Lover Soul 








 洋風の調度でまとめられた書斎兼応接室。
 ソファの上に重ねられたふかふかのクッション。
 テーブルの上には色鮮やかな花と薫り高い紅茶と美味しいクッキー。
 壁際に設置された本棚には、何語で書かれているのかもわからない蔵書がびっしりと。
 大きな窓を背に、大きな書斎机におさまっている小さな探偵。
 彼の手にはずっしりと重そうな、革張りの洋書。ロキがページを繰る音だけがその部屋に生まれる唯一の音。さらさらと澱みなく生まれ続ける音。
 いつもとなんらかわりない、燕雀探偵社。どこよりも落ち着く部屋。
 なのに、今日ばかりはその風景が少し違って見えた。
 なにもかわらないのに、なんの変化もないのに――そこに入り浸っているまゆらの気持ちだけがほんの少しだけ揺れていて、目に映る光景が愛しい。

   * * *

 ふわりとした湯気が消えかけているのに紅茶に手をつけもせず、じっと目の前の花を見ているようで、それでいてこちらを気配だけでうかがっているまゆらの挙動不審さに気がつかないロキではなかった。
「どうしたのまゆら。紅茶、冷めるよ」
 怪訝な顔になるのは止められない。なにせ彼女は、ここに来た時からこの調子なのだから。
「ん……いつも通りだなぁって、思って」
 そりゃぁそうだ。なにかかわるわけがない。いつも通り依頼人の影すらない。
 そう言いたかったけれど、ほんの僅かだが思い詰めたまゆらの視線を感じるに、そんな言葉は飲み込まれてしまう。視線の奥底に潜む不安の影がちらりと湯気の向こうに見え隠れ。
 今日の彼女は、本当にらしくない。
「ホントにどうしたの。なにか怖いことでもあった?」
 テストで赤点でもとってまゆらパパに出入り禁止でも言い渡された? と茶化してみれば、まゆらはそうだとも違うとも答えず、おもむろに立ち上がり……とことこと書斎机の――ロキの隣まで歩いてきて、両腕を伸ばしてぎゅっと抱きついてきた。
 さらりと長い髪が天から降ってきて、光に透けて金色のとばりに。
「まゆら?」
『抱き枕かパンダのぬいぐるみじゃぁないんだけど』
 と思いつつ、どこもかしこもやわらかい彼女に抱きしめられているのは悪い気分ではなくて。むしろ、気持ちが良い。
 邪魔な分厚い本は、さっさと机の上に避難させる。少しばかり抱き枕とパンダのぬいぐるみ代わりのあきらめも入っていたり。
「……こわいゆめ、みたの」
 長い長い沈黙を挟み、ぽつりと彼女が吐露した言葉は、そんなもの。
「夢?」
「ロキ君が……大怪我する夢。知らない男の人に、いきなり刺される夢」
 ロキに抱きつくまゆらの細い腕はかすかに震えていて。彼女が、本当にその夢を怖がっていたのだとロキに伝える。
「大丈夫でしょ? ボクは怪我してない」
「うん。だけどね、すごくリアルだったの。わたしの夢ってね、大抵、どこかもわからないようなふわふわした場所でなにかが起きるんだけど……ロキ君が刺された場所、よく知ってるところだったから……リアルで……夢と現実がわからなくなっちゃった」
「まるでレイヤみたいだね」
 こく、とかすかに頷いて、ぎゅっと腕に力を込めてくる。
「予知夢ってかっこいいって思ってたけど……レイヤちゃん、怖いだろうね。怖い夢見たら、もしかしたらこの夢が現実になるんじゃないかって、わたしなら考えちゃうもの。レイヤちゃん、きっと、今までたくさん怖かっただろうね」
「……」
 ロキは今の今まで、一度もそんな風に彼女の『夢』を考えたことはなくて。まゆらはたった一度の経験にも心を痛めていて。
 どうして彼女はこんなにも優しいのだろう。いつも、彼女のなにげない言葉にそう思わされる。
「ロキ君といつも一緒なら怖くないのかな。あんな夢見ても、いつも一緒なら、怖くないのかな」
 身体の、心の内側に閉じ込めて、守ってあげれば、あの夢は本当にならないのかな。
「魂までも融けてしまえばいいのにって?」
 またしても、こくりと頷くまゆら。
 きっとこの娘は自分が今なにを言っているのかわかっていないのだろう、とロキは心の中で苦笑する。
 小さな子供に抱きついたままの腕が、妙に熱っぽい。髪に触れる吐息も熱を帯びていて。普段よりも一度ほど高い体温。

 これは熱が言わせたうわごと。
 彼女の願いは心細さが結ばせたまぼろし。
 この光景は夢の中の夢。

 誰かと魂までも融けてしまって、あわく儚く消えてしまえればいいのに。
 そう考えるのは、ロキの願望。
 でも、その時は、きっと――相手は、まゆらでない方が良い気がする。
 彼女と融けあうのは幸せな気分かもしれないけれど、消えてしまうのは自分ひとりがいい。最期は、誰とも一緒ではなく、ただひとりで。
 心細さに震える魂は、この優しさと厳しさを併せ持つ世界に置いて行きたい。
 だけど、その時が来るまで――夢を見るくらい許されるのでは……?
 すべては――微熱が見せたまぼろしにかわるのだから。

 長い髪と細い腕の優しい囲いの中でほんの少し角度を変えて、ロキは手を伸ばす。
 恐ろしさと心細さに閉じられたまぶたはすぐそこにあるから、細いうなじに手をまわして誘い込むのはたやすい。
 赤く色づく唇におのれのそれを重ねてみれば、やっぱりいつもより熱い。
 ぴくりと跳ねた指先も無視して、ふるりと震えたまつげの揺れも無視して、まゆらの唇を割り、舌を差し入れる。
 戸惑いに逃げることもできない彼女の舌を絡めとる。どこもかしこもやわらかい彼女の舌もやはりやわらかくて甘かった。
 彼女の体温がもう一度、上がった気がするのは錯覚か願望か。
「ボクが言ってる『融ける』ってこう言うことだけど、わかってんの? まゆら」
「…………わかんない」
 自分が今なにをされたのかもわかっていないのだろう熱でとろんとした目がそこにあって、ロキはある意味馬鹿馬鹿しくなってきた。
 これ見よがしにため息をひとつつき、
「熱があるのにも気がついてないくらい鈍感なんだから、理解してるとは思っちゃいないけど」
 あきらめも極地。
「ねつ?」
「風邪ひきはゲストルーム……いや、ボクのベッドで休んで行きなさい。家にはボクから連絡しとくから」
「かぜ??」
 これだけ言っても気がついていないのか、まゆらはぼんやりぼんやりと鸚鵡返し。
 まゆらの額に手の平を当てれば、ロキの手の冷たさにびっくりしたのか、ひゃぁっと小さく叫んでようやっと現状に気がつくありさまで。
「わたし、熱あったんだ?」
「ぜんっぜん気がついてなかったんでしょ」
 まゆらの普段と違う雰囲気に誤魔化されて、今の今まで熱があったのだと気がつかなかったのはこちらの落ち度だと告げるつもりもないけれど。
 こくり、と三度目の頷きを残して、まゆらはふらふらと扉へと向かっていく。
 ゆらゆら ゆらゆら、亜麻色の髪が揺れて遠ざかる。
 ほんの少しだけ、緩やかな檻から解き放たれたのが――残念だった。

   * * *

『ボクのベッドで寝てなさい』と言われたから、ぼんやりとした思考でやって来たロキの自室。
 天蓋付きのベッドにぽてんっと転がってみれば、沈み込むほどにやわらかくない、ほど良いかたさのマットレスが迎えてくれる。
 身体を横たえてみれば、ロキの指摘通り、自分が熱を出しているのだとよくわかった。発熱時特有のだるさが指の先にまで行き渡る心地がする。
 しわひとつなくベッドメイクされたそこにもぞもぞともぐりこみ枕に頭を預けてみれば、先まで腕の中にあった香りがした。なによりも落ち着く匂いだ。
 まゆらは掛け布を鼻先まで引き上げ、うふふと笑う。
 さっきまで、なにもかわらない光景が愛しいと思っていたけれど、今はこんないつもと違う場所にいて、さっきよりも落ち着いているのが――おかしい。
 心底から落ち着いたからなのか、途端に襲い掛かってきた睡魔に抗う術を持たないまゆらはすとんと眠りに落ちて行く。
 ゆらゆら ゆらゆら。ここはまゆらの、安心できる揺り籠。



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ジュディ&マリーの『Lover Soul』より。