硝子之世界 








 大きな一枚ガラスは緩やかに婉曲し、青い水を透過した人工の光を降りそそがせる。
 薄暗い広場を背に、ガラスの内部を心持ち顔をあげて見ている、黒衣の少年がひとり。
 彼の足元に生まれる影は漆黒ではなく、透明なコバルトブルー。
 彼と視線を合わせているのは、ガラスの向こう側の住人。滑らかな曲線で形作られた、海の大きな生き物。イルカだ。
 水槽の中には三頭のイルカが住んでいる。そして、少年の前に集まっているのも、三頭のイルカ。
 大きな口にはずらりと白い牙が並んでいたが、口をがばりと開けても肉厚でピンク色の舌とあいまって愛くるしいだけだ。
 きゅぅぃぃ。
 少年の耳には、彼らの声が確かに聞こえた。
 分厚いガラスを隔てていても、水のうねりとともに耳に届くイルカの呼び声。

   * * *

「ロキ君、ホントにいた!」
 耳に届かない低音がひしめきあう小さな水族館に、明るい声が弾けた。黒衣の少年――ロキを指して『ロキ君』と呼ぶのはただひとりしかいないので、呼び声に振り向くまでもなく誰だかわかってしまう。おしかけ探偵助手の女子高生、大堂寺まゆらだ。学校帰りなのだろう、いつものセーラー服にあわい色のリボンを髪先に飾っていた。
 ロキ以外は係員の姿すらない時間帯であったので彼女の声はことさら響いたが、その声もガラスの向こう側までは届かない。イルカは不思議そうに黒い目をぱちくりとさせただけで離れる様子もなく、ゆらゆらと水の世界を漂っている。
「まゆら、どうしてここが……って、ヤミノ君か」
「うんそう。探偵社の方に行ったら、ロキ様はおでかけですって言われたから。ロキ君が水族館なんてちょっと意外〜っ」
 いや、本命は水族館じゃなくてだな……と思いつつ、燕雀探偵社での今朝のやり取りが思い出される。
 ペン先を変に曲げてしまったらしい万年筆の修理が完了したと連絡を受けたはいいがしばらくお店までいけそうにありませんと困っていた闇野に、ならば散歩がてら受け取りに行って来るよと言ってみれば、こちらもどうぞと渡されたのは近くの水族館のチケット。
 水は苦手とは言えガラス一枚隔てた世界ならば否と答える必要もないかとふらりと寄ったその水族館は、存外とロキにとっても居心地の良い場所で離れがたく、もう一時間。まゆらが顔を出す時間までには帰る予定が、彼女に追いつかれてしまった。
「イルカっていつ見ても可愛い。このなんとも言えないフォルムにつぶらな目がいいのよねぇ。子供の頃ねぇ、イルカを飼いたくて仕方なかったの。だって、家に帰ったらイルカがいる生活って素敵じゃない?」
「素敵じゃないって……ネェ?」
 確かに素敵かもしれない。家に帰ったら大きくて優しい顔をしたこの生き物がいる生活は、確かに素敵だろう。
 だが、同じだけ現実的でもない。それは、無駄に広い燕雀探偵社であっても不可能だ。そもそも、彼らにとっては果てのある水槽の中にいることこそが不自然なのだから、現実的も非現実的も、狭い広いもまったく関係ない。
「手乗りイルカって、世界のどこかにいないかなぁ。ねぇロキ君、手乗りイルカ、興味ない?」
「……はぁ?」
「そうだ! 夏休みになったら手乗りイルカ探検の旅に出ようよ! わたしとロキ君なら絶対発見できるよ!」
「あのね、まゆら、その根拠と自信はどっから湧いてくるの。それに、探検ってナニ? 面倒くさいヨ……」
 そもそもその根拠と自信の根底には『手乗りイルカ』の存在が必須だが、まゆらはちっとも聞いていない。
「美少女探偵、華麗にイルカ探検隊に転身! 失われた手乗りイルカ感動の発見! ほらロキ君、乗り遅れちゃうよっ」
「手乗りイルカが東京湾にいるって情報が入った時考えるよ……」
「本当?! じゃぁ、はりきって情報集めるね!」
 順番が違うんじゃないかソレ、と言う気力もなくなるロキであった。彼女の突拍子もない発想力にいちいち付き合っていても意味がない。
 まゆらは、ロキが見ていたイルカのスペースに張り付いてうっとりと変な妄想とともにイルカを眺めやる。
 イルカがロキの方を向きなにかしらを尋ねるかのように首を動かしたので、ロキは肩をすくめて見せた。
『このお嬢さんは飽きるまでここにいるだろうから、キミたちがイヤならあっち行った方がイイヨ』の意味はしっかりと伝わったのか、こくこくと大きく頷いてからイルカは大きな尾を返して向こう側へと行ってしまった。彼らの尾ひれと戯れるかのように立ち上る気泡と水のうねりがガラス越しに見えた。
「あ〜、行っちゃった」
 まゆらは心底残念そうな声を出すが、家族同士で遊びに来たのだろうか、興奮した子供の声を含めた団体様の気配が通路の向こう側からやって来たので
「出ようか」
 ロキはまゆらに声をかけるのであった。

   * * *

 ガラスと水が作り出す青い生き物の世界から向かったのは、一転して無機物の世界だった。だが、彩り豊かな世界でもあった。
 こじんまりとした建物に掲げられたのはいかめしい筆跡の『中谷筆記店』の看板。一歩足を踏み入れれば、そこが万年筆専門の店なのだとまゆらにもわかった。店番は、むすりと口を引き結んだ頭髪の薄い店主らしい親父とレジに入った若い娘だけである。
「万年筆って言っても、イロイロあるのねぇ」
 まゆらは、ショーケースに並べられた万年筆を丹念に覗きやる。一口に万年筆と言っても材質も色も太さも装飾も様々で、ショーケースにうやうやしく並べられているところなど、まるで宝石のようにきらきらして綺麗だ。実際に、輝石を飾られた万年筆まで存在しているのだから驚きだ。
 万年筆と言えばまゆらも高校入学祝に親戚からプレゼントされたが、ボールペンとシャープペンシルが主流、ひどければタッチパネルやキーを押すだけで自筆が必要のない場所まで存在している昨今であるので、万年筆は机の引き出しの奥にしまいこまれっぱなしであった。
 現にひとり、まだまだ幼さが残る女の子を連れた中年の女性が『入学祝』だと万年筆を選びラッピングを施してもらっていたが、受け取った女の子は反対の手にしっかりと携帯電話を持ち『こんなのイマドキ使わない』と不服が見え隠れする表情をしている。
 だが、自動ドアをくぐって店を後にするむっつりとした彼女の表情と、受取書にサインをして『ペン先の具合がどうこう』と店主と話し込んでいるロキの後ろ姿を見ると、少しばかり引き出しの奥が気になってくる。万年筆って、逆に新鮮で格好よいかもしれない。
「あ、二階ってコレクションの展示スペースなんだ」
 ちょっと行ってみよう、とまゆらはロキに二階へと続く階段を指し示してから、足取りも軽くのぼりはじめるのであった。


「まゆら、お待たせ……って、まだ二階か」
 頑固一徹然とした顔に似合わず話し好きな店主の、ペン先に対するうんちくを聞いていると随分と時間が経ってしまった。だが、店内を振り返ってみても、まゆらの姿はどこにもない。
「ふ〜ん、万年筆に興味持ったかな」
 モノには結構こだわるロキは、どちらかと言うとボールペンより万年筆を好んでいた。長く使えば手にしっくり馴染んでくるペン先や、やわらかく滑らかな線を書けるところも好きだ。ボールペンとは違い、書いた時の感情がまざまざとあらわされる点も良い。
 色はコバルトが好きだが、変色しやすいので渋々記録帳にはブルーブラックのインクを使用している。
 紙にも気をつけなければならないが、ささいなものに気を配らない最近の風潮よりも余裕のある生活がロキの好みである。そのあたりを優雅と感じるかキザと感じるかは他者の感性であって、ロキのものではない。
 あ、ジー&エム社のクロニクル・モデルだ、とショーケースに好みの万年筆を見つけふと足をとめるところなど、こだわりを過ぎてマニアの域に入っているロキであったが……
「その万年筆、可愛らしい作りですわ」
 背後から声がかかった。ついで、ショーケースを覗く為に前かがみになったのだろう、ロキを覆うようにさらさらとこぼれたのは黒い絹糸の髪。
「……ヴェルダンディー」
 その声と黒髪の特徴を持つ人物は、ロキの周囲にひとりしかいない。北欧神話に名前があがる、ウルドの泉に住むノルンのひとり――『現在』を司る女神ヴェルダンディーだ。あいも変わらず楚々とした外見に常識外れな見解をおさめて存在しているらしい。
「知らなかったな、キミは男物のペンを使うんだ?」
「それではありませんよ。わたくしが見ていたのは、こちら」
 ヴェルダンディーが細い指で指し示したのは、ジー&エム社のコーナーからロキの視線が流れていた、細身の赤い万年筆。銀色のペン先が上品に光を弾いていた。
「お値段も手頃ですわね。すみませーん、こちらの万年筆、頂きますわ♪」
「って、ネ、書き味試さないの? せめて持った感じとか、手に馴染むかどうかとか……」
 若い店員にあっと言う間に包まれてしまった万年筆へと、思わず哀れな視線を向けてしまうロキである。やはり『こだわり』を通り過ぎて『マニア』だが、『万年筆愛好家と言いたまえ』とロキはかたくなに言い張るだろう。
「あら、だってわたくしが試しても仕方ないですもの」
 意味不明なヴェルダンディーの返答と、そして、意味ありげな微笑とともに包みはロキへと差し出された。
「わたくしには少しばかり可愛らしすぎる品ですわ。ロキ様、お好きにどうぞ」
「お好きにどうぞって……ねぇ」
 なんとも意図が図り辛いが、彼女らしいと言えばこの上もなく彼女らしい気もするのだから不思議だ。
 ヴェルダンディーは、彼女の本性を知らない男であればころりと騙されてなんでも許してしまうだろう控えめな笑みを刻んだ。
「わたくしも女の子ですもの。可愛らしいものを無性に買いたくなるのが女の子のサガ。でも、使うか使わないかを判断する理性はあるつもりですのよ?」
 ならばはじめから買うなよと言いたくもなるけれど、ヴェルダンディーにそんなまっとうな正論が通じるはずがない。ロキは肩をすくめつつ、包みを受け取った。一体彼女はなにをしにきたのだと考えながら。
 そして、どのあたりから自分たちを見ていたのだろうと、少しばかり不安になるのを止められないのであった。

   * * *

「万年筆って綺麗なのねぇ。二階の展示室にね、部品ごとに分解した見本が置いてあったんだけど、中身も綺麗だったの。鼈甲とか象牙でできてる万年筆もあったのよ、凄いなぁ」
 中谷筆記店からの帰り道、まゆらはいささか興奮気味に喋り続けていた。
「へぇ、よく見てきてるじゃない」
「もっちろん! だって、探偵の筆記具と言えば、羽ペン、タイプライターに万年筆♪」
 やはりそっち方面か! とありありと表情だけで気持ちをあらわしたロキに向けて
「ウーソっ。それとは別にしても、万年筆で書いたら気持ち良さそう。インクがずらっと並べてあるのも綺麗だったぁ。インク瓶って可愛いね」
 まゆらは無邪気に笑った。
「それにロキ君、万年筆マニアでしょ?」
「……愛好家と言いなさい」
 まゆらの無邪気な笑顔とは打って変わって、こちらは苦々しい表情だ。『マニア』だなんて軽い言い方はして欲しくない。
「それを現代ではマニアって言うんだよ」
「そんじょそこらのマニアと一緒にされちゃ困る」
 だからそのこだわり方が『マニア』なんだってばー、ところころと笑うまゆらの隣で、ロキはコートの右ポケットの中身を考えていた。そこには、細長い包みがひとつ。
 古き良き品に興味を持つのはいいことだ。だが、ヴェルダンディーが選んだ万年筆を渡すのはなにかが違う気がするのはなぜだろう。赤い色は若草色の手帳に良く映えるだろうに。
「まゆら、手乗りイルカの話……」
「東京湾じゃなくて富士五湖にいるかもしれないね!」
「いや、そーじゃなくて。とりあえず、コレで我慢しなさい?」
「コレ?」
 ロキが掲げていたのは、左のポケットに入っていたモノ。透明の袋に入れられ青いテープリボンでくくられただけの、そっけないラッピング。中身は、青いガラスでつくられたイルカ。まるで、身体の中に海を抱いているかのように、幾つかの気泡が浮かんでいた。
「手乗りイルカ」
「机の上にでも泳がせておいたら。文鎮がわりにでもなるでしょ」
 文鎮って最近はペーパーウェイトって言うんだけど……時折入るロキの古い感性にいささかついていけないまゆらであったのだが……
「ペーパーウェイトがわりじゃなくても充分可愛いけど、そんなに探検隊がイヤなんだ?」
 手の上の青いイルカは、穿って考えれば、『まぼろしの手乗りイルカ探検隊結成』を誤魔化す為の品にも思えて。知らずぶすりとぶすくれる。
「いやっそーじゃなくてっ」
「ウ・ソ。ありがとう、ロキ君。机で泳がせとくね」
 穿って考えるなど長続きするはずもないまゆらは、にこりと笑った。
 ロキはぷぃとそっぽを向いてむくれる。少しばかりまゆらの発想に慌てたのに、『嘘』と言われれば慌てた事実すら恥ずかしいではないか。
 青いイルカはふたりの心境など知らず、夕方の光に照らされて、まゆらの手の平の上でぴちりと跳ねた。

   * * *

『ロキ様は水族館にいらっしゃいますよ』
 チケットと一緒に贈られた闇野の言葉ではあったが、半信半疑で向かった水族館でロキの姿を見つけた時、まゆらは本当に驚いたのだ。
 水が形つくる青い世界に黒衣の少年の姿があることに驚いたのではなく――まるで、彼とイルカたちが話をしているように見えたので。それも、どこかしら優しげな顔で。
 不思議な不思議な、不思議な探偵。いつも辛辣で斜めに構えていて、子供のはずなのに子供らしくない知識量も発想力も推理力もミステリアス。ロキ君がなにを考えているのか、いつもなんにもわかんない。
『ロキ君は『不思議』が主成分なのです』
 思わず、そんな言葉が浮かんでしまう。
 そう考えた次に感じたのは……『寂しさ』だった。
 イルカとロキの間に入れそうにないのも寂しかったが――『健常者と障害者が同時に海に入れば、イルカは弱者の方に寄って行く』と言う話を思い出したから。
『ロキ君、今寂しいのかな。だからイルカが集まってるのかな』
 いくら大人顔負けの頭脳を持っていたとしても、ロキが『強い』ばかりの存在ではないと知っているから――悩みや弱みすら知らない氷みたいな存在ではないと知っているから、彼の弱い感情を疑ったり驚いたりはしないけれど――彼はその『気持ち』を綺麗に覆い隠すのが上手で。
 時々、薄いガラス越しにロキを見ている感覚に陥る時があるのだ。今まゆらが抱いている気持ちも、まさにソレで。
 水族館でロキを見つけた時、まるで、イルカと同じ場所に彼がいるように見えて――こんなにも近くにいるのに、けして触れ合えない存在に感じられて。
 寂しくなった。
『手乗りイルカがいればいいのにな』
 その発想は、自身の為と言うよりかは、ロキの為。
 イルカと一緒ならあんなに優しい顔をしてくれるのなら、燕雀探偵社に手乗りイルカがいればいいのに。気持ちが少しでもまぎらわせるのなら、イルカがいればいいのに。
 ロキが青いガラスのイルカをくれたように、わたしもイルカをあげたいのになぁ。
 彼がガラスの向こう側からこちらへと戻ってきてくれるのなら、いくらでも手乗りイルカを探すのに。
 それとも、世界の全てを『ガラスの向こう側』にする為にイルカがいて欲しいのかな……??
「……わかんないや」
 思わず口に出してつぶやいてしまった言葉に、ロキは怪訝な顔を向けるだけ。
 まゆらは、手の中のイルカの滑らかな背を指先で撫でる。その感触は、優しければ優しいだけ、どこかしら冷たく感じられるのだった。



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水族館に行きたいです。