赤い月は泣いている 

【 2 】






「まゆら、なにかいい匂いがする。また香水の試供品でももらったの?」
 翌日、日課となっている燕雀探偵社へと赴いたまゆらに、探偵社の所長が開口一番問いかける。『香水の試供品』はここでは禁句であるのだが、問わずにはいられないほどの芳香がまゆらとともに部屋に満ちていた。
 だが、まゆらは寝不足気味な顔で
「うぅん。なにもつけてないよ」
 力なく頭をふるふると振るだけだ。
「ふぅん?」
 シャンプーでも替えたのだろうか、と考えて、フェンリルが足元から意味ありげな視線を投げかけているのに気がついてロキは思考を止める。
 犬もとい狼であるフェンリルから
『ダディは犬並みの嗅覚なんだね』
 と言われるのは毎度のことながら微妙な気分だからだ。
 そうであるのに
『梅の香りかな……』
 目を閉じて無意識に考えているのだからタチが悪い。
 まゆらはと言えば、ソファに座ってぼぅっと目の前の空間を眺めやっていて、なにも喋ろうとしない。
 普段の『素敵ミステリー』を追い求めているハイテンションではない彼女の憂い顔なところも、梅の香りをまとう乙女らしくてなかなかに良い感じ。
 そんな馬鹿なことをロキは頭の中でだけ考える。
 だが、そんな馬鹿な考えを悠長にしてなどと後々深く後悔するはめになろうとはその時のロキにはわかるはずがない。
 ずっしりと重い『果てしない物語』は、いつまでも読み進められることなくまゆらの手にあるのだった。

   * * *

 ―― Fly Me to the Moon ――
 
 まゆらは、探偵社から続く細い道を、小さく歌いながら辿って行く。本当はジャズの名曲であるが、まゆらの手にかかると本来のスローなテンポに。
 今日の頭上に広がっている世界は雲ひとつなく、空の端は濃い藍色だが東の空に近づくごとに薄く透けて明るい青へとかわっていた。
 東の空には、静謐な女王の顔をした満月。彼女の周囲はまばゆいほどの純白に染めかえられていた。
 天空に散った星々も、今日ばかりは彼女の前に姿をあらわすなどできない。静謐な女王は敬われてあるべき者であった。
 
 ―― Fly Me to the Moon
       わたしを月に連れてって…… ――

 お月様が欲しいと泣いた小さな子供はもういないのに『わたしを月まで連れてって』と歌うのが可笑しくて、まゆらはくすりと笑った。
 そうだ、どちらかと言えば『Fly Me to the Moon』ではなくて『Cry for the moon』ではないだろうか。月は手に入らないと知っていながらのないものねだりをする大きな子供は、普通の子供より無邪気で罪深い。頭上に輝く白い月のように無垢で、他者を傷つけてもその事実にすら気付かないほどに。
 まゆらは目的地へと辿り着き、ぴたりと足をとめる。
 繊細な鉄格子に囲まれた、燕雀探偵社に勝るとも劣らない古びた洋館の庭から突き出た梅の花に通せんぼ。
 あでやかな梅の香りが屋敷中を包み込み、惜し気もなく外界の空気までも侵食する。
「こんばんは」
 黒衣の少年の手には、ハサミのかわりに梅の小枝。
 その小枝が、昨日と同じように鉄格子の向こうからすぃと差し出される。
 鉄格子越しににこりと笑みを向けられれば、まゆらの口元にも自然に笑みが浮かぶ。
「待っていたよ、まゆら」
 梅の枝を受け取る為に伸ばした手を掴まれても不思議に思わず、鉄格子を通り抜けておのれの身体が庭へと入り込んだのも不可思議に感じず、まゆらは濃厚になる梅の香りに夢惑う。
 まゆらは少しも気がつかない。空にのぼっていた丸い月が、赤く染まって硬質な光を放っているなど。
 踏み込んだ不可思議の庭が――ゆらゆらと揺れているなど。
 そして、ヴィに手を取られて導かれた洋館が、おのれを内側におさめた後、ゆらりと揺れてその街から消え去ったのにも――気がつかなかったのであった。

   * * *

 大きな扉を押し開けて通されたのは、広い玄関ホール。
 二階へとあがる階段には赤い絨毯が敷かれ。
 廊下にずらりと並んだドアも、赤っぽい材質のもの。
 壁紙も赤でまとめられ、全体的に赤い内装にまゆらはめまいを起こしそうになり何度も瞬きを繰り返す。
 高いホールの天井から下げられたシャンデリアが放つ光まで赤く見える。
 その屋敷の住人は、赤い髪をした黒衣の少年。
 まるで、赤い月に照らされた世界にいるかのようだ。
「綺麗なお屋敷ねぇ」
 ロキの屋敷も大きくて立派だが、こちらは果てがないのではないかと思えるほどだった。
 人の生活臭に薄いところなどは瓜二つであり、燕雀探偵社に入り浸っているまゆらにとってはどこか懐かしく感じる。
「気に入った? ねぇまゆら、ここで一緒に住めたらいいと思わない?」
「やぁだ、ヴィ君。一緒には住めないよ。ヴィ君はご両親と一緒にこのお屋敷に住んでいるんでしょ?」
 いつの間にお屋敷に入っちゃったんだろうと今更ながらに不思議に思いながらも、それ以上にヴィの不思議な言葉に目をぱちくりとさせてまゆらは言い募るけれど、
「わたしもパパと住んでるし……」
「うぅん。ここには、ぼくともうひとりだけ」
 ロキとの奇妙な共通点がここにも落ちていて、まゆらは口を噤むしかなかった。
「なんだか……ヴィ君って、本当にロキ君に似てる」
「……ロキ?」
「うん、そう。わたしが毎日行ってる探偵社の――」
「まゆら」
 言葉を強い口調で不自然に遮られて、まゆらは再び口を噤んだ。
「お茶の用意ができたようだよ。こちらにおいで」
 視線を先へと投げかければ、そこには、闇野と同じ年頃、背格好の青年がひとり、美しい姿勢で立っていた。
『なんだ、そんな意味だったの』とまゆらはほっと胸を撫で下ろす。
 通された広い部屋には、香りの良い紅茶と軽食が。
 座り心地の良いソファに腰掛けてくつろぐと、先ほど感じたヴィへの違和感など溶けて消えるようだ。
「美味しい」
 青年がいれたのだろう紅茶は闇野のそれと同じほどに美味しいものであったが、さりげなく茶葉の名前を教えてくれる闇野とは違い、彼は黙ったままであった。
 給仕役に徹する青年の横顔は、恐ろしく整ってはいたがどこか冷たく、近寄りがたい雰囲気があった。闇野と同じく眼鏡をかけていたが、その奥にある目に感情など少しも閃かなかった。否、生気すら乏しく感じられてならない。
 例えるならば――『動く人形』
 姿形は、夕暮れ時にでも見れば闇野と見間違えるだろうほどにそっくりであるのに、その違和感にまたしてもめまいが起きそうであった。
 どうして彼はこんなにもあの人に似ているのだろう。偶然の一致と言うには気味が悪いほどに。
「う〜ん、こんなところはちょっと違うのね……」
 見つけてしまった微妙な差異がぽろりと口をついてしまった。
「その、ロキって子のところと違うってコト?」
 ヴィが心底嫌そうに眉をしかめる。
 悪戯めいた笑み以外の強い感情の発露に、まゆらはどきりとしてしまう。なにか気にさわる言葉を口走ったのだろうかと心配になって、思わず言葉を捜してしまう。
「う……うん。ロキ君のところにも闇野さんって男の人がいて、とっても美味しい紅茶をいれてくれるんだけど、よくお喋りしてくれるし、よく笑うし……」
「まゆらは、喋ったり笑ったりする方がいいんだ」
「え……?」
「やっぱり、アレも欲しいな……」
 なんでもないことのように、ヴィは目を細めて笑みを形作りながら謎の言葉を口にする。
 言葉の意味がよくわからないのはどうしてだろう。きちんとした日本語であるはずなのに、ヴィがなにを言ったのかわからなかった。
 戸惑うまゆらの様子など微塵も気にしていない様子で、ヴィはにこりと微笑んだ。
「じゃぁ、明日にはそうしとく。だからまゆら、ここにいてよ」
「えっと……あの……」
 すぃと優雅な仕草で立ち上がって一歩一歩近づいてくる少年の目が赤く見えるのはどうしてだろう。怖いと感じるのは何故だろう。
 てらいなくまっすぐに見つめてくるからだろうか。それとも、彼の言葉がなにひとつ理解できないからだろうか。
「ロキなんて類似品は忘れて」
 ごく自然に手をのべられて、髪に触れられて。
「ぼくと一緒にいてよ」
 懇願の言葉とともに手をとられれば、もうまゆらに逃げ道はない。
 彼の言葉を拒絶する理由が、心の中から、手の中から、するりと抜け落ちて行くのをまゆらは感じて、
「うん……まゆらはここにいる」
 夢の中での無責任な約束に似た気軽さで、了承の言葉を口にした。
 ゆらゆらと揺れるのは庭に咲く梅の花びらなのだろうか。それとも、夢とうつつを行きかうまゆらの意識なのだろうか。
 ただ確実なのは、今のまゆらの意識は夢の中――赤い髪をした少年の謎言葉の中――それだけであった。



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