不気味に感じられたえっちゃんであった。
ぷにゃぷにゃとえっちゃんが両手を振り回して逆切れしたロキを引きとめようとするけれど、紅茶ポットとカップを洗う為に流しに向かう足を止められるわけがない。
水が流れる音がやけに大きく響く中、ロキは派手な音をさせてカップを洗っていたけれど。
「でも、ボクたちは離れて暮らしていた時間が長かったんだから……もう少し一緒にいてもいいじゃない」
ロキは、濡れた手をタオルで拭くのもおざなりに、式神を小脇に抱えると家から飛び出すのであった。
* * *
「兄さん、北を目指すならバスですよ、バス」
「だからお前、ホントなにに感化されたんだよ……」
フェンリルはげんなりとしていた。
弟は海よりも深く落ち込んだ反動で妙にテンションが高くなったらしくどんどんとバス停へと向かっているし、こちらの意見などちっとも聞きやしないし。
オレは北になんか行きたくないしバスなんか乗りたくないしそもそも家出だってしたくないんだってば!
そんな切実な叫びを聞いてくれる者が誰もいないのがまた悲しい。いつの間にやら同士のはずの式神もいなくなっているし。先に逃げたなぷにゃおのヤツ、とうらやましくもあった。
だからと言って、このまま隙をついてひとりで家に帰る気もまったくありはしなかった。これでも兄なのだから、弟を放っておけるはずがない。
だが、いつでもとこでもフェンリルはフェンリルであった。シリアスを長くは続けられないし、なによりも欲望に忠実なのだ。
「弟よ、たい焼きたい焼きたい焼きが食べたい!」
バス停の手前にあった小さなたい焼き屋を発見し、そこから一歩も動こうとしない。兄の威厳とはなんぞやと首をかしげたくなるほどに店先で駄々をこねまくった。そこのあたり、菓子をねだる幼稚園児となんらかわりがなかった。
「兄さん、バスが来ちゃいますよ!」
「だってオレは昼飯も喰ってないんだ。腹減った腹減った腹減ったッ」
「……しょうがないですね」
幼稚園児な兄にねだられるままたい焼きを注文しつつ、ふと闇野の脳裏によぎってしまうのは、屋敷のこと。
もうお昼が近いんですね。ロキ様はお昼ご飯どうされるでしょうか……
胸が苦しくなるほどに心配が湧き上がってくるけれど、闇野は頭をぶんぶんと振りやってなんとか忘れようとする。
その彼の後ろを一時間に一本しかないバスが無情にも通り過ぎ、誰も待っていなかったバス停も通過して行ったのであった……。
「え、駄目なんですか?」
喰い意地の張った兄のおかげで数少ないバスを逃してしまい、ならば別の路線でとばかりに移動したバス停で。
運良くつかまえたバスに乗車していた中年の運転手に軽く乗車拒否をされた闇野は、目をきょとんとさせていた。
「だからぁ、犬はお断りなんですよ、お客サン。盲導犬と補助犬以外は禁止」
あんたバスに乗ったことないの? とあからさまな侮蔑の視線を投げかけられ、闇野は言葉につまる。確かに、バスにはあまり用がない。
身なりの良い、人の良さそうな青年の頭の先から足の先までを運転席から眺めやり、中年の運転手は優位者の表情になり鼻先で笑った。どうせバスなんぞ乗った経験のない金持ちのボンボンなんだろう、そんなひがみが多分に入った笑いであった。
「一般のコーキョー移動機関の場合はなぁ、キャリーに入れてもらわなけりゃぁフツーの犬猫は乗せられないんだよ。キャリーに。ミナサンのコーキョー機関なんだから、ゴメイワクがかからないようにネ」
「はぁ、そうですか……」
それが決まりごとだと言われてしまえば、身を引かざるを得ないだろう。
またしても兄フェンリルに邪魔された格好になった闇野は、そのバスも見送るしかなかった。灰色のアスファルトを這うように進んでいく皆さんに優しい低床バスは、彼にとっては優しくなさそうであった。
彼の足元でその諸悪の根源は、明後日の方向を向いてそ知らぬ素振りでピューピューと口笛なんぞを吹いている。彼はきっと、その『公共移動機関云々』を知っていたに違いないと思わせる仕草であった。
「なぁ、あきらめて家に帰ろうぜぇ。世間知らずの弟が家出なんて百万年と一年はやいってもんだ」
「なんですかその中途半端な数字は」
「いいじゃねぇかただの気分だ、気分」
「気分……なら、今の私もその『気分』とやらが『家出の気分』なんですよ」
「あぁ言えばこう言う。もう勝手にしろよ。でもオレ様は『家出の気分』なんかじゃないんだよ。オレだけでも親父のトコにかえ……」
フェンリルは言葉を有耶無耶にせざるを得なかった。どれだけ弟が表情を見られまいとして顔を逸らしても、足元にいるおのれから完全に顔を隠しきれるはずがない。上向いて空を仰ぎたい気分になれないだろう現在は、特に。
「ちっ。キャリーがあればいいんだろ。ダンボールでもなんにでも入ってやるよ! お荷物上等じゃねぇかコンチクショウ」
もうこうなりゃ行き着くトコまで付き合ってやる!
フェンリルはガウガウと弟に噛み付き、その情けない背を押すのであった。
「北に行きたいんだろ? ならいっそバスじゃなくて電車なんかどうだ? 一気に北までいけるぞ?」
フェンリルはにやりと口を歪ませて笑った。その笑い方は『邪神の息子』に相応しい、禍々しささえ含まれたものであった。
その頃のロキは。
決して多いとは言えない知人らの家を渡り歩き、家人が来ていないかの最終確認を取り終えたところで途方に暮れていた。
本当に彼らは北に向かっているのだろうか。
途中で考えを変えたりはしなかったのだろうか。
「いや、ヤミノ君ってば結構『思い込んだら一直線』なトコあるし」
気に入ったものならとことん極める凝り性な性格から考えても、その傾向は強いだろう。
時計はすでに正午になろうかとする時間だ。このままの調子ではあっと言う間に日が暮れてしまう。
徒歩での移動ならまだロキにも手の打ちようがあるかもしれない。
けれども、彼らはおのれと違って移動手段が山ほどある。バス、タクシー。最悪、高速移動できる電車。それらを利用されてしまっては、ほんの少しの時間の遅れもミスになりかねなかった。飛行機なんかに乗られたら、明日の朝には異国の地。そうなってしまっては、魔力の大部分を封じられた自分にとっては、どうやっても縮められない距離になってしまう。
ロキは誰もいない公園で、覚悟を決めた。
そして、無言で、その手の内にレイヴァテインを呼び出した。この人の世で、未熟な子供の身体で力を振るう為、指向を定める魔力の鍵を。
えっちゃんは、雰囲気の変わったロキから逃げるようにしてベンチの影へと飛び込んだ。
「ホントはこんなの駄目だけど」
仮にも『探偵』の看板を掲げている身がヒトさがしにこんな手を使うのは邪道だし、力の弱い者へと働きかけるのは術者の負担が大きいけれど。
「背に腹はかえられない時もあるわけで」
誰に言い訳するでもなく。
「それが今なんだったら仕方ない」
ロキはレイヴァテインを高々と掲げ、力を解放した。
『空を飛ぶものたちよ、すべからく聞け! 訊け! 聴け! あの子たちはどこ? あの子たちをさがして――!』
ヒトには聞こえないロキの声がその街の空に響き渡る。
かの世界で『空を飛ぶもの』の異称を持つロキは、この世界の空を飛ぶ鳥たちに命を下す。
その街に住む鳥たちは。
一羽も欠けることなく。
ロキの声を聞き、問いを訊き、命を聴いたのであった。
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