悪行先に立たず 








 今日も今日とて、おしかけ探偵助手のまゆらは、学校帰りの一時を燕雀探偵社の応接室にあるソファに陣取って過ごしていた。
 いつもは学校の課題をしたり益体もないお喋りをしているのが常の彼女の手には、本日一冊の本があった。
 暇があれば紅茶と読書のワンセットを嗜む燕雀探偵社の所長であるので、彼女のその行為自体はとやかく言うつもりはないけれど、その書籍名を覗き込むに、なんとも言えない顔をして黙りこくってしまった。自身の読書すらちっとも進んでいないありさまで、かわりになにを見ているかと言えば読書をしているまゆらを無言で眺めていたりする。
 新しい紅茶のポットを提供しに来た闇野も、まゆらが読んでいる本のタイトルを覗き見て、表現のしづらい表情になる。
 強いて言えば……苦虫を噛み潰してようやく飲み下したような、苦い顔。
「まゆらさん、今日は読書ですか……」
 声をかけたはいいものの、語尾は自然と空中に掻き消えてしまう。
「そうなんです。だってこの本、ロキ君とおんなじ名前が出てくるんですよ」
 いえ、それは書籍名を見ればわかります……と、胸中だけで呟いてしまう。そして、恐る恐る書斎机の方へと視線を向けてしまった闇野は、『見るんじゃなかった』と心底後悔した。そこには、無意識に仏頂面になっている、ロキが。
 彼女が手にしていた本は、なんともダイレクトな『北欧神話入門』
 北欧神話の中でもっとも有名人なのは誰かと問えば、大神オーディンを差し置いてロキの名前があがる。それほどまでに有名なロキの逸話はあきれるほど豊富だ。ある意味、ロキの逸話の隙間に他の神々単独の話が入り込んでいる状態だろう。目を通さずとも中身がなんとなくわかるので、彼女の読書がなかなか終わらないのも頷ける。その本を読み始めたきっかけが『ロキと同じ名前の神様』であるのなら尚更に。
「北欧の神様の話って、面白いですねぇ。日本の神話とは感じが違いますね。ファンタジーって言うか、それでも妙に人間くさいエピソードがあったり」
「えぇまぁ、神様もイロイロですから……」
「ロキ君と同じ名前の神様の話も面白いの。本当にたくさんあるよ」
 よせばいいのに、まゆらはロキへと話を振った。内心でだらだら嫌な汗をかいている闇野の様子など微塵も気づいていない、天真爛漫な話の振り方だった。
「ふ〜〜〜〜〜〜ん。そう。例えば、どんな?」
 寸の前までこの上もなく仏頂面であったはずのロキは、まゆらが話を振った瞬間から頭のネジが一本どこかに吹っ飛んでしまったのかと心配になるくらいににこにこ にこにこ、子供らしい笑顔を振りまいている。ただし、その声に感情などひとかけらもなく、恐ろしいほどに一本調子。
 もちろん、そんなことに気がつくまゆらではない。
「なんか、小人さんたちを騙して腕輪とか槍とか船とか作らせたりー」
 オーディン様のドラウプニルの腕輪やグングニルの槍や、フレイさんのスキーズブラズニルですね、と生ぬるく考える闇野。
 ロキの表情はまだ微動だにしない。
「巨人に食べられそうになる子供を助けたりー」
 そうでした、珍しくそんなこともあったんでしたっけ。闇野は胸中でだけ相槌を打つ。
「でも、変な話も多いの。雷の神様の奥さんの髪の毛、切っちゃったり」
「……」
「賭けに負けて口を縫い合わされちゃったり」
「………」
「極めつけはこれね。馬になって、馬の子供を産んじゃう話が一番変なの。だってこの神様、男の人なんだよ?」
「…………まぁ、本に書いてることなんて、本当かどうかわからないし。それに、神話は人が勝手に作るものだし」
 にこにこ にこにこ。笑顔のままでのかわらない一本調子の声に、闇野だけがぞっとする。できるならその話だけは載せていてくれるなと願っていたのにやはり無理だったかと、その『北欧神話入門』の著者に文句をつけたい闇野であった。
『人が勝手に作った』――ロキはうそぶいているが、ある意味、火のないところに煙は立たないものなのだから、ロキも闇野もそんな言葉でそれらのエピソードを切って捨てるには立場がなかった。なにせ、その『人が勝手につくったお話』の登場人物である自分たちが、それらのエピソードを否定できるわけがないではないか。それらが本当にあったのだと知っているだけ尚更に。闇野は、それ以上は言ってくれるなとまゆらに向けて祈るしかできない。
 けれども、無言の願いなど聞き届けられるはずがないのである。
「でもねぇ、この神様の奥さんってのが凄くできた人で、悪いことして捕まったこの神様の為に甲斐甲斐しく尽くすの。悪戯の神様と言われてるこの神様とこのシギュンって人、どんな馴れ初めがあったのか気になるのよねぇ。北欧神話界最大のミステリー!」
「………………」
 にこにこ にこにこ。気持ち悪いほどに無邪気な笑顔を振りまきながらもロキの顔が凍りついたのに気がつかない闇野ではなかった。そして、まゆらの発言に対してロキがどう考えているのかもありありとわかって、闇野は内心でだらだらと冷や汗をかき続ける。
『世に伝わる北欧神話で一番の大嘘はシギュンの性格だっ。シギュンが黙ってる時はろくでもないことを考えてる時しかないんだからっ』
 ひとりだけイイ子ぶって、あの女はッ! と悪態をついているに違いない、と闇野は結論をつけて、向こう三日はむっすりと不機嫌になるだろう父親と言う神話の被害者と彼の不機嫌に巻き込まれる被害者である自分たち兄弟の状況を考え、ひとり涙するのであった。




北欧神話を調べたことがある人なら、誰もが抱くだろう疑問。