赤い月は泣いている 

【 5 】






 くるりくるりと優雅にまわる白磁の人形。
 ゆったりと流れる、可愛らしいオルゴールの音色。
 窓から差し込む光はすでに夕陽の色に移り変わり、赤い部屋をやんわりとした朱に染めていた。
 陶器の人形の踊りが徐々にゆっくりとなり音楽も奇妙に間延びして、やがてぴたりととまり、ただの人形へと戻る。
 いびつな余韻を残してやんだオルゴールの音に、まゆらは目を覚ます。
「ここ……」
 どこだろう。
 二・三度瞬きをして眠気の残る頭に右手をやって考え込むが、ゆっくりと見回したその部屋は、今まで見たことがない場所で。赤い材質のチェストやその上に置かれた赤いシェードのランプ。絨毯までもが赤色で、いやに目に付く。
 深く赤い色は目に付くがそれらはまゆらの目にも上等の品だとわかるもので、見慣れた趣味の良い調度品たちに
『ロキ君の家だろうか……』
 ぼんやりと考えるが、こんな部屋に通された記憶もない。
 ふと見下ろした自分の服は、知らない赤いドレスだった。手触りと光沢の良い高級そうな生地をたっぷりと使ったドレスだ。こんなのに着替えた記憶すらない。
 知らない部屋で、知らない服を着て、ロッキングチェアに座ったままうたたねしているなんて、どうなっているのだろう??
「どうして……」
「どうかされましたか?」
 ぼんやりと右手の袖に施された繊細なレース飾りへと視線を投げかけていたその反対側から声をかけられて、まゆらはびくりと肩を震わせた。けれども、その声が誰のものなのかすぐにわかってほっと息をつく。
「なんだ、闇野さん……」
 なんだ、やはりここは燕雀探偵社なのだ。
 この服はきっとロキ君の悪戯……と視線を声の方に転じて、そこに思った通り闇野の姿を認めたけれど、まゆらは声を失った。
 闇野は確かにいる。いつもと同じ、穏やかそうな笑みでこちらの具合を見てくれている。優しい心配りは彼らしい仕草だ。ひとつに束ねた黒髪も、細いフレームの眼鏡も、すっと背筋を伸ばした立ち姿もいつもの彼だ。
 でも、なにかしら小さな違和感があって、それがなになのかわからなくて、まゆらはまじまじとその顔を見つめてしまった。
「私の顔に、なにか?」
 その物言いも困った表情も、普段の彼そのものなのに。なにが違うのだろう??
「まゆら、どうしたの?」
 唐突に声をかけられて、まゆらは背後を振り返った。背をすっぽりと覆うロッキングチェアで見えなかったが、大きくとった窓の桟に腰掛けて膝の上に大きな本を広げていたヴィが、いた。
 赤い夕陽が逆光になってヴィの表情を影に沈み込ませる。その黒い影の中で、鈍く輝いている赤い左目。
「ヴィ……くん」
 まったく気配に気づかなかった。
 夕陽に照らされて、月下でもはっきりとわかる赤い髪はまるで燃えるよう。なのに、逆光になってはっきりとは見えない表情は――氷のように冷たくて。熱のこもらない冴え冴えとした印象的な目が、いつまでも心に残る。
「変なの、まゆら。ヤミノ君がどうかしたの?」
 めまいが、した。
 ロキに似た雰囲気の少年、そして普段通り穏やかな笑みをたたえた闇野。燕雀探偵社にそっくりな赤い部屋。めまいが強くなる。目を開けていられないほど。
 まゆらは目を閉じて考える。そうすると、とても心が安らいだ。
 ここはどこだと考えるのはおかしいのではないか。この組み合わせになにの齟齬があると?
 いや、それ以前に――『ロキ』と言う子供にヴィが似ているのではない。『ヴィに似た子供』がどこかにいるのだ。
 それはここにいる限りなんの問題になるのだろう。
 ヴィと闇野と自分。三人でこの屋敷で暮らすのに、『似ている子供』は関係ない。
 まゆらはゆっくりと目を開ける。どこよりも落ち着く赤い部屋がそこにあって、自然にほぅと息が漏れた。
 その部屋にいる、この屋敷の主の少年。赤いビロードのような夕陽の中、ヒトには持たざる赤い目がきらきらと輝いて、宝石みたいに綺麗。
 なにが不思議なのだろう、こんなにも綺麗なのに。ヴィ君は綺麗だ。美しく磨かれたガーネットみたい……
「ううん、なんにもない。なんにもないの……」
 なにを疑問に感じたのか。
 それすらもわからなくなっているのだと、まゆらは気がつかないのであった。

   * * *

「赤い月だ」
 のぼりはじめた満月がどこかしら赤くみえるのは、光の波長が見せるまぼろしだ。
 だが、赤く燃えた太陽が沈み、東の空から夜を引き連れて姿をあらわした月は、何故だか色が滴り落ちるかと思えるほどに赤かった。その色は禍々しいほど。
「満月を通り過ぎた月なのに、どうして」
 ロキは、大きくとった窓から空を見上げる。深い緑色の目は、赤い月を映しているからか、どこか赤く滲んでいた。
 問うても仕方のない疑問だとわかりながらも彼が口にした疑問に、
「燃えているのではないかしら」
 人形が無感情なまま囁きに似た答えを投げかけるが、月を見上げたまま、黒衣の背中は聞いているのか聞いていないのかもわからないほどに静かで。
「輝いているのではないかしら」
 ほんの少し唇を噛む、少女の姿をした人形。
「傷ついて血を流しているのではないかしら」
 片目だけの少年も、なにも言わない。傷ついているのはダレだとも、問いもせず。
 人形は、明かりもともらない薄明るい部屋の中、赤い月の光がまぶしくてつと下を向いて目を伏せた。空虚なモノが投げかける言葉になど誰が耳を傾けよう。それはすべて『嘘』にすらならない戯言なのだから。
「わたしにはわかるはずがないのでした。わたしの中にそんな疑問も答えもないのですから。わたしにはこの世の現象も真実もまぼろしよりも儚いものです」
 ふるふるとかぶりを振る仕草は、ぼんやりと見ているだけならまさしくその年頃の可憐な仕草であったけれど。
「ならば、キミの中にはなにがあるの。まゆらのかけら以外」
 今度は、答えを求める問い。なんて残酷な、と感じたのは双方の気持ちかもしれない。それでも、問わなければいけないのだ。
「キミがおのれを『まゆら以外のダレ』だと問うその根拠はドコにあるの。キミの中に『キミ』がないのならばそんな疑問を抱けもしないだろうに。だから、ボクこそが重ねてキミに問おう。キミはナニ?」
 人形は、まっすぐにロキを見た。ロキの視線もまた、月から彼女へと転じていた。主と同じ、赤く見える目だった。主と違うのは、それが二粒の輝きであること。
 だが、交錯する視線の中に答えがあるはずがない。
「答えは……赤い主が知っているはず」
 亜麻色の髪をふわりと翻して扉から出て行った人形の後にロキが続き、ヘイムダルも彼を追うのであった。

   * * *

「まゆらさん……まゆらさんっ」
 誰かが肩を揺さぶって名前を呼んでいる。
 誰だろう。とても気持ちよく眠っていたのに。
 起こさないで。こんなに気持ちが良いのは久しぶり。
 夢も見ずにただよっているだけなの。まるで、羊水に浮かぶ胎児の頃の記憶みたい。
 でも、少しだけ気になる。その声の必死さが。
 まゆら……まゆら――それはわたしの名前――?


 ふと気がつけば、赤い部屋をなお赤く燃え立たせていた夕陽は空の果てに沈み、部屋には夜の色が落ちていて。赤い調度品も絨毯も、渋い赤味を残すだけ。
「あ……わたし、寝ちゃって……?」
 まゆらは、再び眠り込んでいたのだと知った。
「まゆらさん、良かった! 気がつかれたのですね!」
 すぐそばには、心配そうな闇野が。
「闇野さん、どうしたんですか? なんだか、顔色が悪い……」
 顔がひどく青い。けして、のぼりはじめた月に照らされているからではないだろう。
 いえ、と闇野は笑おうとしたのだが、途中で思い直したのか、まっすぐにまゆらの顔を覗き込んだ。周囲に気を配りながら。
「まゆらさん、ここを出ましょう。ここはなにかおかしいです」
「闇野さん、なに、言って……」
 ここを出るって、どうして??
「よく考えて下さい。まゆらさんはここにいていいんですか? まゆらさんの家はここですか? パパさんはどうしたんですか?!」
 矢継ぎ早に問いを投げかける闇野の顔は、青いを通り越して苦しそうで。
 混乱が、鎮まらない。
「あの……わたし、よく……」
「私のいるべき場所はこんなところではありません。ロキ様のところなんです。私は帰ります……帰るんです」
 苦しそうなのは、必死だから。見えない何かを捻じ伏せようとしているから。
 言葉にするのは、おのれに知らしめる為。私の居場所はここではないのだと、ともすれば身に降りかかる時間の端から惑わされてしまいそうな心を繋ぎとめる為。
 それを、言葉以外のもので感じ取って、
「ここじゃない……?」
 まゆらの内に宿った、違和感が。
『わたしの家はここじゃない。わたしはロキ君を知っている』
 そんな、今まで思いもよらなかった記憶の断片を引きずり出す。
「私に暗示をかけるとは、腹が立ちますねっ。一番腹が立つのは、うかうかと術中にはまってしまったことですけどっ」
 さぁ、正気を保っていられるうちに、はやく!
 手をのべられて、まゆらもやっとなにがおかしいのかに気がついた。
 どうしてわたしはここにいるのだろう? ヴィ君はナニなのだろう? 闇野さんがロキ君のもとを離れているのは、変なのに??
 まるで、ふわふわとした夢の中で更なる夢を見ていた心地。
「はい、行きます!」
 まゆらは躊躇いを捨てて闇野の手をとり、彼に導かれるようにして赤い部屋を後にするのであった。



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