カンパニュラ 

【 3 】






「お! 弟よ、これぞ日本の田舎の風景だっ。オレはここに行きたいっ。この金色の海の中を走りたいっ!」
 キャリーバッグを調達して移動した駅。
 その壁に貼ってあった一枚のポスターを指差して、キャリーバッグの中からフェンリルは嬉々とした声をあげていた。
 そのポスターは、稲穂がたわわに揺れる田んぼ、その背後に連なる緑豊かな山。山の裾野に建つ家は、古びた瓦屋根の民家。そんな、紋切り型の『日本の田舎』の風景が大きく写されたポスターだった。山中に、灰色の瓦を葺かれた建物が写っている。どうやら、知らぬ人はいないほどに有名な山寺であるらしい。
 その隣には、青い海が煌く沖縄の観光ポスターが貼られていたが、フェンリルはそちらになど見向きもしなかった。沖縄なんぞの強い太陽に焼かれては、真っ黒な毛並みのフェンリルであるのであっと言う間に丸焼きだとか考えたのだろうか。それとも、チリチリのパンチパーマにでもなると考えたのだろうか。この兄の思考ならどちらも有り得る気がする弟であった。
「兄さん、今は冬だから、稲は刈り取られていると思いますけど……」
 今の時期であるならば、稲は丸刈りにされて寂しい光景になっているはずだ。もしかしたら、深い雪に田畑は埋もれているかもしれない。
「それでもいいからココにいーきーたーいー!」
 フェンリルがキャリーの中でジタバタと暴れて妙な節回しで吠えるので、通行人がぎょっとした視線をふたりへと向けている。
「自然が豊かそうな場所ですね……」
 そうそう長い期間都心部にほど近いこの街に居ついていたわけではないが、自分たちは本来このような高度文明社会に囲まれた場所ではなく、自然豊かな神界で生活していた身だ。
 かの場所とは大きく違うが、日本の田舎の風景には心惹かれるものがある。この街のように右を見ても左を見ても人がいるような場所ではないところで思い切り深呼吸をしたらどんなに気持ちが良いだろうと思わないでもない。
「そう言えば、このポスター……以前にもどこかで見た気が」
 あれは確か、秋口にロキとフェンリルと三人で遠くにある大きな公園までぶらぶらと散歩に出かけた時だったはず。
 ポスターに目をとめたのはロキだった。
『田舎、いいね。たまには、なんにもないところでのんびりするのもいいかも。囲炉裏端で鍋とか憧れるな。ド田舎の日常も極めれば芸術だと思うヨ』
 しみじみと語っていた言葉が脳裏に蘇って来る。
「そうですね、いいかもしれません」
 闇野はポスターをじっと見つめてから、にこりと笑った。家を出てから、はじめての明るい表情であった。
 だがそれは、ロキにとっては、苦難のはじまる方向転換でしかないのだと――ふたりは気がつくはずも、ない。

   * * *

「これはまたなにもないところですね……」
 急ぐ旅もとい家出ではないからと、新幹線など使わずに向かったそこには、四時前に到着した。それからバスで三十分山奥に入ったところが、あのポスターの場所であった。
 闇野の言葉通り、なにもない場所であった。
 山に囲まれた集落。重く垂れた金色の稲穂などあるはずもない、ざんばらな稲の根元だけが残る田んぼ。古民家脇のビニールハウス。どこにでもある田舎。なにもない田舎。鼻先に香るのは、緑と土の匂いと、それらを内包するしんと静まった冬の匂いだ。
 フェンリルは狭く息苦しいキャリーバッグから解放され、嬉しそうになにもない農道を行ったり来たりしている。
 移動時間のそのほとんどを眠って過ごしてはいたが、バッグに押し込められているのは大層窮屈であったらしい。走り回っているその様子は、斜に構えたところのあるフェンリルらしくなく無邪気であった。バウワウワ〜♪ と、鼻歌に似たものを鼻先に乗せていた。
 闇野も、現状を忘れて『田舎の風景』を楽しんでいた。やはり慣れてきたとは言え、人の多いあの街は少しばかり負担になることも多くて。僅かずつでも確実に降り積もっていった心の負担が、ここに来て払拭された気分だ。
「あはは。兄さん、そうしていると普通の犬みたいですよ」
 道路に落ちていた得体の知れないモノに興味津々の顔つきで鼻を寄せ、クンクンと匂いを嗅いでいるフェンリルの様子は、まるっきりそこらにいる犬である。その様子に声をあげて笑えているおのれのありようが、少しばかり不思議に感じる闇野であった。
 そのフェンリルがふと顔をあげて道の先をみやり、ついで口角を耳まで裂けるほどに吊り上げ――犬であるのに笑って、ブンブンと尻尾を振りだした。
「ダディ!」
 キャワンッ! と嬉しげにあげられた声に闇野が視線を転じると――そこには、ここにいるはずがない人物が、肩で息をして立っていた。


「ロキ様……」
 どうしてこんなところに……?? 否、どうやってここがわかったのだろう? どうやってここに来たのだろう? 
 不純物が少ない田舎の空気は透明に澄んでいて、夕陽があの街より濃い気がする。元々は白いロキの顔が、熱でもあるのかと心配になるほどに赤く見えるのが、次々と湧き出てくる疑問よりもはるかに気になった。
「ヤミノ君」
 強い口調で名を呼ばれれば、嬉しくて身体が震えた。
『あなたはまたその名を呼んでくれるのですか』――そう聞きたくてたまらないのに、声は喉元に凍り付いて出てきてくれない。
 ロキは腰に手を当てて、闇野を睨みつけるようにして立っていた。闇野にはない、自信に溢れた姿だ。
「キミがナニ勘違いしたのかなんて聞きたくないけど、キミがボクを必要としなくてもボクがキミを必要なんだから、家出なんて許さないよっ」
「……ロキ様」
 どうしてそんなコト言うの? 私があなたを必要としなくなる日が来る? 今でもこんなに心細いのに。糸よりも細い虚勢すら、兄さんを巻き添えにしなくては保っていられないほどなのに? そんな日は永遠にこないと断言できるのに。
 それよりもなによりも――あなたが『私を必要』としてくれているなんて――そんなの、有りだろうか。
「嘘は……」
 ひりついた喉は真実を求める言葉も疑いの言葉も口になんかしたくないからなのか。
「ウソつく為にこんなトコまで追いかけてくると思う?!」
『このボクが!』と力説しているが、確かにそうだ。
「ロキ様、どうやって……」
 車もバスも大嫌いなのに。
「新幹線ッ。下手な車よりかはよっぽどカイテキ。気持ち悪いのだけ我慢してたらなんとかなったからっ」
 でも、さすがにここまで来るのはバスしか手段がなくて、とそこだけが妙に拗ねた口調で。
「そうだ、どうしてここがわかったんですか?! 書き置きもなにもしなかったのに……」
「ズルした。キミがポスターを見てたのと、駅で電車に乗ったトコを鳥たちが見てたから、絶対ココだと思って。ヤミノ君、前に『囲炉裏端で鍋』をやってみたいって言ってたデショ」
「それは……ロキ様です」
「……そうだっけ?」
 どっちでもいいや、とロキは――笑った。
「だっでぃだっでぃだっでぃーっ!」
 フェンリルが闇野の足元をすり抜けて、跳ねながらロキへと向けて飛び出して行った。その様子は、ぎりぎりまで引き伸ばされたゴムに飛ばされたパチンコ玉。ろくろく地面に足をつけもせず、空を飛ぶ勢いでロキの元へと向かって行く。
「だっでぃとなべ! 囲炉裏でなべー♪」
 フェンリルも遠くまで来たんだねー、とロキは屈託なくその黒い頭を撫でる。まるで、ここが燕雀探偵社であるかのように。フェンリルのしっぽは今にも振り切れそうなほどの勢いでぶんぶんと左右に振られていた。
「でも、息子たちはいらないって……」
「はぁ、ナニソレ? ボク、そんなコト言った?」
 ロキはフェンリルの頭を撫でる手をとめ、きょとんとした目を闇野に向けた。
「あぁ、もしかして、まゆらに言ってたコト? やだなぁ、勘違いってソレ?」
「ほーら、やっぱり勘違いなんじゃないか! やっぱりなぁ」
 フェンリルはロキに抱っこされてご満悦なのか、ロキがまだなにも説明していないのに勝手に納得している。
「それはネ、まゆらに借りてた本の内容。もう、あの話に出てくる息子たちのデキが悪いのなんのって。いくら家族でも面倒見切れないなってのと、ストーリーから考えたら息子たちの存在はない方がスッキリしてて読みやすい作品だろうにってまゆらに言ってたの」
 帰ったらヤミノ君も読んでみたらイイヨ。さすがに『家族』の一言でも我慢できる許容範囲ってあるんだなって、読み物に教わったよ。
 ロキがなんのこだわりもなく口にするので。
「帰っても……いいんですか?」
 そんな、馬鹿な質問を。
 読み物に教えられなければ、そんな気持ちは知らなかったと信じても?
「当然デショ? まゆらもレイヤも、留守番に置いて来たえっちゃんも心配してたし?」
 なんのてらいもなく肯定してくれるから。
 不覚にも、泣きそうになった。
 誰かに『いてもいいよ』と言われるのは、なんとも心地よくて。
 誰かに心配されるのは、こそばゆくて。
 胸の奥に熱いものが宿る。この気持ちをなんと呼べばいいのだろうと考えて考えて、やっと答えに行き着いて、その答えが嬉しかった。
 この気持ちは『幸せ』と呼ぶのだ。めまいがしそうなほどの幸福感と呼べばいいのだ。
「バカだなぁヤミノ君。泣くことないのに」
「泣いてなんか……いません」
 泣いてるよ、と右手を差し出されれば、ずるずるとひざまずくように座り込んでしまって。
 ふわりと抱きしめられた感触にびくりとする。図体ばかりは大きいこの身体にまわされた腕は子供のものだから、とても全部を抱きしめてはもらえないけれど。
 この人は『父親』なのだと、強く感じた。
 頬にされた口付けはまるで、慰めるようなものでいて、親愛の証のようで、くすぐったい。
「それにヤミノ君、秋口にキミがはじめて庭に植えた花、咲くのを見なくていいのかい? カンパニュラ」
 ――いつまでいるのかわからない曖昧なこの世界に、先の日を夢見る花はけして植えなかったキミがはじめて花を植えたから、その心境変化に驚いたのだけれど。
 ロキがそんな風に自分を見ていたのだとはじめて知って、とても驚いたのに。
「ボクも楽しみにしているんだからね」
 明日を夢見てもいいなんて。
 それが誰かに影響を及ぼせるなんて。
「はい、帰ります」
 その自由が――嬉しい。

   * * *

「ところでロキ様、この後どうしましょうか」
 山寺から澄んだ鐘の音が響き渡る。澄みきった田舎の空気を、さらに洗い清めているかのような響きであった。
 時計を見なくてもすぐにわかる。時間は、きっと五時。周囲はとっぷりと闇に沈み、長く濃く伸びていた影は掻き消え、右も左もわからなくなるまでそう時間は残されていない。街灯もろくすっぽ完備されていない田舎ならではの深い闇。
 東の世界を縁取るけわしい稜線は、すでに夜と空に半分混ざり合い、曖昧になっているほど。西の稜線をぼんやりと浮かび上がらせているのは、昼の残り香。
「ボクもうあのバスに乗るのは勘弁」
 だって田舎のバスって建て付けが悪いのかすっごい揺れるし、道が悪いからもっと揺れるし、あんなのに乗るくらいならボクはここで土に還る!
 一秒ごとに三人の周囲へと忍び寄ってくる夜の気配に対抗でもしているのか、ロキは駄々っ子のように言い募る。
 確かにあのバスはひどかった、と闇野もフェンリルも頷いた。十分に整備されていないのか、はたまた農作物や魚の行商人までが利用するからなのか、いろいろな匂いが入り混じった独特な匂いもあった。元から車の排気ガスや振動が苦手なロキであるので、あれは苦行以外のなにものでもないだろう。
 反面、それに耐えてでも追いかけてきてくれたのかと嬉しくなる闇野であったけれど。
「……歩いて帰りましょうか。お疲れのようでしたらおぶって行きますよ」
「だっでぃー、なーべなーべなーべーっ。いろりでなべーっ」
「そうだね、せっかくここまで来たんだから、今日はここに泊まってこうよ。寒いし、囲炉裏で鍋するには囲炉裏がないとはじまんないし。そもそもこんなに真っ暗で歩いてたら、永遠に家に帰れないし」
「そうですね」
「そうとなったら宿にしゅっぱーつ♪」
「その宿って……」
「あるのかなぁ……農家ばっかりなんだけど、見渡す限り」
 見知らぬ田舎、見知らぬ農道の真ん中で。
 ロキ一家は文字通り途方に暮れるのであった。



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彼らが無事に宿にたどり着けたのかは誰も知らない・・・。
それにしても燕雀探偵社の男どもはどうしてここまで『日本の田舎の風景』にこだわりがあるのだろう・・・。謎です。