赤い月は泣いている 

【 3 】






「まゆらが帰ってこない」
 燕雀探偵社の一同が、魂さえも抜け果てた様相の大堂寺 操の後ろ姿を見送ったのは、朝もはやい時間であった。
 この屋敷に飛び交う式神やその他の尋常ならざるモノを見る操はこの屋敷に関わる時は顔色が優れないのが常であったが、今日はドス黒いと表現してもおかしくないほどであった。きっと、一睡もしていないに違いない。
「まさか、またもやヘイムダルさんの仕業ではないでしょうね……」
 ロキの命を大神オーディンの命令とは別の私怨でもって執拗に付け狙う、虹の橋の門番ヘイムダルにまゆらを浚われたこともある、と闇野が提示する。彼は、ヒトの子をおのれの計画に巻き込むのを厭わないのだから、今回もそうでないとは言い切れなかった。
「……それにしては前フリも連絡もなにもないのが引っかかりますね」
 だがロキは、定位置に座りながら考え込んでいるがなにやら上の空で。
「でも、あきらかに、まゆらさんを最後に確認したのは私たちですよねぇ」
 紅茶を提供しながらの闇野の言葉にも、ロキは薄い反応ひとつ返さなかった。頬杖をついたまま、ぼんやりと紅茶に広がる静かな波紋を眺めている。
 まゆらの性格を考えるに、父親に無断で外泊をするなんて考えにくいし、あの年頃の衝動的家出なんかも似つかわしくない。
 または、犯罪にでも巻き込まれているのではないかと考えられなくもなかったが、彼女はそんな『現実的な人間の暗部』とは関わりが薄いタイプだ。
 どちらかと言うと、そんなものは無意識に避けて通る分、尋常ならざる存在を嗅ぎ付けやすい。その事実に彼女が気がついているかいないかは別にして。彼女の特技の最たるものがロキや闇野やフェンリルとの関わりだが、彼女は彼らの正体に気がついていないくらいであるし。
 それは別問題としても、ヒトならざる者達との関わりを持っている――その一点はなによりも彼女の失踪に色濃く繋がっているはずなのに、ロキがまっさきにそれを指摘しないのが闇野には不思議であった。
「ロキ様、どうされたのですか?」
 息子である自分やフェンリルが勘違いをして家を飛び出した時など、禁じ手は使うわ苦手な電車で北の地まで追いかけてきてくれるわと大騒ぎをしてくれたのに、何故だか今回は淡白な反応で、闇野はかすかに驚く。まゆらがロキにとって無価値なのかと問えば、否と即答できるのに。
「まゆらさんがいなくなったままでもいいのですか?」
「そんなわけないだろ。動揺してるよ、この上もなく、ね」
 なんだ、そうだったのですか。
 闇野はロキに気づかれないようにこっそりと微笑む。この小さな主は内面の揺れ動きを見せたら負けだとも思っているのか、ポーカーフェイスを貫くつもりなのだろうか。ここには身内しかおらず弱みを隠す必要もないのに、その状況さえも頭の中からすっぽりと抜け落ちてしまうほどに動揺しているのだ。
「では、お先に失礼します、ロキ様」
 闇野は明るく言い放ち、その明るさにロキがびっくりして顔をあげた。
「は?!」
「闇野にとってまゆらさんは家族にも等しい方ですから、さがしに行って参ります。ロキ様はお好きになさっていて下さい」
「……わかったよ、ヤミノ君。三手にわかれよう」
 闇野に蚊帳の外の言われ方をして、ロキはしぶしぶと言ったスタイルを崩さずに、それでもその腕にはすでに黒いコートが存在していた。
 問答無用で捜索の一手に含まれてしまったフェンリルはこの上もなく嫌そうな顔をしたが、闇野はにっこりと笑うのであった。

   * * *

 学校方面をロキが、商店街通り方面を闇野が、街の外周部をフェンリルが担当する為にそれぞれ燕雀探偵社を出た。
 闇野も彼らと同じように屋敷を出たのであったが、燕雀探偵社からほど近い住宅地でふと足をとめた。
「まゆらさん……?」
 亜麻色の長い髪をゆらゆらと揺らしながらゆっくりと歩く、セーラー服姿の華奢な後ろ姿を見つけたからだ。
 その後ろ姿は、まゆらに良く似たものであった。だが、普段の彼女がまとう雰囲気は少女らしい華やぎに満ちたものであるのに、その後ろ姿はどこか陰気なもので。それは、落ち込んでいる、などの内面的なものをあらわしているのとは少しばかり違っていて、闇野はかける言葉を飲み込んでしまった。
 角を曲がってその後ろ姿が見えなくなりそうになり、闇野は足音を殺して追跡を開始する。
 彼女は尾行に気づく様子はなく、ゆっくりと次の角を曲がった。
 闇野も後を追って角を曲がるが――……
「いない」
 まだそれほどに距離はなかったはずなのに、彼女の姿は忽然と消えてしまった。他の角を曲がったのか、それとも家へと入ったのかとも考えるが、玄関も細い横道ひとつその間に存在してはいなかった。
「どこに――?」
 闇野は素早く視線をめぐらせる。
 と、道にそってしつらえられた繊細な鉄格子の向こう――赤い屋根の大きな建物の廊下らしき場所をゆっくりと進む少女の横顔を見つけた。その少女は、遠目でもはっきりとわかるまゆらその人で。梅の赤いかすみにまぎれるようにして進む姿はどこか現実感に乏しく、ふわふわと揺れて頼りなかった。
「まゆらさん?!」
 どうやってあそこに……? いや、こんな屋敷があることに今までどうして気付かなかったのだろう? と疑問を胸中にのぼらせている間にも、鉄格子と窓の向こう側を闇野とは反対方向へとゆっくり進んでいた彼女が――苦しげに胸を両手で押え顔を歪ませると――糸の切れた人形のように床へと崩れ落ちるのが見て取れた。
 足早に鉄格子沿いの道を走り、見つけた鉄門を押し開けると、その赤い屋根をした大きな洋館へと踏み込んだ。
 道と庭と玄関の立地と構造からあたりをつけて、闇野は迷わずにその屋敷の内部を走った。すぐにその廊下は判明したが、そのまっすぐな廊下のどこにも倒れているはずの彼女はおらず。
 本館玄関ホールからその廊下へと続くドアを開け放したまま、闇野は躊躇した。
 それどころか、この屋敷には人の気配がごっそりと抜け落ちていて、闇野は眉をひそめずにはいられない。まるで、モデルルームか写真のように生活臭が微塵も感じられない。
 なにかがおかしい。
 頭の中で小さく警鐘が鳴り響くが、ふと気づいたものに気をとられて問題の廊下へと一歩踏み込んだ。
 正面から見れば横長に見えるその建物は、俯瞰すればコの字形の構造なのだとすぐに知れる。その建物が、瀟洒な鉄格子で区切られた長方形の敷地におさまっていた。闇野が今から進もうとしているのは、左翼にあたる箇所であった。
 彼の耳が拾ったのは、長い廊下の突き当たりにある赤っぽい木材で作られたドアの向こう側からかすかに聞こえる、オルゴール。なにの曲なのだろうか。女の子が好みそうな軽やかで可愛らしい小曲が、繰り返し小さな金属片を弾く音で奏でられている。
 闇野はそのオルゴールが漏れ聞こえる部屋へと向けて廊下をまっすぐに進み、そのドアを押し開ける。
 中には、光があふれていた。白いレースのカーテンを透かして差し込む陽の光は、尋常ならざる白さでその部屋に落ちていた。
 明るい光の下、赤い布を掛けられた小さなテーブルの上でくるくるとまわっているのは、赤いドレスを着た陶器の貴婦人。乙女らしい初々しさに頬を染めやや伏した顔の角度。右手を高くあげ左手を見えない紳士の背にまわしてでもいるかのような姿勢で、オルゴール本体をおさめた木箱の上で楽しげに踊っている。
 その隣で、オルゴールと同じようにまばゆい光に柔らかく照らされていたのは――
「まゆらさん……?」
 大きなロッキングチェアにゆったりと身体を預けて目を閉じているのは、確かにまゆら。だが彼女は先ほど見たいつものセーラー服姿ではなく、赤いドレスに身を包んでいた。
 椅子に座らせた精緻なビスクドールを髣髴とさせる姿ではあったが、ゆっくりと呼吸を繰り返して眠っている彼女はあの後ろ姿の少女とは違い、目を閉じていても生きている気配と華やかさが感じ取れた。疑いようもなく、目の前にいるのは自分たちがさがしていたおしかけ探偵助手の大堂寺まゆらだ。
 ならば、先ほどのセーラー服の少女は――誰なのだろう。そして、一体どこに??
「まゆらさん、どうしてこんなところに??」
 外から差し込む光がやけにまぶしく感じる以外は、燕雀探偵社とたいして変わらない調度品でまとめられた赤い部屋。
 窓の向こう側には、つぼみをほころばせた紅梅の植えられた広い庭が見える。
 部屋に満ちる可愛らしいオルゴールの軽やかな音色。
 ここの主が『彼女』だと説明されればなんの疑いもなく納得してしまいそうなほどに違和感のない『部屋』と『少女』
 だが、彼女がこんなところにいるのは――根本からしておかしいのだ。
「まゆらさん、起きて……起きて下さい。パパさんも心配してますよ?」
 眠る彼女の肩に触れ覚醒を促そうとした闇野のその手をとめる存在が、彼の背後に、いた。
「眠っている女の子に触ろうなんて、躾がなってないんじゃない?」
 中性的な子供の声。
 そして、背後から闇野の肩を掴み、現実的に行動を束縛した大人の手。
 はっと振り返ればそこに、おのれと同じ背格好の眼鏡の男が立っていた。
 その男の向こう側、扉に寄りかかるようにして存在している、赤い髪の子供へと闇野の視線は惹きつけられる。
 子供の年恰好や黒いスーツ姿、そして部屋の調度や背後の青年の姿が相まって、まるでおのれとロキの粗悪品を見ている気分になる。
 それ以前に――彼らの気配に微塵も気づかなかった――それこそが闇野にとっては驚きで。
「うん、やっぱりキミの方がおもしろそう」
 少年とも少女ともわからない子供は、余裕の態度で軽く腕を組み、楽しそうに謎の言葉を紡ぐ。口元に浮かぶ微笑は優位者のもの。
 ヒトならざる身である闇野がその子供に感じたのは――おのれと同じ、ヒトが持たざる強い『違和感』
「あなたは……『ナニ』ですか?」
 子供の黒い目が――左目が――赤く見えるのは何故だろう? まるで、ロキの『本当の瞳』に似た、深く沈んだ赤。
 子供の表情は微塵も動かない。
「やっぱりおもしろい。うん、まゆらも『喋ったり笑ったりする』方がお好みらしいから、キミもここにいてね」
 闇野は、まゆらへと伸ばしかけていた手を、子供へと向ける。だが、その手は子供――ヴィへは届かない。
 表情がごっそりと抜け落ちた青年が闇野を取り押さえるまでもなく、ヴィの赤い目に酔ったかのように――闇野は床へと崩れ落ちた。
 伸ばしたまま床に落ちた闇野の手の先――ヴィの隣には、セーラー服姿の、表情に乏しいまゆらとよく似た容貌の少女が静かに立っていた。
 まゆらはそんな騒ぎにも気がつかず、場違いなほどに白い光に包まれたまま、こんこんと眠り続けるのであった。



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