キミの中に融ける夜 

【 3 】






 朝はやくからの『招かざるむさ苦しい訪問者』が帰ってからと言うもの、ロキはむっつりと黙り込んでいた。
 やましいことがない身であれば、警察の『アリバイ確認』など痛くもかゆくもないとはわかっているが、
「嫌なら拒否してもいいんだよ」
 うららについつい忠告してしまうのは、彼女の身を『預かる』と言ってしまったからでもあったし……動機もなければ記憶すらない彼女に犯罪の疑いがかかっているのだと突きつけられるのは精神的に辛いだろうと思ったからであった。
 だが、彼女はやはり芯は強い女性であったらしい。戸惑いながらも新山警部の訪問を受けると了承した。だが、話は一行に進展するはずがないのである。なにせ、彼女には動機がない。
 ロキはむっつりとしつつ、まだ後悔の時間を続行させている。
「しまったなぁ。こんなことになるってわかってたら、一階じゃなくて二階に泊めておけば良かったな」
 燕雀探偵社にはゲストルームが二室あるが、二階のそれは先日闇野が模様替えに精を出してピンク一色に染め上げていた。『まゆらとレイヤ専用って感じ』との主の意見により、そのふたり以外はなんとなく一階の部屋へと案内してしまったのだ。
『アリバイ』とは、ラテン語の『他の場所に』が語源とされている。
 正確には『現場不在証明』――一般的には『犯行時刻に犯行現場以外に存在していた証明』を意味するが、就寝してしまう夜中の『アリバイ』を証明するのはある意味至難だ。最近の傾向としては、個室での就寝がほとんどを占めている上に、『家族』『親しい者』以外の証明、との条件までつく。これでは、利害関係のまったくない相手の家にいるでもない限り、一般人にはその時刻の『アリバイ』など証明しようがないだろう。
 これが、身内でもなんでもない燕雀探偵社で偶然預かることになり、縄梯子はおろかロープのありかさえ容易にはわからない広い屋敷で、しかも施錠は完璧な状態での二階宿泊であったなら、その『証明』は案外とはやめについただろうと考えると後悔する以外にないではないか。
 仮にうららがロープなりなんなりを見つけたとしても、ロープを結びつけたであろうベッドの足や擦過傷がついていてもおかしくないテラスの手すりを調べれば良いだけなのだ。そこになにも見つけられなければ、『仮』ではあっても『容疑者』のリストから彼女を外せただろうに。
「結果論だなぁ。常にない判断ミスにイヤになる」
 どれだけ考えてもそれらの仮定は、一階に彼女を泊めた時点ですべて崩壊だ。さすがの女性でも、一階からの脱出が困難だと言い張るわけにはいかない。
 ロキは不機嫌な仕草で紅茶を飲み下す。
 そんな彼の仕草を、ソファで小さくちぢこまっているうららが見上げていた。なんとも心細そうな視線であった。
「……とりあえず、若槻 寿に会ってこようかな」
 このままますみちゃんたちに任せてたら彼女が犯人にされてしまいそう、とため息つきつき考えているロキに
「ロキ様、あたしも行ってもいいですか?」
 心細そうではあっても、やはりこのままではいけないとわかっているのだろう、うららはおずおずと願ったが
「んー……うららはヤミノ君とフェンリルとお留守番」
 ロキはやんわりと押し止めた。
 でも、と言い募ろうとしたうららの前で
「ちょうどやる気に満ちた助手も到着したトコだし」
 バンッと勢い良く書斎のドアが開いたかと思うと
「うららさんが容疑者扱いってホントなの、ロキ君?!」
 まゆらがあらわれたのであった。

   * * *

 若槻 寿が日本音楽財団から借り受けているヴァイオリンは、アントニオ・ストラディヴァリが一七一七年に作成した『サセルノ』であった。保存状態も良く、華やかさと力強さを兼ね備えた音で有名なヴァイオリンである。
 そのヴァイオリンを盗まれた本人は、四十五階建て高級ホテル『コートリー』のスウィートルームでぐったりとソファにもたれかかっていた。彼女の背後に大きく展開する窓の向こうは青い空、そして遥かなる地上の風景だが、そんなものは彼女の慰めにはならなかったらしい。
 いくら振動が少ないとは言っても苦手なエレベーターに我慢して乗り込みようやっと四十階のスウィートに辿り着いたロキも、内心では彼女と同じくぐったりとしていた。機械に囲まれた上に狭いエレベーターは、彼にとって地獄そのものであった。
 互いにぐったりとしつつ、それでも寿は胡散臭いはずの自称・探偵のロキに協力的だった。いや、もしかしたら単なる愚痴相手と認識されてしまったのかもしれない。夜中から続いた警察の事情聴取ともまた違った気安さがあるのだろう、寿はロキ相手に饒舌に喋り続けている。
 この時ばかりは、テレビや雑誌のインタビューに感じ取れる快活さの片鱗が覗いていたが――
「ヴァイオリニストにとってヴァイオリンは愛を歌う相手、我が半身よ。その半身をとられてしまってどうして正気でいられるでしょう」
 無味の炭酸にレモンを絞っただけのレモン水を飲み下すその様子は、饒舌さのわりに生気に乏しかった。
「ヴァイオリンってホテルのクロークに預けるの? それともこの部屋に金庫でもあるのかな?」
 ロキが尋ねれば、寿は力なく笑った。なんとも気だるげで、一気に十も老け込み、今なら実年齢相応に見えた。
「クロークですって? そんな他人になんぞ預けられるもんですか。人によってはね、移動中はケースと自分の手に手錠をかけるヴァイオリニストもいるくらいなのよ。それくらいしても大げさではないし、相手がストラドならなお大げさではないわね。けど、今回に限っては金庫でもないの。だってこの部屋、頑丈な金庫がなかったんですもの。仕方がないから、入浴中はタダユキさんに預けていたのよ」
 盗まれたのは、その一瞬であったらしい。ヴァイオリンケースとともに部屋に居た夫のタダユキが珍しくうたたねをした瞬間後に『サセルノ』は姿を消し、あわてて廊下へと飛び出した彼がちらりと見かけたのが長い黒髪の女。まだまだ寒の戻りもある、春真っ只中とは言えない三月の中では寒々しく印象的な水色のワンピースの後ろ姿。
「追いかけたらしいんだけど、角を曲がったらいなくなっちゃってたんですって。まるでキツネに化かされた気分。それとも、神隠しって言うのかしら、こんなの」
「そのタダユキさんは今ドコに?」
「タダユキさんは私の折衝役だから、日本音楽財団に報告に行ってくれているわ。とてもじゃないけど、私ひとりでおさめられる問題じゃないもの」
 寿は深々とため息を吐き出した。
「私がプロのヴァイオリニストとして失格だって言うだけならまだいいけれど、数少ないストラドの――その中でも名の知れ渡った名器である『サセルノ』が表舞台から消え去るのは音楽界の大いなる損失だわ。確かにね、保険はかかってるからそのあたりは大丈夫だけど、問題はそんなことじゃないのよ」
 ヴァイオリンは大切に保存し、手入れすることも大事だが、心を込めて歌わせてやらなければあっと言う間に腐れ落ちる『生きた楽器』とも言われている。ヴァイオリンは観賞用の美しい工芸品ではなく、あくまで歌う為に存在している生き物であった。
 貴重なヴァイオリンを、紛失や盗難の危険を考慮しながらもヴァイオリニストたちに貸与しているのには、そんな理由もあるのだと寿は教えてくれた。
 金や損失の問題は、ヴァイオリニストたちにとっては二の次、三の次の問題だ。
「せめてあの子が、ちゃんと価値のわかる人のところにいればいいのだけれどもね……」
 寿の願いは、単に『高価な名器』に向けるものではなく、我が子に向けるものにも等しい。
 ――あの子がどこかで無事であればいい。
 その気持ちはロキの中にもある。
「そう言えば……眠ってしまった時に、妙に甘ったるい匂いが強くしたって、タダユキさん言ってたわね……」
 寿は意味深な言葉を零したが、右手でけだるげに髪をかきあげて窓の外の景色へと視線を放り投げたきり、もうなにも語らなかった。


「ロキ君! こっちもばっちりだよ!」
 寿との面談を終えてスウィートルームから出てくると、ちょうどまゆらが廊下を走ってくるところであった。分厚い絨毯が敷かれ、ところどころにはさり気なく壷や花や絵が飾られた上品な廊下であるのに『その場の雰囲気にあわせておしとやかにする』は彼女とは縁遠い言葉なのであろうか。いや、それだけこの盗難事件解決への意欲が溢れているのだろう。
「ホテルの人の話はどんな感じだった?」
『とりあえず、こんな気持ちの悪い場所じゃなくて地上に戻りたい』
 とばかりに覚悟を決めて地獄の入り口へと向かいながら問いかければ、まゆらは若草色の表紙の探偵手帳をせわしなくめくった。
「そのミヤグチさんって人ね、確かに夜中、正確には午前一時半にヴァイオリンケースみたいなのを持って出て行った女の人を見てるんだけど、うららさんとちょっと違う感じがするの!」
 まゆらがこの時点で断定するなど珍しい。ロキは無言で続きを促した。
「だって、水色のスカートって言ってたけど、ゆったりとした黒いスプリングコート着ていたらしいの。それに、見たのは後ろ姿をチラッとだけだったんだって。うららさんって、白いジャケットしか持ってないでしょ? 自分の家に居たわけじゃないし、そんな時間だったらお店も開いてないし、黒のコートの調達って難しいじゃないっ。うららさんって闇野さんと同じくらいの背丈だから闇野さんから借りるとかって手もあるけど、そうなったら闇野さんも共犯じゃないっ。ロキ君、闇野さんも共犯なの?! それとも、闇野さんってば、部屋にうららさんが忍び込んだのにも気がつかないくらいぐっすり熟睡するタイプ?!」
「いやぁ……さすがにその二点は考えられないカナ……」
 まゆらは面白いほどの剣幕でまくし立てていて、さすがのロキも圧倒された。狭いエレベーターの内部であれば余計にまゆらの無駄なやる気にあてられてしまって言葉のひとつも容易には挟めないくらいだ。
 いつぞやの午後、
『従兄弟が四月にコートリーホテルで披露宴をするから、出席するの楽しみ♪』
 当日に着て行く服をあれこれ考えては楽しそうにしていたその『コートリーホテル』へ一足先に乗り込んでいるのに、彼女の中で興奮は別のものにすっかりとすりかわっているらしい。
「もぉうっ新山警部のへっぽこーっ」
「あのね、ちょっとは落ち着きなよ」
『と言うか落ち着いて欲しい』
 エレベーターが途中で止まったらどうすんのさと魂を半分飛ばし加減で心底願ってしまう。こんなところで閉じ込められたら、さすがの邪神様でもどうしようもない。その想像だけで、閉所恐怖症でもないのに胸の辺りが妙に息苦しくなってしまうほどであった。
「それでロキ君、次は誰の調査に行くの?!」
「んー、次は……買い物かな」
「お買い物?!」
 下降する不愉快感をかすかに与える白いエレベーター内部に、まゆらの素っ頓狂な声だけが響き渡る。
「……なんの為にまゆらを呼んだと思ってんの」
「この事件には優秀な探偵助手の観察眼が必要だからでしょ?」
 ロキはあからさまなため息をついた。それは、まだエレベーターの階数がようやっと半分を過ぎたところである為のあきれも入っているのかもしれないが、半分以上は堂々と胸を張ったまゆらの発言へのため息だ。
 このエレベーターは静かだけれど、とろ過ぎる。はやく地に足をつけたいものだが、今の状況では虚脱が過ぎて動けそうにない。めまいまで起きてきそうだ。
「うららはもう暫くうちで預かることになりそうだし。そうなったら着たきりスズメじゃ可哀想でしょ。だから、お買い物。さすがに、大きなおねぇさんの服や小物の店にボクとかヤミノ君が行くのは変だから、まゆらの出番ってワケ」
『ボクひとりでもなんとかなるかも知れないけれど、絶対にくたびれるからヤだ』
 とは口にしない本音だ。
 子供にも鳥にも懐かれるが、ロキはその日本人離れした際立った容貌の為か、それとも隠した本性の匂いを嗅ぎ取られるのか、大きなおねぇさんにもよくよく懐かれる。つつがなく買い出しをこなせるかもしれないが、大きく時間を喰うだろうし、買い物中おねぇさんにまとわりつかれるのは嬉しいような面倒くさいような。いや、今現在の気持ちでは、圧倒的に『鬱陶しい』し『煩わしい』
 その点、まゆらがいれば『一番上のおねぇさんへのプレゼント』購入とのスタンスも取りやすし、買い物も短時間で済むだろうとの打算からまゆらを呼んだのだ。
「うららさんのお買い物するのは全然問題ないって言うか楽しいから大丈夫だけど……ロキ君、わかってる?」
 ぷりぷりと怒ったりはしゃいだりと忙しいまゆらが、今度は一転しておずおずと問いかけた。
「……なにを?」
 エレベーターの階数はようやっと五階に。
「女の子の買い物はすごーく時間、かかるんだよ。ひとりが生活する分揃えるってなったら、どんなに急いでも軽く三時間はかかるけど」
「……」
 なんでそんなに時間がかかるの。どんなに急いでも『軽く三時間』ってナニ? 世の女性の買い物は恐ろしいほどに長いとは知ってはいても『三時間』ってナニ?! これじゃぁ、なんの意味もないじゃない……
 エレベーターは、地獄にしても優しい方。
 チンッと軽やかな音をたててやっと辿り着いた地上の先に更なる深みが待っているのだと気がついて、ロキは魂を本格的に飛ばしてしまいたくなる。
『こんなだったら、美味しいので有名な最上階のカフェでケーキでも食べてからにするんだった……』
 ロキはふと甘美な誘惑に乗りそうになったが、四十五階ははるか上空で、その時の彼にはなによりも遠い場所なのであった。

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『春色染まり』の『まゆらをホテルに誘う』云々はやっぱりこんなオチ(笑)。