雨と花と。 








 頬を切るほどに冷たい風や、底冷えする朝の数が徐々に減り、寒さがほんの少し緩みはじめた三月の頭。
 その日、空のしずくは一気に気がゆるんだのか、屋根や道路に叩きつけるようなひどい雨となって地上に降りそそいでいた。
 いつ雷が鳴り響いてもおかしくないほどに不穏な空色が街の上空に広がっていて、心が休まる気もしない。
 ゴォォォォォッ……と低音の打楽器が打ち鳴らされ続けているのか、はたまた地鳴りでも響いているのではないかと思えるその街の片隅に、ひどい雨降りにも関わらず人が群れている家がある。雨に叩きつけられ黒々と濡れた瓦屋根の、大きな平屋家屋だ。
 煌々と灯りがともされていたが、光を吸い込む雨の幕に囲まれていてはどれほどの距離も照らしはしない。屋内もともすれば薄暗く感じられるほどだ。
 灯りがかろうじて照らし出す勢力範囲内にとどまる人間たちは、揃えたかのような黒尽くめの格好であった。男は黒いスーツに白いネクタイをしめ、女も黒いワンピースに一連の真珠のネックレス姿だ。何人か子供の姿も見受けられたが、彼らでさえも黒っぽい服で、子供なりの神妙な顔つきをしていた。
 彼らは粛々とした雰囲気の中に身を沈ませていたが、そこかしこで聞こえるのは俗世にまみれた会話の切れ端。
 遺産相続の配分がどうとか。兄さんは家を買う時に援助してもらったのだろう、それは生前贈与分に当たる、とか。家を潰してマンションを建てて長期的に収入を得る方がいいんじゃないかとか。お前は借金を親父に工面してもらっただろうとか。最後は交通事故だったから葬式代をせしめられて良かったとか。なかなかに非人情的で個人の欲が丸出しにされた醜い会話が、年嵩の男たちの間で取り交わされている。
 反対側の女性の群れからは、八十六まで病気知らずで大往生だとか。介護の心配がなくて助かったとか。ありがたい死に方だったがお通夜と告別式がこんな雨降りだなんてあてつけみたいで嫌ねぇだとかの言葉が漏れ聞こえてくる。こちらは男たちより幾分マシであったが、その声色を聞くにあまりあたたかみのある送りの言葉ではなかった。
 道路に面した玄関前には、白と黒の太い縦縞に染め抜かれたくじら幕と、白い造花で飾られた立派な花輪が幾つも並んでいる。だが、くじら幕は雨にぐっしょりと濡れ灰色にくすんでロープに垂れ下がり、花輪も強過ぎる雨から守る為分厚いビニール袋がかけられていてあまり見栄えが良いものではなかった。
 それは、その家にひとりで住んでいた老人の葬式であった。
 今は読経も最後の別れの挨拶も済み出棺を待つのみとなっているのだが、このひどい雨降りと視界の悪さに霊柩車の到着が遅れに遅れ、人々はどこか気が緩んだように手持ち無沙汰の時間を過ごしていた。
 その、どこかしら寒々しい葬式を営む家の前に、黒衣を身にまとった少年がひとり立っていた。彼は家に入るでもなく、ただ家の前に立っているだけであった。
 彼がさす黒い傘の上にも容赦なく雨が降りそそいでいたが、音が切り取られたかのように彼のまわりには静けさが満ちていた。
 ふとその子供に気がついた、老人の息子の嫁にあたる中年女は小首をかしげる。
「あの子、うちの子よねぇ」
 あきらかさまな葬式を行っている家の前にいる子供など、身内以外にはいないだろうけれども、顔に見覚えがない。
「ほら、猛さんのところのマサキちゃんじゃない?」
「そうだったかしら……」
 同じ立場の女が通りかかりに少年をちらりと見て名をあげるが、女はどうにもしっくりこなくて首をかしげる。
 激しい雨で視界も悪く、マンション暮らしの身にはうらやましいほどに広くとられた玄関前の距離もあるし、黒い傘の下の顔など判別できないのは当たり前であるが、ひ孫の少年だと言われればそのようなそうでないような……。
 どちらにしても、義父の死を純粋に悼む者が少ないこの葬式に参列してくれると言うのなら他所の子でもありがたいと思わないでもない。なにせ、遅くに生まれた孫もひ孫も、声が大きくいつも怒鳴って聞こえる話し方をする義父を怖がってばかりであったので、その老人の葬式であっても特別に悲しそうでもなかったのだ。それどころか、少し目を離すといつも携帯しているゲーム機を取り出して遊び出す始末で、親も注意すらしない。
 最近の葬式は皆ばらばらで神聖さのかけらもない、自分の場合もそうなのだろうかと考えると少しばかり憂鬱になる女であった。
 雨に打たれていては辛いでしょう、と声をかけようと玄関に準備されたつっかけに片足をいれかけたが、子供の左手に抱えられたものの存在に気がついて、女は気味が悪くなり屋内へそそくさと戻った。
 黒衣の子供が抱えていたのは、黒いセロファンとオーガンジーに包まれ黒いサテンリボンでまとめられた小さな花束。
 見る人が見ればその花は盆時期に供えられる花として一般的なジニア――キク科の百日草だとわかるだろうが、ピンクなどの明るい色が入ったその花束はあまり葬式にはふさわしくない。今日この日に供えるのならば、白か黄色が相応しいだろう。
 そんな違和感よりもなによりも、その子供の目が一瞬赤く滲んだ気がして……女は心底恐ろしかった。
 ようやっと霊柩車が到着し女は再び玄関口へとやってきたのであったが、その時には不気味な子供の姿はなく――かわりに、たむけのように、あの花束が置かれていた。
 ジニアの肉厚の花びらは強い雨に打たれてもなお美しく咲き誇り、老人の終の棲家を飾るのであった。

   ***

「不登校児は軟弱者だって叱られたことがあるんだ」
 燕雀探偵社の書斎では、冷え切った身体をあたためる作用のある生姜湯を手にする少年の姿があった。指の先まで冷えきっていたが、甘辛い薬湯がじわじわと凍えをほぐしていく。
「それはそれは、ロキ様にそんなことを言えるとは……」
 命知らずもいいところだ、と続けようとして闇野は口を噤んだ。今日はまさしく彼の魂を送る日であったのだから、その発言はあまりにも不謹慎だろう。
 それでも闇野は老人の行為を『命知らずな発言だ』と思わずにはいられない。目の前に存在する少年の正体を知ったら、きっとその老人は驚くだけでは済まなかっただろう。なにせ、邪神ではあっても神様、ヒトとはまったく違う存在なのだから。
「それから何回か公園でつかまってね。でも、話してみると結構面白いおじいさんだったよ。学校に行かなくても勉学ができるのならイイって最後には認めさせたし。なにより、おじいさん自身も、小学校すらいけないような状況だったらしい。義務教育は近代日本の制度なんだし、学校なんかに行かなくてもおじいさんみたいに立身出世できるヒトはいくらでもいるんだし」
 話の内容は、どこかしら老人を懐かしむ色に満ちていた。亡くなった人を懐かしみ、その死を認めるのが葬式の本来の姿である。金銭欲にまみれた息子たちや、介護の心配から解放されたと安堵する情のない身内よりも、ロキの言葉の方がよっぽど送りの式に相応しかった。
 窓の外はまだ昼過ぎであるはずなのに真っ暗で、まるで夜の世界。
 この暗闇の中、ヘッドライトの灯りさえ定かではない状態で火葬場へと向かっているのだろう霊柩車を思い描く。
 その中にひっそりとおさめられた老いたヒトの子の肉体は、あと数時間も経たないうちに炎に焼かれ、灰となるだろう。そうなればもう、あの矍鑠とした声も、案外と洒落っ気にとんだ会話も、見た目と違って甘いものが好きであんぱんをほおばっては嬉しそうに笑う顔も永遠に失われるのだ。確かにそこに存在していたものが消えてしまう不思議。
「ヒトはなんの為に生まれてくるのだろうね」
 ロキには不思議だった。ヒトはなんの為に生まれてくるのだろう。長い長い神の寿命から考えればあっと言う間に燃え尽きる命。その間にさほどのことさえ成し遂げられないのに。
 他者を愛する為だとか、子から孫、ひ孫、そのずっと先へと命は連綿と紡がれていくのだとかの綺麗事を語りたいわけではない。そんなものは聞き飽きた。それでも考えずにはいられない、こんな日は。
 ヒトの命は不思議だ。だからと言って、神の命にも存在にも、明確な理由があるわけでもないのだけれど。
「そうですねぇ。きっと、永遠に考え続けていても答えなどでないでしょうねぇ」
 だから、少しずつ考えていけばよいのではないですか?
 闇野がのんびりとロキに提案する。生きることや命に理由などないと言うのも、ひとつの答えかもしれない。
 ふと気付けば、光と言う光、音と言う音を吸い込む勢いで降り続いていた激しい雨がゆるゆると強さを減じ、今は小雨になっていた。
 窓の外へと視線を転じれば、墨で黒々と塗り潰したかのような空は薄い灰色にかわり、遠くでは雲間から光が細い帯となって差し込んでいた。
 空の上は風が強いのだろう、雨風はあっと言う間に遠くへと押しやられ、世界は昼の彩りを取り戻す。
「天使の梯子だ」
 幾筋も差し込む細い細い光の柱は、雨に濡れた街をまぶしく照らしている。
 ジニアの花言葉は――『亡き友を偲ぶ』
 永遠の謎を追い求める旅に出た老人の魂を誘い込むかのような美しい光を、ロキはいつまでも見つめていたのであった。



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たかだか数十年の命でなにができるのだろう。