赤い月は泣いている 

【 10 】






 右側にはずらりと扉が並び。
 左側には磨きぬかれた窓ガラス。そこから昼の光がさんさんと降り注ぎ、赤い絨毯に白い色を落としていた。
 ロキの足元には淡い影が生まれ、彼は一歩一歩おのれの影を踏みしめて歩を進める。
 廊下もまた独立した歪みの空間。左手にある庭に咲き誇る紅梅は、穢れなど知らぬ顔をしている。実際は、乳白色の霧が屋敷全体を覆い、空には赤い月と夜の色があるはずなのに。
 その場所は、ヴィの屋敷の左翼棟。
 玄関ホールからこの赤い廊下へと入る扉の対として存在している扉へと、ロキは迷わずに歩く。月の子供が導く場所に誰がいるのかなど、考えずとも答えは知れていた。
 ロキは右手に並ぶ扉などに一切視線などくれず、とうとうその目的の扉前へと辿り着くと、一息に扉をひき開けた。
 壁紙もカーテンも絨毯までもが赤い、広い部屋の窓辺に。
 赤いドレスに身を包んだまゆらが立っていた。
 白い扉をくぐればかけらの本体に辿り着くなんて推理以前の問題だ。
 だがロキは、まゆらの名を呼びもせず、す、とその白い顔を見つめたまま動けなかった。
 なにかを我慢している、苦しそうな表情など、見たくないのに。
 窓ガラスに映るまゆらの顔は驚くほど蒼白で、今にも泣き出しそうなもの。
 窓の向こうに落ちているのは、重く沈んだ乳白色の霧と赤い月。
 どうしたの?
 そう聞ければ楽なのに。眉根を寄せて、内にあるなにかを表に出すまいとしている彼女が可哀想で、問いを向けられない。
 かわりに、彼女を苦しめている、今だ姿を見せない元凶への怒りが募っていく。
『ソレ』が彼女になにをしたのか――ロキの目ならすぐに知れるのに。
「まゆら、言っていいよ」
 それだけを口にするのにどれだけの覚悟が必要なのか、元凶も、彼女すらも知らないだろうけれど、
「我慢しなくていいんだ」
 底の浅い精神的揺さぶりは飲み込んでやると心に決めた。
 ロキが一歩進むたびに、まゆらが痛ましいほど苦しげに顔を歪ませて、いやいやと頭を振っている。
 心臓をじわじわとつかまれているような。呼吸を少しずつ奪われているような。苦しさと哀しさが入り混じった目だ。それでいて、近づいて来るロキを傷つけたくないと強く訴える目でもあった。
「いいんだよ、まゆら」
 三度重ねた許しの言葉に、まゆらのまつげがふるりと震えて。
 閉じられた両のまぶたのかわりに、色をなくした唇がわなないてかぼそい言葉を紡ぎだす。
「ろきく、なんて……きら……きらい……っ」
 はじめの一音を発してしまえば、決壊した川のように言葉はとまらなくて。
 今はじめて呼吸を許された赤子のように肺いっぱいに息を吸い込んで、自分がなにを口にしているのかもわからないままに言葉を紡ぐ。
「ろきくんなんて……きらい、だよぉっ」
 大きく言い切られた言葉に。
 ロキは一度だけ目を閉じて。
 ――痛みに耐える。
「大丈夫だから、まゆら」
 苦しさに震えるまゆらの細い身体と、投げつけた言葉に反して絶望に染まった白い頬に次々と流れ落ちる涙をしっかりと見つめて。
「キミの言葉は耳半分で聞いてるから、大丈夫」
 もう一歩を進める。
「きら……きらい――」
 耐え切れなくなり、両手で顔を隠してしゃくりあげるその隙間から零される言葉も全部すくい取ろうと。
 ロキはまゆらのもとまで歩を進めて。
 苦しさに耐え切れず床にくずおれたまゆらを抱きしめる。
 光沢のある赤いドレスが床に広がれば、まるで紅の薔薇が咲きほころんだようで。綺麗なのに、哀しい。
 薔薇の棘は忌み嫌われるものだが、それは薔薇の望みではないだろうに。それに、棘を含めた薔薇の存在を愛するのも他者の勝手だ。
「ろきく……い……――」
 腕の中で震える身体はとても小さくて脆い。なのに、ヒトならざる者が施した呪縛に一生懸命耐えた心は強い。ロキの心を傷つける棘の言葉を必死でこらえようとする気持ちは薔薇の花びらの手触りに似て。
 ヴィがまゆらに施したのは――とても底の浅い精神的揺さぶりに過ぎないけれど、ロキを傷つけるには十分なもので。嫌いの言葉より、それを言わせた事実が。その言葉を言うまいとして苦しむ彼女の姿により強く動揺してしまう。
 そしてまたそれらは、ロキを怒らせるにも十分なもので。
「大丈夫だから、まゆら。頑張ったね」
 震える身体を抱きしめる腕に力を込めればようやくまゆらは安心したのか、おずおずとロキの背中に腕をまわしてしがみついてきた。こくりと小さく頷いたのは、もう言葉も発せないからなのか。
 父親のようにぽんぽんと背中を叩いてやれば、まゆらは胸元に顔を摺り寄せる。まるで、小さな子供を抱きしめているような錯覚に陥りそうになる。
 誰が『彼女を壊した』かわかりきっているだけに、その名を思考にのぼらせるのも、ましてや口にするのも腹立たしさの極みなのに、
「ヴィくんを……たすけて……」
 幼い子供の口調で、震える声で、彼女がその名を口にするのだからたまらない。
「まゆらは、ボクが怒ってるのに気付いてないの」
 耳元で声を抑えて問いかければ、しがみつく手に力が込められて。
「わかってる……っ。こわい……ろきくんがこわい、くらい」
 まゆらに『怖い』の一言を向けられる日が来るとは、微塵も考えていなかったのに。
「でもっヴィく……あのこ――ッ」
 胸の中に蓋をされている最後の一枚。それを一生懸命に押し開けて伝えようとする言葉は無残なほどに途切れ途切れ。
 でも、『なに』を願っているのかはすぐに知れるけど、
「キミの言葉は耳半分で聞くって言ったでしょ」
 だからと言って、まゆらの『願い事』でも――聞かない。
「あいつになにをされたのか、ちゃんとわかってて言ってるの?」
 かすかにこくりと頷く、まゆら。
「ボクが怒ってるのもわかってて、それでも助けてやれとは、まゆらはとことん甘すぎる」
 思わず、いっぺんの曇りもないため息が漏れてしまう。
 実は、彼女自身も気がついていないだろうけれど、まゆらは懐が広すぎる。誰も彼も受け入れて、本人はけろりとしているけれど。ロキからすれば、それは危ういもので。
 いや、彼女の度量の広さに甘えている自覚が悲しいながらもしっかりとある邪神としては、すべての事象がいつか彼女のキャパシティを超えてしまうのではないかと心配で恐ろしくて。
「托卵って知ってる? 郭公なんかが有名だけど」
 唐突に向けられた問いに、まゆらは目をぱちくりとさせた。上向いたそこにある緑の目は、底が知れないほどに深い色。
「別種の鳥の巣に卵を産みつけて育てさせる方法なんだけど。産み落とされたその卵はね、巣にあったもとの卵よりもはやく孵って、他の卵を地面に落とすんだ。親鳥の愛情を――関心を独り占めする為に。それが偽りだと知りつつ」
 彼女の懐にこれ以上異物が混じり込むのは我慢がならない。キャパシティを超えるかもしれない要因は取り除いてしまいたい。おのれの安泰の為に――そんな気持ちを持っているなどと彼女には最後までわからないだろうけれど。
 わかってもらいたいとはこれっぽちも考えてはいないから。
 我ながら我侭が過ぎるとは自覚しながらも、やりたいようにしかやらないし――やれない。
「キミは、少し眠った方がいい」
 ロキの言葉に導かれたかのように、ゆっくりとまゆらのまぶたが落ちてきて。
 力の抜けた身体をロキへと預けて、まゆらはゆうらりゆらりと水の中に似たあたたかな眠りの中に落ちて行く――……
 眠りの中にゆぅらりと落ちる中、なにか大切なものを手離してはいけない気がしたのに――まゆらにはそれがなにだったのかわからなかった。

   * * *

 どこまでも赤く深く染められた部屋の窓の向こう側は、濃い乳白色の霧と赤い月の輝きと、それらを包み込む夜の闇。
 ロキは、闇野とまゆらの為にはけして開こうとはしなかったその窓を大きく開き、ひらりと庭へと降り立つ。窓が開くかすかな風に霧はふわりと広がったが、それはすぐに元へと戻り、ロキの身を深く飲み込んだ。
 とぷん、と音がしそうなほどに深くねっとりとしながらさらさらと黒衣の表からこぼれていく霧を掻き分けて、かろうじて霧と空の狭間から枝を伸ばした紅梅へと向かう。
 じっとりとした水気の塊であるはずの霧に乗り一段と梅の香りが匂い立つ。それは、めまいがしそうなほどの血臭にどこかしら似ていた。
 濃く垂れ込めた霧を分けて歩を進めると、赤い月にじわじわと溶かされているかのように、霧が薄まってきた。
 そして、紅梅のたもとへと辿り着いた頃には、そこだけぽっかりと霧に囲まれたドームが出来上がっていた。樹の根元に積もった雪は、じわじわと樹の体温で溶かされて丸い円を描く。その状態に似ていた。
 紅梅は見事な古木。その枝々に咲きほころぶは、ふっくりとした花びらを幾重にも重ねた丸い花。この非現実的な屋敷の中でどこまでも清らかな佇まいを見せていながらも、その濃い香りが見た目を裏切ってやまない。
 櫻の木の下には死体が埋まっていると言う。ならばこの血に濡れたよう色の、血臭にも似た香りを振りまく紅梅の下にはなにが埋まっているのだろう。おびただしいほどの死体か、はたまた、生きた人間が埋まっていてもおかしくない。そんなことをふと考える。
 屋敷の境界線である、瀟洒な洋風の鉄格子と和の代表である紅梅の組み合わせは、一種レトロチックな光景だ。
 そして、そんな光景を背後に従えてロキを待っていたのは、彼と同じ年恰好の、黒衣の子供。
 赤い月に照らされた艶やかな髪は深い赤。その下にある左の目は赤く滲んでいた。
 男なのか女なのか判別しづらい中性的な造作に浮かぶのは、アルカイック・スマイル。いや、待ち望んでいた獲物が目の前にあらわれた、理性的な獣の満足げな笑みかもしれない。どちらにしても、人間の子供が持ち得る気配ではなかった。
「悪趣味すぎてイヤになる」
 ようやく辿り着いた元凶に向けたロキの言葉は、そんなものだった。
『怒り』とは燃え盛る感情だとロキは考えていたが、どうやらそれは違うらしい。怒りも突き詰めれば凍えてしまうようだ。だがそれは、すべてを破壊したい、けして許しはしないとの衝動が形をかえただけ。
『怒り』とはどんなに形をかえても破壊衝動でしかないのだと、ロキは冷静に考えていた。
 身内に手を出されたのが許せないし、まゆらを苦痛でもって縛り無理矢理操った行為が許せないし――それらをしたのがおのれを彷彿とさせる類似品の仕業であるのも許せないし、そうなるとその存在自体も許せはしなかった。
 それ以上に――この一連の元凶を呼び起こし変質させた『諸悪の根源』とも言うべき存在が、自分自身であったのが腹立たしくて仕方がないのに。
「ボクの模写とはご苦労なことだね。キミには窮屈なんじゃないの?」
「ご心配ありがとう。でもぼくはこの姿が案外気に入ってるんだ。だって、こっちの方が彼女と釣り合うし――」
 それに、キミと相対峙するにはちょうどよい大きさでしょ?
 目を細めて笑みをつくるその顔が気に喰わない。まるで、自分自身を見ているみたいだ。ロキは無言で手にしたレイヴァテインを構える。
 シャリン、と金の輪が鳴り、残響は霧の結界に吸い込まれていく。
「魔力比べは互角じゃないの? なにせぼくは、魔力の塊であるドラゴンなんだ」
「こちらこそご配慮ありがとうと言うべきかな。そんなのとっくに知ってるさ、ヴィーヴル」
「へぇ。じゃぁ、どうしてぼくがキミたちにちょっかい出したのか理由もわかっているのかな、ロキ君?」
「ない物ねだりする子供は滑稽なだけだ。それ以前に、器物として存在していたものは無駄に目覚めるべきじゃぁないと思うけどね」
「目覚めさせたのが誰なのかには気がついていないわけだ」
 気がついているからこそ怒りは凍えているのだとは口にせず。
 ロキはレイヴァテインを優美な曲線を持つ細身の日本刀へと変化させると黒々と濡れた鞘からすらりと抜き放ち、強く一歩を踏み込んだ。



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