赤い月は燃えているの?
赤い月は輝いているの?
赤い月は血を流しているの?



いいえ。
赤い月は泣いているの。






 赤い月は泣いている 

【 1 】




「そのブローチ、キレイね。どこで買ったの?」
 普段は中学生や高校生で溢れかえっている、どこにでもあるファストフード店。
 その窓際の席でそんな声があがったのは、制服姿などひとりもいるはずのない、一月四日の午後であった。
 問われたブローチの主である少女――大堂寺まゆらは、口元に運びかけていたココアのコップを取り落としそうになる。
「わわっまゆら、それカシミアでしょ、ビックリするじゃない!」
 周囲に制服姿がいないのであればもちろん高校生の枠組みにいるまゆらもセーラー服ではなく、真っ白なカシミアのタートルニット姿であった。
 窓から差し込む光に照らされて輝いている雪色のタートルニットにココアのひとしずくでも落とそうものなら、着ている本人も落ち込むものだが見ている方だって相応に痛い。
『目立つのならその左胸につけてる赤い石のブローチだけで充分』だと真向かいの席に座る、まゆらの友達である、黒髪の美しい夏穂が小さく叫ぶ。
「め……目立つかな?」
「キレイだもん目立つよ! それが目立たないってんなら、あたしたちの気合いなんてかんっぜん無意味よ」
 そうだそうだと賛同の声をあげるのは、まゆらの隣に座った、ショートカットの前髪に色鮮やかなヘアピンを絶妙な間隔で連ねた萌音だ。
 冬休みの貴重な一日に、親戚から貰った軍資金と言う名のお年玉を持ってデパートへと繰り出した年頃の娘たちであるのだから、その装いは少しばかり見栄だって張っているのだ。
 そんな彼女たちの目からしても、まゆらの胸元にさり気なくつけられたブローチの細工は『見事』の一言だ。白に赤の対比も目をひかずにはいられない。そんじょそこらにある、高校生が気軽に買える安い飾りではないと一目で知れた。なにより、金糸細工の中央に飾られたガーネットは神秘的な雰囲気をたたえてそこにある。
 そのブローチは、ロキが昨年のクリスマスにまゆらにあげたものであった。本日、はじめてビロードの箱から取り出し、胸に飾ってみたのだ。
 だが、それを素直に白状するのはなんだかこそばゆいもので、ついつい口をつぐみ、でもあからさまに動揺してしまったり。なにせ、姿かたちは小さくとも、れっきとした異性からのプレゼントなのだ。そんじょそこらの大人よりも大人っぽい少年探偵からの――しかも、自身が気に入っていたもののプレゼント。
「あ、でも、なんか……」
 萌音はふ……と声を詰まらせると、まじまじと覗き込むように隣のまゆらの胸元へと身を乗り出した。
「ひゃぁっモネ、ナニ?!」
 まじまじと胸元を覗き込まれてどぎまぎしない年頃の娘などいないだろうが、萌音のその視線はまた別物であるのだ。
「それ、変な感じがする。なんか憑いてる……」
 ひゃーモネ、でたー! と夏穂が叫ぶ。彼女――柏原萌音は、いわゆる『見える人』『感じる人』で有名なのだ。
 だが、言われた本人は、両手をがっしと組み合わせて目をキラキラさせ
「憑いてる?! 不思議ミステリ〜!」
 この上もなく喜んでいる。まるで、一攫千金掘り当てたかのような喜びようだ。
「こっちもでた……まゆらのオカルト好き」
「ミス研部長としては『憑いてる』って言葉はご馳走よ!」
「部長もなにも、あんたしかいないじゃない……」
『まっとうな現代女子高生としてそれってどーなのよ』
 とげんなりとした夏穂のつっこみも聞こえていないまゆらはテーブル上のココアをひっくり返さんばかりの勢いでバンバンとこぶしを打ちつけ、じたじたと身悶えして喜び始めたが、
「で? それ、どこで買ったの?」
 再びの夏穂の問いに、ぴたりと凍りついた。それはあまりにも不自然な凍結で、三人の上には能天気なJポップスが間抜けなリズムを刻みつけていった。
「ふ〜んナニナニもらいもの? もしかしてクリスマス・プレゼント? その上、男からの?」
『なんだあんたもちゃんと年頃の女の子だったのね安心した』
 夏穂の表情は心底の安堵であった。
「ふつーそこは『相手は誰だ白状しろまゆら!』じゃないの……」
 まゆらの人格が豹変するほどの地雷発言をした責任をとって、萌音が『正しい女子高校生の日常会話』へとリズムを戻すべく言葉を差し込むが、復活したまゆらにがっしと腕をとられてしまってはリズムなどどんなに努力しても戻るわけがない。
「モネっ! 憑いてるってどんな?」
 ちなみに、フリーズから自力解凍したまゆらは、夏穂のつっこみなんか耳に入っていなかったらしい。いや、都合の悪い言葉は都合良く聞き流す耳を持っているだけかもしれない。
 そこにロキが居合わせたなら
『なにせまゆらだから』
 とその具合に納得するだろうほどに都合の良い選別耳であった。
『あぁもう失敗したーっ』と心中で叫びながらも、がっしとまゆらにしがみつかれたままの萌音は至近距離にあるまゆらの目をしっかりと見つめた。まるで、神懸かり、厳かに宣託を述べる巫女のような不思議な目で。
「それ……なんかタチが悪そうだよ。トラブルに巻き込まれないように気をつけなよ」
 心底心配しての萌音の言葉であったが、
「トラブル! 上等っわくわくしちゃう!」
 やはりまゆらの耳は器用に言葉を変換して脳へと伝達したらしい。ロキがその場にいれば額に片手をやって盛大にため息をつくか、萌音と夏穂とともにかしましく『まゆら談義』に花を咲かせただろう。
 とは言っても、これらも移り気な女子高生の会話に過ぎない。まゆらも指摘した当人も、数日が過ぎればすっかりとそんな会話や忠告を忘れ去ってしまった。
 もちろん、まゆらの左胸の赤い石が、鼓動のようにドクリと小さく震えたのにも――気がつかなかったのであった。

   * * *

「もう真っ暗……」
 今日も今日とて依頼はなかった燕雀探偵社。
 その探偵社の鉄門を押し開けて出てきて開口一番に呟いたのは、セーラー服姿の少女。誰だと確認しなくてもわかる、おしかけ探偵助手のまゆらであった。
「本読んでたら遅くなっちゃった」
 まゆらはマフラーを口元まで引き上げて、道の先へと視線を投げる。
 カバンの中には、図書室で借りたドイツの作家ミヒャエル・エンデの『果てしない物語』がぎっちりとおさまっている。赤い布張りの豪華な本だ。
 本好きないじめられっ子のバスチアン・バルタザール・ブックス少年がアトレイユに導かれ、ファンタージェンの不思議に関わる物語。映画も三作作られ、それとは別に連続ドラマ化もされた、非常に有名な長編童話である。
 四日前から読み始めた壮大な物語は前半のアトレイユの冒険を過ぎ、ようやっと後半へと入ったところ。夢中で話を追っているとあっと言う間に街灯の灯る時間になってしまう。
『まゆら、送って行くよ』との、さすがに心配になったのだろうロキの言葉に甘えれば良かったかなと後悔してしまうが、今から頼むのも気が引ける。
「ま、仕方ないから帰ろ」
 はじめの一歩を踏み出せば、後は二歩目、三歩目を繰り出せばいいだけで、なにも考えないようにして足を進める。
 二月の中旬であるので陽は徐々に長くなっているのだろうが、まだまだ日暮れははやい。空には太陽の残滓すらなく、薄い青と濃い藍のふたいろが入り混じってどこまでも広がっていた。
 ぽつんぽつんと等間隔で並ぶ街灯が落とす光は、中途半端な闇の中ではまだまだぼんやりとした色だ。丸い輪郭も端からほどけて消えて行く。
「あ、良い匂い」
 ふと鼻先を掠めた芳香に、まゆらは顔をあげた。
 そこには、細い飾り鉄格子で囲まれた大きな家の庭からつぃと突き出た、梅の花。綺麗な血を凝らせたような、真っ赤な紅梅であった。
 ふわりと吹いた風にふっくらとした花びらを震わせる様子はとても美しい。
「梅の時期なんだ」
 寒い寒いと言っている間にも確実に季節は移り変わっているのだとこんな時に強く感じる。
 夏も秋も冬も好きだが、春はまた格別な気がする。少しずつあたたかくなり、色鮮やかな花が咲き、学生も社会人も心を新たにする『はじまりの季節』だからだ。
 まゆらは冬の中に混じり込んだ春の気配を感じ取って、にこりと笑った。
「月も真ん丸! 満月かなぁ」
 見上げた梅の向こうに、丸い月が浮かんでいた。瀟洒な鉄格子と相まって、まるで有名な写真家が撮った和洋折衷の一枚かと思えるほどに綺麗であった。まゆらは足をとめてうっとりとその光景を見上げる。
 そんな状態だったので。
「満月じゃないよ。月齢がまだ足りない」
 とても近くで声をかけられて、まゆらはびくりとしてしまった。
 慌てて視線を下へと下げれば、鉄格子の向こう側、梅の木の下に子供がひとり。月の光を弾いて鈍く光る剪定ハサミを手に、楽しげに笑っていた。どうやら、梅の枝を切り出そうとしているところであったらしい。
「わぁ、びっくりしたぁ。ごめんね、梅と月があんまりにも綺麗だったから、気がつかなかった」
「うん、知ってた。全然気がついてないなぁって」
 気がついていなかったのにも気がつかれていたのかと、まゆらは赤面してしまう。ひとつのことに夢中になると周囲が見えなくなる子だと、年下の子供にも一目で見抜かれたのだと考えればとても恥ずかしい。
 けれども『ここまで来たら恥は掻き捨て』とばかりにまゆらは質問を向けた。
「あのね、ゲツレイってなに?」
「月齢は『月の年齢』と書くんだ。一から三十であらわして、一から少しずつ太り、折り返し地点の十五が満月、数字が大きくなるほどに細くなる。ピークを過ぎるとゼロになって新月、生まれ変わり。今日の月はまだ十四台だから、微妙に満月じゃぁないんだよ。満月は、明日の夜」
 今日は空気が澄んでいるから丸く見えるんだね、とその子供は笑う。
 なんだかロキ君みたい。
 まゆらはふと良く知る少年探偵と目の前の子供の相似に気がついた。年も同じくらいだし、難しい言葉を知っているところなどもそっくりだ。仕立ての良いクラシカルな型の、闇に溶けるスーツを身にまとっている点までも。ダークレッドのリボンタイが、紅梅の下で赤く見える髪によく似合っている。
 もっと話がしたいけれど、まゆらは次の言葉をどうかけたら良いものかと逡巡してしまう。この年頃の子供は男か女かわからないところもあるが、目の前の子供はそれとはまた違った色合いの中性的な声に顔立ちであった。直線的なラインのスーツをまとっていながらも、目の前の子供には華やかさがある。
 ロキも日本人離れした綺麗な子供で時折見惚れるほどであったが、彼ははっきりと『少年』だとわかる雰囲気を持っていた。だが、目の前の子供はどちらともとれる独特な雰囲気で。
 目が大きいのだ、とまゆらは気がついた。男の子のようにすっきりとした頬のラインに、その大きな目が女の子らしい華やかさを強くあらわしていた。子供が持つには不似合いと言えるほどにしんと落ち着いた黒い瞳。
「おねぇさん、名前、なんて言うの?」
 小首をかしげての可愛らしい問いかけに、まゆらはすんなりと名前を口にしていた。
「ふぅん、まゆら。可愛い名前だね。ぼくは好きだな」
 あ、男の子なんだ。まゆらはほっと胸を撫で下ろす。
 でも、まゆらと呼び捨てにするところまでもロキそっくりであったが、それに反感を抱かなくなっているところなど完全にロキに洗脳されてしまっているのだろうかと少しばかり可笑しくなってしまった。
 微妙な笑みのまま次に問いかけたのは、彼の名前。
「キミの名前は?」
「名前?」
 先に自分も口にしたくせに、不思議な質問を向けられたように少年は反対側にこてんと小首をかしげた。まるで、生まれてはじめて名前を聞かれたような、奇妙な沈黙が鉄格子のあちらとこちらに落ちた。
「うーん。ヴィ……でいいかな」
「ヴィ君?」
「長いのもあるんだけど、ナイショ」
 子供は悪戯めいた笑みを口元に乗せた。
 日本人にしては赤味が強い髪や彫の深い顔立ちに気がつけば、もしかしたら日本人ではないのかもしれない、長い長いとても一度では覚えきれない名前を持っているのかもしれない、と不思議な名乗りにも納得がいくものだ。
「まゆら、また会えるかな? ここの梅の花はこれからが綺麗なんだ」
 月の光の下でのそんな言葉は、なにやら秘密めいているのだけれど、
「うん、この先の探偵社にいつも行くからまた会えるよ」
 まゆらは無邪気に再会を口にしていて。
「なら、約束の印に」
 手にした剪定ハサミですぃと落とされた紅梅の小枝がまゆらのコートの左胸ポケットにおさめられた。
 ふたりの間にはたしかに鉄格子がありふたりを隔てているはずなのに、そんなものを飛び越えて梅の香りは満ちていた。
 足元に落ちた淡い影さえ甘やかに感じられる不思議な光景に、まゆらはうっとりとした笑みを浮かべる。
 左胸に飾られた梅の香りは、ふわふわとした心地よさを与えてくれる。
「梅の枝、切っちゃっていいの?」
「その説明はまた明日、ネ?」
 ヴィは子供らしくない艶を含んだ笑みのまま、まゆらの目を見つめた。
 そんなふたりを冬の月は静かに照らし出し、梅の芳香がやわりと包み込むのであった。



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長めの中編『赤い月は泣いている』開幕です。しばし、赤い月に染め上げられた虚構世界にお付き合い下さい。