夢で逢えたら 

【 後編 】






 今年の四月から小学校にあがるハルキの家には、真新しいランドセルがひとつある。
 父親は定番の黒色をすすめたが、母親とハルキ自身が青いランドセルだと言い張るので、最終的に父親が折れたものだ。ランドセルは、家族三人で買い物に出た平和な一日の頭上に広がった青と同じ色だった。
 その青いランドセルは現在、一階にある小さな和室に置いてある。
 昨年の夏までそこは単なる和室であったが、今は仏間になっていた。仏壇の脇に控えるように置かれたランドセルは、少しでも母親に寄り添いたい子供の心のあらわれかもしれない。
 朝起きたら仏様に水を供えることがいつからか役目になったハルキは、寝ぼけ眼でその部屋へと訪れ、まだ眠っているのかと猫の手で目をこすった。
 その和室には、部屋の隅にぽつんと置かれたランドセルがあるだけで、今だ見慣れぬ金と黒の仏壇や母親が微笑んだまま表情をとめた遺影など一切合財がなかったのだ。
 薄っすらと染みつきはじめた線香の匂いも鼻に感じない。
 それは、夏の季節の前にあった光景と同じもの。ただランドセルだけが真新しい存在で、唐突に床に転がっていた。
「あれ……」
 どうして? 目をこすりながらの疑問は、ふと途切れた。和室に隣接するリビングキッチンから、にぎやかな調理の音が聞こえたからだ。
 フライパンで卵をじゅぅじゅぅと焼く食欲をそそる音や匂いは、ここ最近ハルキの近くにはなかったもの。
 コポコポと水が沸く音と、独特な香ばしい匂いもする。
 大のコーヒー党の母親は、忙しい朝でも
「コーヒーはサイフォンでいれるべし!」
 妙な持論のもと、サイフォンでコーヒーをいれていた。
 昔、あまりにも母親が美味しそうに飲むのでその茶褐色の液体を舐めてみたが、苦いばかりだった。けれども今は、あの香りや匂いが記憶の端に浮かんでくると懐かしい気持ちになる。
 母親がいなくなってからはサイフォン道具一式は一番高い棚の奥へとしまいこまれ、インスタント・コーヒーの空き瓶だけが増えていった。ハルキの目には、父親は美味しそうでも苦そうでもなく、機械的に茶褐色の液体を喉に流し込んでいるようにしか見えなかった。そんな変化が、たまらなく悲しかった。
 だが、今鼻先に香るのは、紛れもないあの日の香り。
「ママ?」
 そんなのあるわけないじゃないか。そうは思いながらも期待が募るのは隠せない。ハルキは恐る恐るリビングを覗いてみた。
「あらハルキ、今日ははやいじゃない」
 ドアの隙間から恐る恐る覗かせた頭に明るい声が振りかけられ、ハルキは目を真ん丸くした。おまけに口もぽっかりとあけてしまう。 
 そこには、夢でも逢えなかった人が。
「ハルキ、口! 口閉めないとお馬鹿さんに見えるわよ」
『ハルキはとっても可愛い顔してるんだからもったいない!』といつもの言葉を向けられて、ハルキは思わず
「ぼく、男の子だもん! カワイイなんていらないよ」
 いつもの言葉を言い返してから……はっと口を押さえて黙り込んだ。
 どうして? だって、もうママはいないのに??
 どうしてそこにママがいるのだろう……笑っているのだろう?
 後ろにあらわれた気配にはっと振り返れば、父親も寝起き姿のまま、ハルキの後ろからリビングを呆然と見つめている。あんぐりと開けた口が自分と同じ形なのだとハルキにわかるはずもなかったが、ふたりともそっくりな顔であった。
「どうしたの、ふたりとも。これが世に言う『鳩豆鉄砲』なのかしら。それとも、ゾンビにあった人実録?」
「いや、だってサエコさん……ゾンビもなにも……」
 父親はいつも母親を『サエコさん』と呼ぶ。その懐かしいやり取りがハルキの頭上で行われていて、思わずハルキはぼんやりとふたりの顔を見比べた。
「いつも思うけど……本当にふたりとも、親子って感じよねぇ。だってその寝癖とか、いつ見ても笑っちゃうわ」
 ハルキと父親は、揃って右手を後ろ頭に持っていって撫で付ける。いつもそこに、ぴょこんっと飛び跳ねた寝癖ができるのだ。そして反対側の手で父親は青いパジャマ、ハルキは戦隊モノの絵がプリントされたパジャマの裾をひっぱる。
 それらの仕草もまったく同じで、母親はこらえきれずに笑い出した。その家にひさびさに弾けた笑い声だった。
「ねぇ、今日は天気がいいから遊園地に行かない?」
「いやだからサエコさん、オレ、今日仕事……」
『いやそうじゃないそんなんじゃなくて……』
 と思いつつも、父親は言い慣れた言葉を口にする。
『今日は天気がいいからピクニックにいかない?』だの『動物園にいかない?』だの、社会人としての基本を無視した言葉をこの妻は頻繁に口にしていたものだ。
『ダメ。仕事』と当たり前の言葉でつっぱねればぶーぶーとブーイングを鳴らし『今しかないのにー』なんぞと喚き、『家族の団欒を優先してなにが悪いの。社会の最小単位は家族よぉ!』と反論するのも疲れる正論を続けていたものだ。
 本当に――『今』しかなかったのに。そんな未来は、あの時誰も知らなくて。何度後悔したかわからないのに。
 ――後悔を知っているのに、彼女の願いをつっぱねるのは、馬鹿馬鹿しすぎる。これが夢でもまぼろしでも。
「あ……そうだな、天気もいいし……たまにはさぼるか」
「ホント?!」
 明るい声をあげたのは、ハルキではなくやはり母親で。
「じゃぁ、お弁当大急ぎでつくるから、ふたりとも、ちゃっちゃと朝ごはん食べちゃってね!」
 そこにあるのは、失われたはずの、家族の光景。
 ハルキは恐る恐る笑みを浮かべたかと思うと――後は『現実』など忘れ、子供らしい笑みのまま母親に抱きついた。
 窓の外にはランドセルの青と同じ色の空が広がり、世界は美しく彩られているのであった。
 
   * * *

「これは『偽善』じゃないかな。夢は所詮夢なんだ。永遠に続くものじゃないし現実でもない。――いや、偽善ですらない。これは単なる嫌がらせかもしれない。悪戯なんかさんざんやったけど、こんな品のない嫌がらせなんて……ボクの趣味じゃないんだけど」
 夢の中、明るい音楽を鳴らしてゆっくりとまわるメリーゴーランドの脇で非現実の遊園地に遊ぶ親子の光景を眺めながら、ロキは、誰に答えを期待するでもなく疑問を口にする。
 隣にある小さなジェットコースターがたてる轟音や歓声は、どこか紗幕がかかったように遠く感じられた。
 遊具を取り囲むようにして設置された柵に施された電飾も、明るく点滅しているはずなのになぜだか色あせて見えて。
 風にたなびく、多色に染め上げられたたくさんの旗の動きも嘘めき。
 頭上に広がる蒼穹も、どこか青味を強調されたのっぺりとした色。
 質感は現実的なのに受ける印象はどこまでも曖昧で不確かな、まぼろしの遊園地。
「目が覚めればなにひとつかわらないままの現実があって、夢が甘くて優しければ優しいだけ現実の痛みと辛さが増すのじゃないかな。……ボクには、なにが良かったのかいつもわからないんだよ、ヤミノ君」
「それでも……夢の中でも逢えないのは、かわいそうです。夢の中で逢えたとしても、それが死に際の姿なのはもっとかわいそうです。そして、夢で逢えたとしても逢えなかったとしても、現実はなにもかわらないんです」
 闇野もロキの隣で、幸せな家族の光景を見つめていた。当たり前の、家族との生活。誰かと笑いあう日々。それを一瞬にして失う辛さは、その場にいる者たちの中にもあった。自分たちが失ったと思っていたものを取り返せたのは、単なる偶然に過ぎない。
 その立場からあの親子に『現実に向き合え』なんて言葉をかける資格は彼らにもなかった。それは、高みにいる者の傲慢でしかないからだ。
 だけど、『自分たちが幾ばくかの労力で実現可能なこと』を『彼らが望んでいる』のなら――成してもいいのではないだろうか。根本的な解決にはほど遠いのだとわかりつつも。
 同じ方向を見つめるふたりの足元で、フェンリルもまた同じ光景を眺めていた。どことなく楽しげな、優しい顔をしてしっぽをユラユラと揺らせている。まるで、弟の言葉に同意しているかのように。
 無言の兄の後押しを受けて、闇野は続けた。
「ほんのひとときでも、夢だと忘れるほどの『現実に似た夢』は救いになるのではないでしょうか。これからもう二度と夢でも逢えなかったとしても、最後に見た夢がこんなにも幸せな夢なら、それでもいいのではないでしょうか」
 積み重ねた記憶と煌く夢の光景を抱いて、あの父子は生きていけるのではないでしょうか。時が経てば自力でも到達するその場所へとほんの少し背中を押すロキ様の行為は、偽善でも嫌がらせでもなく、単なるおせっかいです。
 そんな切ない言葉を紡ぐ彼自身も、深く暗い海の底で、目を閉じて『幸福な家族の夢』を繰り返し見ていたのだろうか。
「そうかな。そうだといいな。だってあの子の気持ちは生半可なモノじゃないのだし。なにせ、カミサマであるボクまで動かしたんだよ、これって凄くない? それだったら、いつかそこに辿り着いただろうね」
 神の社の前でこうべをたれて祈っていた幼子の姿にあったのは、悲しみや寂しさばかりではなくて。その強さに気持ちをひかれたのは偽らざる事実。
 ロキと闇野とフェンリルは、夢の中にだけ存在する美しい遊園地で、いつまでもその家族の笑顔を見ていたのであった。

   * * *

 幸福な夢を見た。
 その夢に『幸福な夢』と表現ができるほどに言葉を知らないその子供は、夢から覚めてもきょとんとして天井を見上げるばかりであった。
 そして、あの楽しい遊園地が――母親の姿が本当に『夢』であったのだと気がついて、けれども、ロキがひそかに懸念していたように、ハルキは切なさで泣きはしなかった。甘く優しく儚い夢を、そしてこのなにもかわらない現実を恨んだりもしなかった。
 ただ、ぼんやりと天井を見上げて――ついで、にこりと笑った。
 その時、悲しくも痛くもないのにどうして自分が泣いているのかはわからなかったけれど――彼は笑った。
 同じ部屋で隣り合って寝ている父親も、同じくぼんやりと天井を見ているのがわかった。
「パパ?」
 父親も、泣きながら笑っていた。
 カーテンの隙間からは、白い光が零れ落ちていた。外はよく晴れているのだろう。きっと、あのランドセルと同じ青い空が広がっているはずだ。
「なぁハルキ。今日、幼稚園さぼって遊園地にでも行くか」
「パパ、お仕事は?」
「さぼりさぼり。家族の団欒に勝る優先事項なし! 社会の最小単位は『家族』なんだから、家族が楽しまなくてどうする」
「……うん!」
 現実は確かになにひとつかわってはいないけれど。
 立ち向かうその心に大きな支えひとつあればいかようにも見方はかわる。
 その親子は、ようやっと『現実』へと立ち戻ったのであった。



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神様の、珍しいお節介話でした。