赤い月は泣いている 

【 9 】






 あの廊下へと続くはずの、玄関ホールの隅にある、左翼棟への入り口にあたる扉。
 ロキがその扉を開けると――中に広がっていたのは
「熱帯雨林」
 どこぞのジャングルであった。これは恐らく、秋の終わり頃に読んだ長編冒険物からの場面設定だ、とロキは思い至る。
 足元は床でも絨毯でもなく、弾力のある土。
 まわりにあるのは、色濃く大きな葉に、無造作に垂れ下がった蔦植物。
 土と緑は乾いた日本では体験できないほどに匂いが濃く、湿気やほどほどの熱気も相まって息苦しいくらいだ。
 先の空間は悪臭で鼻が敏感な獣であるフェンリルにとっては地獄であったが、ここもまた別の意味で地獄であるようで、先からフェンリルの鼻にはしわが寄ったままだ。
 遠くで甲高い鳴き声をあげたのは、推測するにかなり大きな鳥のようだ。そこここでニホンザル程度の大きさの動物が興味深げにこちらをうかがっている気配もある。無感情でありながら鋭い視線を投げかけてくるのは蛇だろうか。それらは、果たして攻撃を仕掛けてくる敵なのか。今の段階では判断がつきかねた。
 その世界は、命令が下されたから攻撃する、傷つけられる前に攻撃する、なにかを護る為に攻撃すると言った理知的なものではなく、生き延びる為に、捕食する為に攻撃する――そんな、原始的な力が大自然の調和の奥底に見え隠れしながらも確かに充ち満ちていた。
 一行がやって来たはずの背後を振り返れば、とうに赤い扉はなく。元の屋敷へと戻る道はふさがれていて。あの屋敷全体の空間が歪まされているのだと、つくづくと思い知らされる。
「前に進むしかないのでしょうか」
 歪んだ空間での『前』など一番あてにならないとは知りつつも、闇野は途方に暮れた視線を周囲にめぐらせるしかない。
 その彼の手を、つ、とかすかな力でひいたのは、繋いだままの人形の手。
 振り返れば、人形は繋がれたままのおのれの手と闇野の手、そこにぼんやりと視線を落としていた。
「どうしました?」
 なにやらその様子が所在なげで儚く、これは人形であり、あのヴィと言う子供の駒なのだと理性ではわかりつつも、身をかがめて顔を覗き込みながら問わずにはいられない。
 造作がまゆらを真似て造られているからだろうか、それとも壊れそうなほどに華奢な少女の姿だからだろうか。いや、やはり作り物だとか本物だとか、理屈ではなく気になる存在があるのかもしれない。ドロドロに溶けたあの男のように、困惑のいっぺんさえ宿らない、ガラスじみた目ではないだけになおさら。『視覚に強く惑わされる人間』とは遠く隔たった存在であるのに、本質だけを見て物事を判断するのは彼にも難しい行為であった。
 繋いだままの手が嫌だったのだろうかと気がついて闇野は力を緩めるが、それを追いかけるようにして人形の手に力が込められた。
 そんな自分の手を、人形は心底不思議そうに眺めている。
「どうしてあなたたちは、こんなところまで来たの?」
 唐突な、『今更』の質問。
「どうして、とは?」
「だって、わたしがここに戻ってきたのは、わたしの意思なの。わたしはナニモノなのか、なんの為にこの世界に存在しているのか、わたしを作った創造主に問う為。わたしにはわたし自身の為の目的がある」
 あなたたちには、あなたたち自身の為の目的はないのではないかしら? あの人形や、ヴィがどれだけあなたたちに似ていたとしても、やはり本物は本物、なんの影響があるのでしょう。
「それとも、やはり偽者が存在しているのは我慢がならないのでしょうか。排除せねばならないほどに? ならばわたしをも排除するの? 壊す為にここまで連れて来たの?」
「壊すだなんて、そんな……」
 そんなつもりで連れて来たんじゃない。ならばどうして連れて来たのかと重ねて問われれば、答えに窮してしまう。あの時はそんなところまで考えが及ばなかった。
 強いて言うならば、『あのままあそこにいては危険だったから』とか『つい連れて来てしまった』とか――『ひとりで置いていてはなにをするかわからなかったから』『その危うさがあったから』――としか答えられない。
「キミは、怖い?」
 ふたりのやり取りを黙って見守っていたロキが問いを投げかけた。どこか、恐ろしく静かな声であった。
「自分自身がナニモノなのかもわからない状態より壊されることの方が怖い? それとも、ナニモノなのかもわからないまま、中途半端に、他者に無理矢理消されてしまうのが怖い?」
 人形は、視線をゆっくりとあげ、ロキを見た。どことなく驚いた表情で、今までで一番感情の色が豊かだった。
「難しすぎた? 質問は簡単。おのれの存在に疑いを持ったまま『死ぬ』かもしれないのが怖い?」
 人形は口を開きかけて……なにを言うでもなく、視線を彷徨わせた。
 そんな質問は――それは、まるで――……
「とても人間らしい感情かもしれないよ。人間だって、本物だって、自分自身がナニモノなのか知らないんだ。そんなものは、誰にも答えられないんだ」
 答えはここにあったのだと、人形はまぶたを閉じ、ロキの言葉の意味を考える。
 創造主であるヴィが吹き込んだモノ以外はなにもないと感じていたおのれの中には『恐れ』があった。
『恐れ』など、痛みも苦しみも悲しみもない人形には不必要なもの、元から備わってなどいない感情。なのに『恐れ』は中にあった。
 人形などではないのかもしれない、この身は。自身の存在意味への『こだわり』や主に向ける『疑い』も、あるはずがない感情であったのに――どうしてここまでわたしは来たのだろう? その衝動こそが、主にこうあるべきと形作られたわずかばかりの存在意味に矛盾した行為なのに。
 人形はゆっくりとまぶたを開けた。
 重厚な屋敷の中とは思えないほどの濃い緑が広がるそこは、先と同じ場所であるはずなのに、彼女にはまったく違う印象を与えた。
 鮮やかな緑、葉の隙間から覗く紺の空。耳に優しい鳥の声。甘ささえ感じさせる土の匂い。腕に絡みつく湿気。ひっそりと、それでいて確かに存在している、色濃い『生』の気配。
 ここはまぼろしの世界であるはずなのに、本当だと思えばなんとも本当らしい世界。
 なにをして本物と偽物をわけるのか、この瞬間ばかりは強固なはずの境界線もあっけなく崩壊してしまう。
 胸の中央に熱くこごった疑問が居座る。それを人は『心』と呼ぶのかもしれないが――本物と偽物に意味があるのかと、心の底から主に問いたかった。
「さっき、キミはヤミノ君に聞いていたね。本物だったら偽者の存在など影響ないだろう。ならば、自分自身の為にここに来る必要はないだろう、と。でも、いくら本物でも、遠くでひっそりと存在しているならいざ知らず、目の前をうろちょろするばかりかこちらの生活ひっちゃかめっちゃかにしようと考えてる存在は腹がたつし、それに、自分自身の為以外にも行動する理由なんかそれこそいくらでもあるんだよ」
 本物とか偽者とか。
 自分とか他人とか。
 そんな両極端だけで答えを出したり動いたりなんかしない。それが『生きていること』と『しがらみ』
「ヤミノ君がここまでキミを連れてきたようなもの」
『究極の自己責任』――そんな短い言葉で他者を放っておけるほど理性は完璧ではなくて。
「ま、単純に言えば、怒ってるだけなんだけどネ」
 ロキはおどけて笑ってみせた。
 生きている意味に単純な答えなど出せないけれど、理屈をこねて答えを出してみれば案外と単純な理由で滑稽なほど。
「そう……そんな理由なの」
 人形は、息苦しいほどに濃い緑のただ中で、やわりと微笑んで見せた。それは、感情のこもった笑みだった。
 わたしはわたしのままでいいのだ。何かを求めたりしなくていいのだ。このままの存在が『わたし』なのだと理解できれば、それで充分だった。
 けれど、もうひとつだけ――もうひとつだけ、願いが生まれた。この湧き上がる気持ちに名前をつければ、それは『我が侭』と呼ばれる欲求なのだろうか?
 彼女は困惑をほんの少しだけ感じながら、その『困惑』があることにすら喜びを感じつつ、生まれ落ちたばかりの欲求を口にした。 
「お願いがあるの。わたしが偽者でも本物でもないのなら、名前をつけて欲しいのです」
「名前、ですか?」
 彼らの『お願い』はどうしてこんなにも悲しいのだろう。ふたつの『お願い』に居合わせた闇野には彼女にかける言葉が見つからない。
 繋いだままの手は人形のものだとわかりながらも、どこかしらあたたかい人の手に感じられて。
 どちらからともなく離れた手が少しばかり名残惜しくて。
 闇野は、彼女の横顔から視線をはずせない。
「わたしは大堂寺まゆらではないし、大堂寺まゆらになりたいわけでもない。けど、わたしはわたしだと言い張るのに、どこに根拠があるの。わたしには『わたし』以外に指し示す言葉すらない。誰がわたしを認識するのでしょう、名前もないモノは所詮『アレ』や『コレ』としか認識されない。それでは、路傍の石と同じ」
「群集に埋没すれば個は個として認識されない……か。そこでならキミはまがい物であっても『ヒト』になれるかもしれないけれど、あえてもう一歩進みたいわけだ」
「願い事こそもっと単純なものかもしれません。わたしは『わたし』を認識したい、ただそれだけです。他者がどうであろうとも、わたしこそが」
 ロキと彼女の言葉は、どこか謎の歌のようで。
 そこはジャングルのはずなのに、紺碧の空の真ん中のようで。
 不自然に流れる空気が、少しばかり寂しくて。
 予感のふたつめ。
 ロキは、それを目の前にしているのだと悟った。
 ひとつめは怒りをまとっていたけれど、ふたつめは悲しみと、あえかな希望を帯びていて。
 彼女の前へと歩を進め、ロキは、彼女にひざまずくように促す。
 彼女が膝をつけば、視線が至近距離で絡まる。
 頬を染める色は、まるで月に照らされた白梅のような白さ。
 ロキはその白い頬に触れた。まがい物なのにあたたかいのが不思議だ。そのあたたかさは、彼女にとってはこの上もなく惨いものだろうに。あたたかさや柔らかさや、思考のかけらもなければ、彼女は自身のありように疑問さえ抱かず、ただの人形として存在できただろうに。
 冬の空にかかる細い三日月が投げかける、透明に澄んだ色が心に浮かんだ。凄烈でいて孤高。なによりも美しく、侵し難い光。それでいて、他者を導く灯明のような色。
 目の前の存在は、もう『まゆらの粗悪品』にも『類似品』にも見えなかった。
「――モンデンキント」
 口をついて出てきたのは、そんな名前。
「ミヒャエル・エンデってドイツの作家を知っている? 映画にもなった『果てしない物語』の中で、空想の世界を治める女王に新しい名前が必要になった時、主人公が名付けた名前」
「アトレイユに導かれてファンタージェンにやって来たバスチアンが、『幼ごころの君』に『月の子』――モンデンキントと名付けるの。まゆらが好きなシーンよ」
「知っていたの?」
「知っているわ」
「実は、ボクも好きだ」
「わたしも好きよ」
 ロキは、モンデンキントの白い額に口付けを落とした。ここに生まれ落ちた彼女を祝福する為に。
 そして、両手を広げて、華奢な身体を抱きしめた。ここに生まれ落ちた彼女を抱きとめる為に。
 モンデンキントはまぶたを閉じて、こうべをたれる。神の御前で祈るような、美しい横顔で。

 彼女は、ロキの両腕の中で白い光を放ち、その姿を梅が花開くようにほころばせ……一枚の白い扉へと変化した。
 優雅な曲線を描いた扉には、繊細な飾り文字で『モンデンキント』とドイツ語で彫られている。
 満月に似た丸い金色のドアノブにかけられたタグには『ひとりだけ通ることができます』との注意書きが。
 この現実的なまぼろしのジャングルの中で、この扉だけが非現実めいた『現実』として三人の前に存在していた。

「彼女は、使命をみつけたのですね」
 白い扉を見つめながら、闇野が呟く。
「彼女は、おのれがナニモノなのかに自身で気付き、肯定したんだ」
 それは悲しいことなのだろうか、喜ばしいことなのだろうか。闇野にはわからなかったが、彼女が決めたのなら受け入れるしかないだろう。
 ロキは金色のドアノブに手を伸ばし、扉をひき開ける。
『空想の世界の女王』の新しい名前と同じ名をつけられた扉をくぐれば、そこはどこまでも現実的でありながら非現実的な世界。
 扉の向こう側に赤い廊下は真っ直ぐと伸び、ロキはその世界へと一歩踏み込むのであった。



《 TOP
NEXT 》