キミの中に融ける夜 

【 2 】






 ロキが受け入れを許諾した為に、うららは燕雀探偵社へとその日の夕方にやって来ていた。
 彼女にあてがわれた部屋は、一階にあるゲストルームだ。
 柔らかい青色に染められたその部屋は夏でも冬でも居心地の良い空間であるはずなのだが、そこに薄い水色のワンピースが加わると、どこかしら寒々しく感じられてならない。水色と言っても、春らしい水色から透き通った水色までさまざまな色があるが、彼女がまとう水色は、元からが薄氷のように薄く寒い印象を与えるものであったので、余計に寒々しかった。
 今朝方玄関先に置き去りにされた謎の花束が小箪笥の上に飾られていたが、それだけでは部屋の温度を上げてくれそうになかった。
 闇野は『腕の振るい甲斐があります』とばかりに体があたたまる料理をたくさんつくっているようだ。台所からなんとも良い匂いが漂ってきている。
「へぇ、若槻 寿って、光太郎君の親戚なんだ」
「親戚って言っても血筋的にはかなり遠いけど、仕事関係で付き合いがある家だから。そんな関係でコンサートの目玉になってもらえたってわけ」
 もう日も暮れる時刻であるのに、どうしてだかまゆらと光太郎が探偵社の応接室に居ついて紅茶を楽しんでいたりした。
 まゆらの横にはうららが座っているが、緊張しているのか、その表情はどこかしらかたいままだ。質問を向ければか細い声で短く受け答えするものの、記憶喪失に触れずにできる質問など限られている。自然彼女は、まゆらと光太郎の話を黙って聞いているばかりであった。それでも彼女は楽しそうだ。どうやら見た目そのままに控えめな性格らしい。
 居ついていたまゆらと光太郎はしっかりと夕食後のデザートまで平らげてから自分たちの家に帰ったのだが、ふたりが角を曲がって見えなくなるまでうららは玄関先で深々と腰を折り、おじぎをして見送っていた。
「礼儀正しい方ですねぇ、うららさん。記憶喪失って、一体なにがあったのでしょうか」
 あんなに怯えてしまって。きっと、よっぽど恐ろしく哀しい思いをしたのでしょうね、かわいそうに。
 夕食の片付けをしながら闇野は同情していたが、彼はふとその手をとめてなにもない宙を睨みつけ、なにかを考え込み始めた。
「どうしたの、ヤミノ君」
「いえ……それが、どこかでうららさんに会った気がしてならないんです……」
 暫く闇野はうんうんと唸っていたが、
「もしかしたらテレビドラマで見たのか、どこかの小劇団の女優さんかもしれません。背が高くて美人さんで声もよく通りますし、舞台映えするでしょうねぇ」
 あっさりと結論付けた。
「ヤミノ君……テレビドラマはわかるけど、どうしてそこで小劇団って言葉が出てくるの」
「このあたり、路上で寸劇をしていたり、小さな劇場での演劇活動が盛んなんですよ。今度ロキ様もいかれますか?」
「寸劇に劇場って……」
「ヤミノお勧めの劇団は『爆裂☆コロンブス』なんですけど。ここの座長さんが雑学の宝庫で、きっとロキ様と話があうと思います。『スーパーグランモール』の女優さんも楽しい方ですよ。凄くスレンダーで綺麗な方なのに、恐ろしく大食漢で、食べ物関係のうんちくが楽しいんです。最近は創作料理に凝っているらしくて、イロイロ斬新なレシピを教えてくれるんですよ。そうそう、三日前の夕食にお出しした新メニューがそうです」
「……ヤミノ君」
 確かに三日前、かなり独創的な新メニューがいくつか食卓に上がっていたのを思い出した。
 探偵秘書に家の維持に毎日の食事にと忙しいはずであるのに、彼はちゃっかりと地元にも溶け込んでいるどころか、知らない間に深い友好関係を他者との間に結べるようになっていたらしい。
 ロキはおのれの出不精をまざまざと思い知らされながらも、複雑な笑みを浮かべた。息子が楽しく生活できているのなら、それは喜ばしいことなのだから。
 そんなふたりに、おずおずとした声がかけられた。
「あの、ロキ様……」
「見送りは終わったの、うらら?」
 おずおずと名を呼ばれて振り返れば、そこには、廊下から顔だけを覗かせているうららが。彼女はこくこくと小さく頷いた。
 お手伝いすること、ありますか? との問いに
「片付けは終わってしまいましたので、ゆっくりして下さい」
 闇野はにこにこと返答した。
「なにか本でも読んでる? 書斎の本棚、見てたでしょ?」
 こくり、とまたしても小さく頷くうらら。
 日本語、ドイツ語、英語、イタリア語、その他もろもろの言語でタイトルが書かれた背表紙がずらりと並ぶロキの本棚を興味深く眺める依頼人は数多いが、それは
『なにが書いているのかさっぱりわからん!』
 または
『どうせ、子供が探偵だから威嚇の為の飾りだろう』
 との卑屈な視線ばかりだ。
 その中において、うららの視線は色が違っているのだと気がつかないロキではなかった。
「ダンテ・アリギエーリの『La Divina Commedia』を」
 彼女の選択に、ロキは面白そうに笑った。うららは、儚げな雰囲気とは違って、実は大変に強い女性であるのかもしれないと思わせる選択であった。

   * * *

 燕雀探偵社の朝ははやいが、夜も同じだけはやい。大概が十時にかかる前には灯りは絶えてしまうのだ。
 それが常であるはずなのに、本日は十二時を過ぎても灯りがともる部屋がひとつだけあった。ロキの寝室だ。
 チェストの上に置かれた小さなナイトランプの灯りはあえかなもので、ぼんやりとしか部屋を照らさない。部屋の隅など、薄い影に覆われている。
 そのほのかな光に照らされて、ロキはずっと考えごとをしていた。
 今日は朝から変な日だった。
 差出人不明の、玄関に置かれた謎の花束。
 朝から問答無用でまゆらにひっぱりまわされ、いつの間にか記憶喪失の娘などを預かる展開になってしまった。
 彼女は大人しいけれど、やはり年若い女性だからだろうか、屋敷がどこかしら華やいだ雰囲気になった。
 そんなにぎやかな一日であったのに、ロキの頭の片隅にいつまでもいつまでも留まっているのは、夢の残滓。
 北欧神話の豊穣と美と母性の女神フレイヤである大島玲也が見る夢は、予知夢や、なにかに感化された特殊な夢が多い。
 悪戯と欺瞞を司るロキは『予感』『予兆』として先の現象をとらえることが多いが『夢』として見ないわけでもない。
 それらの過去の実績が、わけもなくロキを不安にさせる。
 あの夢は単なる夢なのか――それとも『神が見た夢』なのか……答えはどこにもありそうになかったが、ふとその思考の波に差し込んできた声がひとつ。
 ―― ロキ様 ――
 小さくとも軽やかな、娘の声だ。春にさえずる鳥の声に似ている。
「なんだか……懐かしい感じがする……」
 彼女の声は、どこかしら懐かしい。昔の優しい記憶をふわりと両手で掬い上げたような声だ。
 それでいて、どこかしら寂しい色をまとった声だ。
 それよりも、彼女が『ロキ様』と呼ぶのに違和感がないのは何故だろう??
「ま、いいか」
 ロキはようやくナイトランプの灯りを消し、ベッドへともぐり込むのであった。

   * * *

 青い色に染め上げられたその部屋で。
 娘がひとり、昏々と眠る。
 部屋には闇野が水揚げした例のラナンキュラスも飾られているのに、どこかしら寒々しく感じられるのは何故だろう?
 カーテンの隙間から差し込む月の光が部屋にまっすぐな線を一本落としているが、それは、彼女とこの世界を隔てる強固な境界線にも思えて。
 お前はこの場に存在してはいるがあくまで異端者。場の存在を許されていてもここにとどまっていてはいけないと突きつけている、汚れない白い線。
 枕元には、読みさしのダンテ。
 その本へと置かれた白い右手は、ゆっくりと握りこぶしにかえられた。まるで、頼りなく見えながらも糾弾を緩めない細い月の光を拒絶するかのよう。または、謂れない糾弾を悲しむよう。
「おねがい……」
 伏せられたまぶたから流れ落ちたのは、ひとつぶの涙。
「おねがい……なまえをよんで……」
 彼女自身も知らない、強い願い。
 記憶がなくなろうと、楔のように突き刺さりけして消えない願い。
 うららの手がふっとほどけた。
 世界のどこにも居場所がないのはすでに知っているのだから――この、ひとつだけの願いさえ叶えられればいいのだから――月の光に傷つくなど、ない。
「むかしのように……はるのこえで……へる」
 夢の中の懇願を聞く者は誰もいなくとも、それだけが――たったひとつの、望み。

   * * * 

 翌朝ロキは、朝からはあんまり会いたくない人物の訪問を受けていた。
 誰あろう、そろそろ顔なじみになってしまった感のある警察関係者のひとり、新山真澄警部その人である。
 今日も今日とて立派な無精ひげによれよれの背広姿が決まっている。
 彼に言わせれば
『ハードボイルドでセクシーだろう!』
 らしいが、ロキからすれば
『……色々大変だねぇ』
 ますみちゃんの『セクシー』を理解してくれる女の人はいないんだねぇ、と遠まわしな指摘をしてしまう状態だ。
「朝もはやい時間からオツカレサマ。ま、紅茶のお相伴くらいはさせてあげるよ」
 どっかりとソファに座り込んだ新山警部の目の前には、薫り高い紅茶が一杯。
 新山警部はウェッジウッドのティ・カップを睨みつけるようにしながら唸った。それは熊の唸り声に良く似ていた。
「サンドイッチとか、せめてゆで卵くらいつけてくれんのか? 俺ぁ、三時から働き詰めで朝飯も食ってないんだが」
『ここで朝御飯にするつもりだったんでしょ。自業自得!』
 との意見をありありと含めたロキの冷たい視線を受け、新山警部はさめざめとした気持ちであたたかいぬくもりを残す紅茶を見つめ直した。せっかく朝飯代を浮かせられる上に美味い飯が食えると思っていたのに! との哀愁がそのくたびれた背広を着込んだ背中からぬめぬめとにじみ出てきて、非常に鬱陶しい。
「で? 朝もはやい時間からますみちゃんが来たってことは、事件絡み?」
 もう『単に暇だから遊びに来た』なんて気持ち悪い冗談に付き合わされるのは真っ平、と言外で牽制するロキへと、新山警部はしゃっきりと姿勢を正して向き合った。
「まさしく事件絡みだ。小僧っ子、ワケありのねぇさんを預かってるだろ」
「おや、身元がわかったの? 案外はやかったね」
 良かった良かったと無邪気に手を打つロキであったが、ふとなにかに気がついたらしい。新山警部へおのれが発した返答は、微妙に勘違いチックだ。
「ん? 事件絡みって?」
 記憶喪失者の身元が判明したのならば『事件絡み』との表現を使うはずがないし、そもそも新山警部は管轄外だろう。
「実は昨日の夜、近くのお高級な『コートリーホテル』のすぅぃぃとで盗難事件が発生してな、三時からその事件にかかりっぱなし」
「……それがどうしてうららと関係あるのさ」
「そのすぅぃぃとにお泊りだったのが、若槻 寿ってヴァイオリニストとその旦那でマネージャーの若槻タダユキって男だったんだが、盗まれたのがなんと、一個数億は固いヴァイオリンらしくって、大騒ぎ!」
 ヴァイオリンは『一個』じゃなくて『一挺』と数えるとの訂正もなんだか虚しくなってきたが、若槻 寿の名前に反応しないわけにはいかない。なにせ、昨日直に彼女の演奏を耳にし、姿を見ているのだから。
「そのヴァイオリンって、もしかしてストラディヴァリウス?」
「そう! そのストララなんちゃら言うヤツ。まぁそれが個人所有ならまだ話はややこしくないんだが、なんかそいつは寿さん個人のものじゃぁなくて、日本音楽財団から五年契約で貸し出されてるものらしくてなぁ」
「……」
 盗まれたヴァイオリンがそんじょそこらにある高級ヴァイオリンではなくストラディヴァリウスであると知って、新山警部の言いたいこともわかる気がしたロキである。
 ヴァイオリンで名だたる名器と言えば、まっさきに名前があがるのが、アントニオ・ストラディヴァリが作成したヴァイオリンだ。巨匠はその生涯で、約千二百挺のヴァイオリンを作成したと言われ、現存するのは六百挺とされている。それらは氏の名前から『ストラディヴァリウス』――または略して『ストラド』と呼ばれていた。
 それらの幾つかを日本音楽財団が保管し、現代の有能なヴァイオリニストに数年契約で貸し出す貸与事業が行われており、寿が盗まれたヴァイオリンもその制度によって貸し出されたものらしい。国際的に有名なヴァイオリニストである寿であれば、まったく不可思議な話ではなかった。
「で、まぁ、夜中にヴァイオリンケース大の荷物を抱えた水色のスカートをはいた長い髪の女が出て行くのを見たってぇ、ホテルの従業員が証言してな」
「それでうららを疑ってるっての?」
『服装』『髪型』『女』のキーワードで寿に接点があった人物を洗い出すのは確かにセオリーかもしれないが、うららには動機がないだろう。記憶すらないのだから。あの不安そうな顔や、時折心細げに揺れる視線が芝居であるのなら、小劇団の女優どころの話ではない。なにせ、神様であるロキをも騙すのだから。
 ロキは『警察も暇だねぇ』との言葉を飲み込むつもりもなかったが、新山警部はめげる感性も持ち合わせていないのか、話を続けた。
「それだけじゃぁないんだ。タダユキ氏もちらっと見たらしいんだよ、その女を。で、はっきりと『昨日ここに泊まってたコンサート関係の女』だって証言しちまってな。ま、後はお定まり通り『昨日の夜あなたはどこでなにをしていましたか? それを証言できる人はいますか?』って質問をしにきたわけだ、朝飯のついでに」
「……」
 嫌な沈黙が書斎に落ちるのを、ロキは止められないのであった。


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