「わすれもの」
学校帰りにその燕雀探偵社に入り浸るのが日課になっているまゆらは、日・祝日に限っては午前中にやって来るのが多かった。
うららかな陽射しが差し込む本日も例に漏れず昼食前の時間に帰宅したのだが、その彼女が座っていたソファの足元にポツンと落ちているのは学生手帳。どうやらコートのポケットに入れっぱなしであったらしい。
「あ〜あ、もう、まゆらってば」
『学生の自覚に足りないなぁ』――そんな言葉は、世間一般では立派な不登校児の上に引き篭もり児童扱いのロキには言われたくないだろう。
「学生手帳……気づくかな」
拾いあげたそれは、安っぽい合成皮。
ちらりと『中身を覗いてやろうか』と思わないでもないけれど、どうせまゆつばもののオカルト・ミステリー情報がびっしり書き込まれているのだろうと軽々予測ができてしまい、その想像だけで萎えてしまった。
ぼんやりとまゆらの学校の校章が入った皮表紙を眺めていたが、ふと脳裏によみがえるのは彼女の不服そうな言葉。
『抜き打ちで持ち物検査されちゃった。もう、ホントにイヤになっちゃう』
……やっぱり、学生が学生手帳を落としてちゃ駄目デショ。
ロキはコートを手に、探偵社を出るのであった。
* * *
燕雀探偵社からほどほどに離れた小山の上。そこに、大堂寺 操が神主を務める神社はあった。
ほどほどの階段をのぼれば、なかなかに大きく立派な赤い鳥居があり、風格のある社と鎮守の杜が広がっている。
社の奥にどっしりと枝を伸ばしてそびえ立っている銀杏の樹は、秋には黄金色に燃えなかなかに見応えのある光景であったが、落ち葉の時期になると掃除が大変だとまゆらがぼやいていた。さすがに今の季節は葉の一枚もその身に飾ってはおらず、どことなく寒々しい。
青い空の下にあるとその対比ではっと目を引くほどに美しい日本の丹で塗られた鳥居をくぐってすぐに、参道の行き着く先――拝殿前に子供がひとり立っているのにロキは気がついた。
後ろ姿だけでもこんな辛気臭い場所には似つかわしくないと知れる幼子の存在に、ロキは足をとめる。幼稚園児くらいだろうか。癖の強い黒髪の一房がぴょこりと跳ね上がっているのがなんとも愛嬌がある。
親がいるのだろうかとまわりを見回しても誰もおらず、ならばかくれんぼでもしているのかと考え直してもそんな雰囲気はない。
ちゃりん……ちゃりん……
軽い硬貨が賽銭箱に一枚、一枚、投げ込まれる音がする。
ちゃりん……からりん……
硬貨を投げ終わった彼は精一杯に背伸びをし、小さな手には太すぎる縄の先っぽにしがみつくようにして、社にまつられた神の気を引く為に鈴を鳴らした。
がらん、ごろん……ころん……
小さな子供が身体全体を使って精一杯に鳴らしたところで、それは本当に小さな音にしかならないけれど。
「願掛け?」
その鈴の音は、日本の神様でもなければ自慢できるほど立派な神様でもないけれど確かに『神』である存在の気を確実に捉えていて。
神社の参り方としては無茶苦茶ではあるが、ぱしっぱしっと小さなかしわ手も打たれ、こっくりと首を下げて目を閉じている様子など、ついぞこの俗世の中では見られぬ真摯さで。どうしてだか目が離せない。
「やっぱりロキ君だ」
背後――石段の下からかけられたまゆらの声にも振り返れもせず。
「まゆら」
隣に並ぶ私服姿の彼女の手には、重そうなスーパーの買い物袋が。どうやら追い越してしまったらしい。
「あ、ハルキ君。また来てたんだぁ」
ロキの視線の先に、まゆらも気がついたらしい。
「また?」
「うん、そう。あの子、信心深くて偉いでしょ」
信心深いって、あの年でそれはないんじゃないのと思わないでもないけれど。神様を深く信じていると言うのであれば、否定はできないだろう。
「ところで、前から思ってたんだけど、まゆらんとこの社にまつられてるカミサマってどこの系統の……」
「それでねぇっ。ハルキ君なにを願ってると思う?」
『……神社の娘のくせに逃げたな』
と思わざるを得ない話の切り出し方に、それでもロキはその内容に興味をひかれて顔をあげた。
まゆらの目も、参道の先にある小さな背中にまっすぐ注がれていた。
「お母さんに逢いたいんだって。夢の中でいいからって」
「夢の中で?」
「うん。去年の夏にね、ハルキ君のお母さん、亡くなったの。それもね……」
――交通事故。ハルキ君の目の前で。
「……そうなんだ」
ロキの声には、なんの色も乗らなかった。同情すらも、なにも。
「わたしのママもはやくに死んじゃったけど、ハルキ君より小さかったし、死んじゃうってのがどんな意味かもはっきりわからなかったくらいだし、病死だったから……。勝ち負けなんかないけど、きっとハルキ君の方が辛いお別れの仕方だって思うよ」
ハルキを見つめるまっすぐなその視線は、その背中に幼い自分の姿を重ね合わせているのだろうか。それとも、彼がこれから味わうだろう寂しさや喪失感を考えているのだろうか。
能天気に見えて、彼女は人の痛みや悲しみにひどく敏感だ。彼女自身の中にその痛みや悲しみがあるからなのだろう。
「前はね、うなされたり、叫んで何度も飛び起きたりしたんだって。お母さんに夢の中で逢えたとしても、血溜まりの中のお母さんになんかは逢いたくないものね。そうしてたら、そんな夢でも、お母さんに逢えなくなっちゃったんだって。今はお父さんとふたり暮らしなんだけど、お父さんも会社勤めだから、時間があれば家を抜け出してうちの神様にお願いしてるの。また夢の中で逢わせて下さいって」
「まゆらは――どんな姿でもママに逢いたい?」
ふ、と綺麗な間が落ちて。
まゆらはロキに向けて、にこりと笑った。どこか透明な笑みだった。
彼女は母親のことを尋ねればいつもこんな笑みを向けるのだと、ロキはもう気がついていた。
彼女が答えないことなど、とっくに予想済みだった。
* * *
薄闇迫るヒトの街の片隅にある古びた洋館で。
ヒトならざる者がヒトの『想い』を読み解いている。
それは不思議な光景で、誰も邪魔はできなかった。
「ねぇ、ヤミノ君」
昼前にふらりと出かけてふらりと帰ってきた小さな主は、昼食の間もお茶の時間もなにやら心ここにあらずの状態で、いつかの日のようにとっくりと考え込んでいる。
闇野は名を呼ばれて「はい」と小さく答えながらも、別段話の続きを急いたりはしなかった。名前を呼んだきりまた思考の中に沈んでいくのは、ロキの癖なのだとわかっているからだ。
振り返ってみれば、ロキは最近、こうして物思いにふける時間が多くなった。
前はもっと楽観的で快楽的である意味刹那的で、面白そうなものであれば迷わず首を突っ込み、引っ掻き回すだけ引っ掻き回して途中で放り出しても罪悪感のかけらさえ抱かなかったのに。そうでなければ、反転して、他者になどひとかけらの関心も抱かなかったのに。
今は『ヒトならざる者』の介入に、ひどく敏感になっている。それは、あきらかな敵意や害意、ヒトならざる魔や邪気、または依頼された事件でもない――そんな事柄への介入に関してだ。
いくら近くに控える息子であっても父親の考えすべてを読めはしないけれど、闇野はロキを信用していた。だから、彼の考えや成すことに文句を言ったり疑いを持ったりはしない。自分はそれで良いのだと闇野は心得て、黙ってロキの言葉を待つ。
なので、
「ヤミノ君、夢の中でも死んだ人に逢えたら、嬉しい?」
唐突な謎の言葉にも慣れたもの。
「相手にもよりますよ、ロキ様」
うん、そだね。
ロキは定位置に机に肘をついて手を組み、その上に軽く顎を乗せた体勢でぼんやりとあらぬ方向を眺めている。
「血濡れのママでも逢いたいのかな、あの子……」
ぽつん、と落とされたその言葉には、さすがの闇野も返す言葉をうろうろとさがしてしまい、結局はなにも言えなかった。
「逢いたいに決まってるよ、ダディ」
だからもって、フェンリルがなんの屈託もなく断言をしたので、闇野は驚いた。
「兄さんっ」
「逢いたいんだったら、どんな姿でも逢いたいんじゃない? そりゃぁ、マミィなんだったら綺麗な姿の方がいいけど」
フェンリルはロキの足元へとてててててっと歩き寄り、ちょこりと座ってロキを見上げた。その視線は、てらいなく真っ直ぐであった。
「でも、ダディがそうやって言うのならどうにかしようとか考えてるってことデショ? だったら、血塗れなんかで逢わすわけ、ないよね」
フェンリルはしぱしぱと音がたちそうなほど尻尾を振る。闇野とはまた少し違った、無条件の信頼を宿した顔をして。
そうだった、とロキは遅ればせながらも気付く。フェンリルと闇野もまた『母親』とは縁遠い存在であったのだ。
ヘルを含めた三人は、母親であるアングルボダの腹を突き破って生まれてきた。その特異な生まれ方すらも神々に厭われる原因になってしまったけれど。すなわち、産道を通ってこの世に生まれ落ちなかった、理に従わなかった生物、そして、生まれ落ちた瞬間からの『母親殺し』
後に『死者の国』を治める任に着いたヘルは母親に再会しただろうが、地上に残された彼らは『母親』そのものを知らないのだ。
こんなろくでもない父親でも強く慕ってくれる彼らが『母親』に夢を見ていないはずがないではないか。
「そだね。じゃぁ、たまには『神様』らしいこと、してみよっかな」
形は違っても強い信頼を寄せてくれるふたりの息子に向けて、穏やかな笑みを向けるロキであった。
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