赤い月は泣いている 

【 7 】






「振り出しに戻る、ですか」
 二十畳ほどの広さがあるはずなのに、その部屋は気持ちひとつで息苦しく感じる。家具も絨毯もカーテンも、壁紙さえも赤。まるで、赤いセロファンを透かして世界を見ているようだ。
 闇野は赤い部屋の中央に立ち、苦々しい気持ちで、もう二度と開きはしないだろう赤っぽい扉を睨みつけていた。
 まゆらは窓際に立ち、夜に染まった庭で咲き誇る紅梅と赤く輝く月を見上げた。
 梅も月も、美しいけれど、どこか毒々しく感じられてならない。やはり、この部屋は怖い。否、この屋敷のすべてが怖い。こんなところはわたしの居るべき場所じゃない。一刻もはやく家に帰りたいと心が悲鳴をあげる。本当の我が家へ、今すぐに!
 だからこそ、ほんの少し、気持ちを切り替える。
「闇野さん、お茶、いれましょうか?」
「まゆらさん……?」
 場違いなほどに明るい声と発言に振り返れば、そこにはいびつな笑みを浮かべたまゆらが。
「お茶なんて……」
 そんな場合ではないでしょう、との言葉を飲み込んで。
 かわりに
「お茶の設備があるでしょうかねぇ?」
 こちらも、ことさらのんびりと口にする。
「なにせ、あのヒトは『人』ですらないですから、そんなところまで気をまわしてくれているかどうか」
 ところが、案外と気をまわしてくれるタイプであったのか、茶器も茶葉も棚におさめられていた。普通の陶器にしか見えないのに、中身はまったく冷めていない湯も発見した。偽物にしても巧くできている。ヴィが先ほど言っていた『紅茶』云々は、どうやら彼の本心であったらしい。意外と言えば意外であるが、ロキの類似品と考えれば納得もできるのが妙に悔しい。
「闇野さんは座っていてくださいね。上手に紅茶をいれられるようになったか、お師匠様にお披露目なの」
 彼女は手際よく茶器を並べ、ポットに茶葉を量り入れていくが――その手が小刻みに震えているのに気がつかない闇野ではなかった。真剣な面持ちでやや下向き加減のまゆらの顔は、驚くほど色が薄かった。
「まゆらさん……」
 声をかけられもしない。
 ふと見下ろしたおのれの手は。
 ヴィと対峙した時から震えが止まらなくて。
『意識を封じ込めるのはやめた』――その言葉は単なるはったりで、実は暗示攻撃を強く受けていたのだと手の震えが闇野に知らしめていた。
 まゆらも到底そんな気持ちにはなれないだろうに――『お茶をいれよう』などと、彼にとっての現実的な言葉で気持ちを引き戻そうとしてくれる。
 彼女は、確かに『弱いヒトの子』だけれども――ただ弱いだけではなくて。最後の最後には、驚くほどにしなやかな強さを覗かせる。こんなところが、ロキを微妙にかえた彼女の本質、なのかもしれない。
 探偵と依頼人――事件が解決すれば関わりが一切断ち切られる淡白な関係しかこの世界で築こうとしなかった、極端に他人との接触を拒んでいたロキの心の防御壁に小さな穴を開けたのは、きっとまゆらだ。
 ロキのそば近くで彼を見ていた闇野は、まゆらの存在をそう考えていた。
 さすがに、ロキだけでなく自分も救われるとは思わなかったけれど。
「そう言えば、前も聞きましたけど」
 あたたかい紅茶を前にして、非現実的な屋敷で精一杯の現実を保ちながらのまゆらの言葉は、ある意味懐かしいものだった。
「闇野さんにとってのロキ君って、どんな意味あいの存在なんですか?」
 まだ彼女に出会ってそれほど経っていない時、ロキが銀行強盗に拉致される事件があった。その時同じ質問を向けられて、兄弟ではない、親戚でもない、ただそばに仕えているだけで嬉しい存在だとしか答えなかったのを思い出す。
 あれから彼女はまだ考えていたのだろうか。いや、彼女が『ヴィ』と呼んだ少年に向けたおのれの言葉からかもしれない。
「闇野さんがロキ君のことに対して、あんなに怒るの、はじめて見たから……」
 闇野はやわりと微笑んだ。受け取った紅茶カップにはさざなみひとつ起きなかった。大きな存在を思い起こせば、心はしんと落ち着いて、揺るがない。単純な自分の心のありようが、今は少しばかり愛しかった。
「ロキ様は――風の香り、水の甘さ、そんなことを教えてくださった方です。花の色や、空の広さを感じられる場所に連れ出してくださった方です。ひとりでいなくてもいい、ここにいてもいいと言ってくださる方です」
 まゆらにとって、それらはすべてあたりまえのことだろう。光に満ちた世界に生まれ落ちて。何事からも守ってくれる父親が待っている家がある。風も水も花も空も、すべてが彼女のもの。
 でも、それすら知らなかった、与えられてはじめて知った。そんな存在もこの世界にはいるのだと、思い巡らせることはできるはず。その気持ちは彼女には想像できないだろうけれど、そんな当たり前と同列で彼がロキを大切にしている気持ちは――伝わるはず。
 まゆらはなんと言って良いのかわからなかった。いつの日であったか、自分よりも短い時間しか生きていないはずの子供のロキに対して、大きな悲しみや痛みを持っていたのではないかと感じたことがあったけれど――目の前の青年も、同じだけの悲しみや痛みを抱えていたのだとわかった。その上で、こんなにも穏やかな笑みを浮かべられるのだ。
 燕雀探偵社の男たちは、ぬくぬくと守られて育った自分なんかとは比べようもないほどに大人だ。そんな彼らにまゆらがかける言葉など、ない。
 けれども。
「だから、まゆらさんは私が絶対に守ります」
 ロキにとっての大きな存在ならば、闇野にとっても同じだから。迷いは心の隙間をついて湧いて出るだろうけれど、最終的には、無条件で、その結論に落ち着く。
 そんな、言葉少なの決意を伝えられれば、まがりなりにもお年頃のまゆらのこと、真っ赤になってうろたえずにはいられない。
「どうしてロキ君の話でわたしのことになるんですか?!」
「大丈夫です、私にとっては筋が通った会話です。だから、無茶はしないでくださいね。さすがにたいした力はないから、言葉半分で聞いてもらわないといけないですので」
 普段通りのにこにこした笑顔で、しっかりと釘をさされてしまう、まゆら。
「でも、不思議ミステリーの真っ只中なのに、闇野さんったら怖がってなかったですもん。やっぱり、ロキ君の探偵秘書だからですか?」
「いえ、まぁ……そんなトコです」
 恐くないと言えば嘘になるし、恐かったと口にしてまゆらを無駄に恐がらせる必要もないから言わないけれど。先ほどは『恐い』よりも『怒り』が強かったから。『本来の姿』ではない――偽りの身ではたいしたことができないのは、本当だから。それでも、太刀打ちできない相手に言いたい放題やりたい放題されるのは我慢がならなくて。
『アレは怖いもの知らずの無謀者って言うんだよ、ヤミノ君』
 ロキならきっとこう表現するのだろうと考えると、こんな時なのになぜか可笑しくなる闇野であった。
 ふと窓の外をみやれば、夜の闇の中でもくっきりと庭の紅梅が見えていたはずが、いつの間にやら乳白色をした霧がざわざわと窓辺へと押し寄せていた。
 重い霧なのだろうか、地面がどこにあるのかもわからないほどに白く濁っていた。外に踏み出すことができたなら、霧を踏んだ感触はきっと不思議な弾力をしているだろうと思わずにいられないほどに濃い霧だった。
 反面、空は晴れ渡り赤い月がくっきりと見えた。白い霧が月の光の反射板になり、部屋の中はやけに明るい。
「霧が出てますよ、闇野さん」
「本当ですね、いつの間に……」
 見るともなく視線をやれば、ふと気付く異変。
「なんだか、霧の向こうが騒がしいですね。なにか見える……」
 見た目は静かな重い霧と赤い月に紅梅。だが、その歪まされた空間の向こう側に確かに閃く光と音。窓辺へと波のようにさざなみを送る、白い霧が形つくる断続的な波紋。
「もしかして……」
「そう、ぼくの類似品が来てるんだ」
「ヴィ……君」
 はっと気がつけば、いつ入ってきたのだろう、窓の外にばかり集中していたふたりの背後にヴィが立っていた。
 扉が開いた気配はなかった、とまで考えて、ここは彼の世界なのだと思い直す。きっと、尋常ではないあらわれ方をしたのだろう、とまで考えて。
 まゆらは、先ほどの、奇妙な『間』をふと思い出した。
 彼はなにを言いたかったのだろう。
『なにせ、ぼくは……』
 不思議と、たくさんの言葉や気持ちがこもっているように感じた、あの『間』
 ひたとこちらを見つめているヴィの目には、はじめにあった時の悪戯っけに満ちたミステリアスな光はなくて。ただしんと落ち着いて、赤い月より赤い目なのに、まるで深い水を覗いている気分になる。その水に溺れてしまえばどこまで沈みこむのか知れない深いよどみ。
 ヴィは、状況違いなほどに儚い笑みを浮かべていた。なにか、あきらめに似た色を含んだ笑みに見えた。
「たった数時間、だけか」
 数時間だけ……?
 やはり、彼の言葉は、まゆらにとってはなにひとつわからないもの。
「今ここに来ているのはロキ様でしょう! ロキ様がここに来る前に私たちを解放すれば、許してもらえるかもしれませんよ?!」
 先と同じようにまゆらをかばって前へと出る闇野にも、ヴィは不可思議な笑みを向けるだけであった。
「許して欲しいとは思っちゃいないよ、ヤミノ君。でも、そうだな」
 一歩ヴィが足を踏み出せば、力の差であるのか、闇野が後退しそうになる。視線だけで体が呪縛される。そんな力関係をわかりきっているのだろう、ヴィは無頓着に歩を進めた。
 この部屋は気持ちひとつで狭くも感じるが、今の三人にとっては恐ろしく広かった。
 まゆらの前へとヴィが辿り着く間にも、遠くでどぉぉぉんと大きな鈍い音がして建物がびりびりと震える。白い霧も、縦に激しく揺れた。
 ただ、ヴィの言葉だけが静かだ。
「許しなんていらないけれど、まゆらに願い事なら、あるよ」
「願い事……?」
 すぃと優雅な仕草で伸ばされた手で触れられるのは、まゆらの亜麻色の髪。とても大切なものに触れているかのように、または、流れる清水の感触を楽しんでいる子供のように、さらさらと何度も梳かれる。
「うん、願い事。ぼくを愛して?」
 何でもないことのようにさらりと口にされた言葉に、まゆらは言葉を失った。なにを言っているのだろう、この子供は?
 けれども、次の言葉は、先の願いをうわまわっていて。
「それがイヤなら、ぼくを殺して」
「そんな、の――」
 できるわけが、ない。
 まゆらがヴィの手をはねのけられないのも、声にならない当たり前の回答も、ヴィにとっては想定内。
「でも、どちらもまゆらにはできないだろう? だから、こうするんだ」
 くんっとひかれた髪に誘われるように屈んだまゆらの唇に、ヴィは口付けた。
「?!」
 唇と唇で触れる行為にしては柔らかくない接触の隙間に吹き込まれたものはなになのか。
 ヴィの唇がなにごともなかったかのように離れても、まゆらは身動きができず。
 ただ、すぐそこにある赤い目に魅入られていた。
「なにをするんです!」
 闇野がヴィの呪縛を無理矢理振り切って、まゆらから少年を引き剥がそうと手を伸ばすが――
 ヴィが指を一閃すると、闇野の体は鉄格子の外の世界へ――ロキとヘイムダル、そしてガーゴイルが戦闘を繰り広げる、そのただ中へと放り出されたのであった。



《 TOP
NEXT 》