赤い月は泣いている 

【 11 】






 ロキの一手を、ヴィはその手の内に生み出した刀で受けとめる。ロキの刀と一対であるかのような一振りではあったが、その鋼は赤く塗れ、血にまみれて見えた。
 至近距離で交錯する目は、深い緑と深い赤。
 チリ、と力と力のぶつかり合いの狭間にあった鋼が擦れ合う音に、ふたりは互いの刀を引き間合いを取った。
 ふ、と花びらが一枚、舞い落ちたのを合図に。
 黒衣の少年ふたりの、命をかけた剣の舞がはじまる。
 魔力は互角だ。神と言えども子供の姿にされ力の大部分を制御されたロキと、魔力の塊と言っても片目のドラゴン。
 かと言って、体力的にも互角であった。それは、ふたりともが子供の姿であるのとはまた別次元の理屈だ。非現実の世界で現実的な意思を持って実体を保っている。それこそが『存在力』に関与していた。
 ならば勝敗は技術力かと問えば、ロキの力を模写した鏡にも等しい存在であるヴィのそれもまた互角であった。
 最後に勝敗を決するのは――精神力、それ以外のなにものでもない。
 鋭く切り結んだ互いの刃は、その場に相応しくないほどに澄んだ音を響かせる。
 じわじわと乳白色の霧の結界がほどけているのか、足元には地面さえ定かではないほどに霧が重く澱んでいた。だがふたりとも、足元になど一分の注意も払わず、踏み込んでは切り結び、間合いを開けては返す歩で詰める。
 ふたりの動きはただの子供では有り得ないものだ。切り込み、またかわす動きは、ひらりひらりと飛び交う蝶のよう。
 チリン。リン。
 刃と刃が作り出す音は、鈴の音にも似ていた。
 残戟は霧を払い、寸の間だけ隠れた黒い地面を覗かせる。
 赤い月の光を弾いて、切っ先は細い残像を宙に刻む。
 緩やかな曲線が作る二振りの刃は、露をはいたようにしっとりと濡れて冴え冴えと輝く。
 チッ、と左頬をかすめ、白い肌に傷を刻まれたのはロキだ。薄皮一枚だがすっぱりと裂けたそこからは、じわりと赤い血が滲む。
 けれども、そんな瑣末な傷になど少しの注意もくれず、ロキはおのれの刀で容赦なくヴィへと切り込んだ。
 その冷たい鋼の刃は、ヴィの左肩にざっくりと突き刺さり、肉を切る鈍い音と、骨と繊維を無理矢理に断ち切るブツブツとした感触をロキに伝えた。
 ぽつ……と、傷の大きさに反して静かに乳白色の霧の下へと落ちていったのは、ガーネット色をした重いしずく。
 その後を追うようにして、ヴィの身体は霧に沈んだ。濃い霧はとぷんっとかすかに揺れ、彼を飲み込む。
 彼の赤い目にうつったのは、高い空に飾られた赤く丸い月と、闇を含んだ深い緑の双眸。それはどこかしら、静かな光景であった。
「たかだか数百年の命をたった数日にこごらせて手に入れた『まやかし』に満足だろう? 愚かなドラゴン」
 ゆらりと揺れた白い海はすぐに穏やかさを取り戻し、ふたりを空の目から隠しやる。
「ぼくは……」
 突き刺した刀を抜きもしないロキの問いに、ヴィは反論の言葉もない。満足なんて知らない。結果はわかりきっていたけれど、満足なんて言葉は知らない。
 護るのを当然と考えていた存在たちを奪われ閉じ込められ傷つけられ、彼らを取り戻す目的のあるロキと。はじめから失うとわかっているヴィ。
 どちらの気迫が勝るかは火を見るよりあきらかだったけれど、だからと言って、たった数時間だけ夢が叶ったからと言って、満足のはずがない。
 いや、その夢自体も、そもそもヴィ自身のものであったのか、確信は本人にもロキにもない。その理由が彼らにはよくわかっていた。ヴィはロキの心を写し取った鏡にすぎないのだ。鏡は所詮鏡であり、そこに確固たる意思などはない。
 ふたりがともに望んだのは『永遠』
 でも、『永遠』なんて言葉は、流れ行き一時も留まりはしないこの世界では確かな約束の言葉にすらならないとふたりは知っていた。
 この世界に仮初めでも『永遠』があるのなら――ロキは『永遠の神の国』から追放されてなどいないだろう。
「キミにはとことん主体性がない。イヤになるくらい悪趣味だ。ボクの気持ちの代弁なんかしないでくれるかい? ボクはボクなんだから」
 ロキは、ヴィの左肩に突き刺した刀を地面に食い込めとばかりに埋め込んだ。ヴィの肉が引きずられて切れる感触が柄を伝ってロキの手に生まれる。
 立ち上るのは、まごうことなき血の匂い。いや、梅の香りだろうか。もうふたりにはわからなかった。不自然なほどに強い梅の香りに頭の先からすっぽりと包まれて、血の海に沈んでいる錯覚が頭の隅に降り積もっている心地すらする。どこか、泣きたくなるほどの甘酸っぱさとともに宿って消えない奇妙な錯覚。
「寂しいなんて、本気の本気では晒さないよ。誰かがボクのそばから消えても連れ戻すし、彼らがちゃんと手順踏んでそばから離れる時はボクだって納得する。それに、欲しいものは自分でちゃんと手に入れる。仮初めごときで満足できるはずないだろう?」
 ヴィは、口の端を歪ませて笑った。
「心が死ねばいいのに、なんて戯言を言ってたわりには強くなった」
「そう? お褒め戴けるとはありがたいな。つくづく甘ちゃんな発想だと今なら思うけど、ボクにだって弱気になる権利くらいはあるだろう?」
 ロキは、地面に縫い止められたヴィの身体にまたがり、顔を寄せる。接近する赤と緑は、驚くほど澄んでいた。
「自分の弱い部分ばかりを集めたキミの姿は、まさしく反面教師と言わざるを得ないだろうね。ここまで見事だと感心する」
 ロキは手を伸ばして、どこか優しげな仕草でヴィの前髪に触れた。ガーネット色の髪だからだろうか、硬質な感触がした。
 顔にかかる髪をかきあげてやれば、白い額があらわれる。そこに、ロキは静かに口付けた。だがそれは、小さな子供に与える祝福などではなかった。
「それに、ボクの性別まで写し取るとは悪趣味も極まれりだな。まゆらに執着してたことと言い……ヴィーヴルはメスばっかのイキモノだろ? 酔狂にもほどがある」
 ヴィは、はじめて憎々しげな目をロキに向けた。
「個体数の減ったぼくら種族に変革をもたらす為、と言ったらどうする?」
「大人しく人間の男でもひっかけてりゃ良かったんだ、いつも通り」
「おあいにくさま。ぼくは片目を取られた時はほんの産まれたてで、男でも女でもないような存在だったんだ。なら、つがいに誰を選ぼうと勝手だろう」
 人間の女の血を取り込めば次代の寿命は延びるだろう。そんな意見すらもただの言い訳に過ぎないとヴィにはわかっていた。
 目が覚めた時、ロキがそこにいた。その手から離されたと思ったら、そこにまゆらがいた。理由はそれだけで十分だったのだ。生まれたばかりの未成熟なドラゴンに無理矢理された刷り込みはあまりにも強烈で、ヴィに拒否権などなかったのだから。
 ロキはヴィの言葉にすっと表情を一段なくし、髪を撫でていた手でヴィの左目に触れる。ガーネット色をした一粒の瞳は熱を失ってそこにある。
 右目が暗く沈んで見えるのは、右目を抉られたからではなく――彼の身を構成するのが、ブローチとして存在していた左目だけだったからだ。
「ヴィーヴルの魔力の源がその目なら、もうその目は必要ないだろ」
 ――もう願い事がないのなら、あとはお仕置きの時間だよ。
  

 のぼりはじめの月が赤く見えるのは、光の波長の悪戯だ。
 だが、滴るように赤い月も、中天を目指している間に真白い色に変わる。
 誰が染め替えるのかは知らないけれど、それは連綿と繰り返される月の不思議。

   * * *

「ロキ様、ごぶじ……」
 赤い屋敷の主が消え去れば、非現実な廊下も部屋も庭も、もちろん閉じられたジャングルすらも不安定になるのは道理。
 まだかろうじて存在している赤い廊下に転がり出た闇野とフェンリルは、当初の目的通りあの赤い部屋を目指したのだが……
 勢いをつけて開け放した赤い扉の向こうにいたのは、赤いドレスを散り落ちたバラのように広げて床に倒れ伏したまゆらの脇に佇み彼女を見下ろしている、大人の姿のロキだった。薄い金色の髪が青い瞳に影を落としていた。
「ロキ様、覚醒なさったんですか??」
「うん。あのガーネットのブローチは年代物で、闇が深かったからね」
 ふっと奇妙な間を挟み、ロキはふたりへと視線を流し、笑みを刻んだ。それはどこか不自然な笑みだった。
「ヤミノ君とフェンリルは、先に行ってヘイムダルに合流していてくれる? あの怪物はもういないだろうけど、通路の確保をお願い」
 その言葉の間にも、赤い部屋は輪郭をあわく滲ませ続けている。
「ロキ様は……」
「ボクはもう少しすることがあるから」
 不自然な笑みのまま、視線は再び、まゆらの上に。
「わかりました。……お願いします」
 闇野の言葉の前に置かれたものが『なに』なのかがロキにははっきりとわかっていて。ぎゅっと握りしめる両のこぶしは皮膚を食い破らんばかりで。
 ぐずぐずと端から崩れかすみ溶け消えていこうとする亜空間のただ中で、ロキはまゆらのそばにひざまずいた。
 気配を感じたのか、ふ、とまゆらの目が――開く。

   * * *

 ぼんやりとした赤いお空にうつったのは。
 きれいなきんいろと。きれいな男のひと。
 誰なのかなぁ……。
 ぼんやりと考えていると、ふいに『ろきくん』って言葉が生まれた。
 ろきくんってなんだろう? 
 ろきくんって言うのかな。
 うぅん、ろきくんは子供だよ。こんなにおっきなひとじゃないよ。きんいろの髪でもないよ。
 でも、このひと、ろきくんだよ。まゆらにはわかるもん。ぜったいろきくんだもん。
「まゆら、大丈夫?」
 ぼんやりとしていたら、ろきくんが手を伸ばして、ほっぺたを撫でてくれた。気持ちがよかったからろきくんの手に顔をすり寄せてみた。やっぱり気持ちがよかった。
「どこか苦しい?」
 ろきくんが起こしてくれて、頭をろきくんの胸にことんと預けたら、とっても気持ちがよかった。くるしいなんて、ないよ。
 あのね、まゆらね、さっきまでね、くるしくてこわいゆめ、みてたの。だいすきなひとに『だいきらい』って言ってって、お願いされるゆめだったの。まゆらね、イヤだってはっきり言ったんだけど、ヴィくんはまたお願いするんだよ。
 お願いって、ちょっとかなしいね。いまはもうくるしくないしこわくないよ。
 でも、どうしてヴィくんはまゆらにそんなお願いしたのかなぁ。ヴィくんはろきくんなのに、変なの。
 そう言ったら、ろきくんは笑ってくれた。ほっとしたみたいだった。しんぱいだったのかなぁ、まゆら、だいじょうぶだよ。変なのももういいよ。
「あのね、まゆら。ボクはキミの願い事を叶えてあげられなかったけれど」
 まゆら、お願いなんかしたかなぁ?
「うん。とってもキミらしい願い事、聞いたんだけど、どうしてもできなくて」
 ろきくん、泣いてるの? って聞いたら、ろきくんが笑った。
「泣いてないよ」
 泣いてるよ、ろきくん。
「ほら、ほっぺた、怪我したから。それでかな」
 いいよ、だいじょうぶだよ。まゆらのお願いなんか、いいよ。だから、泣かないでね?
「うん、それでも……ボクの願い事、叶えてもらってもいいかなぁ?」
 ろきくんのお願い?
「うん。誰も、まゆらが壊れちゃうのは見たくないんだ。ヤミノ君も嫌だと思う。まゆらのパパもきっと嫌がる。だから、キミの記憶を消してもいい?」
 きおくをけす?
「傲慢だってわかってる。その手段と力があるからってこんなことしていいわけないって重々承知。キミが本当の意味で壊れきったわけじゃないのもわかってる。きっと、一晩眠れば夢から覚めて、明日からまた普通に生活できるだろうけど……キミの裏側に今日の記憶があるって考えながらキミを見るのが、ボクがたまらなくイヤなだけなんだ。キミの笑顔の中に歪みをさがしてしまいそうで……それは、ちょっとね、恐いんだ。だから、これは、ボクの我侭」
 きおくをけすって?
「わからなくてもいい。ただ、頷いてくれればいい」
 まゆら、よくわかんないけど。ろきくんのお願いなら、いいよ。
 ただね、ちょっとだけね、かなしいかなぁ。
 ヴィくんがね、言ってたの。
『ロキはキミのことを――……』
 なんて言ったのか、まゆら、ちゃんとおぼえてないんだけどね。
 そう言われて、すごーくおどろいたのと、すごーくうれしかったの、おぼえてるの。うれしくてうれしくてうれしかったの。ここがね、胸がね、ほわほわしたの。
 でも、きおくをけすって……そのほわほわもきえちゃうのかなぁ。まゆら、ちょっとだけそれはいやだなぁ。
 だけど、ろきくんが泣かなくなるのなら――いいよ。
「……ありがとう」
 そう言ってろきくんは、泣きながら笑った。

 そのろきくんを見て、忘れてたこと、思い出した。
 ヴィくんは――ずっとずっと眠りたいんだって。『えいえん』に眠りたいんだって。
 ろきくんとおんなじ顔で笑って言ってた。

   * * *

 どこにもない赤い屋根の古い洋館は。
 夜に降り積もった薄い雪が朝日に溶けるかのようにうっすらと夜の闇の中へ消え。
 後には、まぼろしよりもはかない光が残り――
 それも、ふぃと吹き抜けた風に攫われて掻き消えるのであった。



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ゴスペラーズの『狂詩曲』がイメージソングのお話でした。