キミの中に融ける夜 

【 4 】






 いつもは静かな燕雀探偵社であったが、その日の夕方には珍しく音楽が流れていた。場所も、ラジオを置いてある闇野の城であるキッチンではなく、その屋敷においてはあまり誰もいつかないリビングだ。彼らにとってのくつろぎの場はリビングではなく書斎なのだから、リビングと言っても名ばかりであった。
 現在、無駄に広さだけはある部屋に低く高く艶やかな音色を響かせているのは、ヴァイオリン独奏曲。時に力強く、時に繊細にヴァイオリンと奏者は美しい歌を歌い上げている。
 ロキは、ひとりがけのソファに身体を預けながら『どんなに急いでも軽く三時間』の疲労を慰めていた。目を閉じてヴァイオリンの歌を聴くのはなんとも心地の良いものだ。その歌が、国際的にも有名なヴァイオリニストのものとなればなおさら耳に心地よい。
 あーもう、なんであんなに時間かかるかな。
 ロキは目をつむり音楽の中に身をひたしながらもぼんやりと考える。
 本当に、女の子の身の回りの品にかける情熱は恐ろしい。それが、他人のものであったとしてもなんらかわらない。いや、他人のものであるからこそ燃え上がる部分もあるのだろう。自分なら似合わないけど他人なら似合う服と言うことで、いつもは縁のないジャンルへと積極的に関わっていけたこともまゆらが燃え上がる要因であったらしい。軍資金の方も『光ちゃんのパパにまわす』のロキの一言で気兼ねがなくなったのか、妙に弾けていた。
 まゆらの嬉しそうな顔と言ったら輝かんばかりであったが、その輝きはロキの生気を吸い取って燃料にしているのではないかと本気で思えるほどだった。
 ロキは苦行の時間を思い出して大きくため息を吐こうとしたが寸前でやめた。何故ならその部屋では、ロキと同じようにして音楽に耳を傾けていたうららがいたからだ。さすがに、突き詰めていけば大元の原因となってしまう彼女の前でため息をつくのは駄目だろう。
 まゆらの燃える見立ては趣味が良かったらしく、彼女に淡い色の服は似合っていた。寒々しい印象を与える水色のワンピースより断然あたたかい雰囲気があり、どこか儚げであった彼女の表情まで柔らかくなった気がしないでもない。それだけで『苦行三時間』が少しは報われたかなと思わないでもないロキであった。
「ヴァイオリンが歌っていますね、ロキ様」
 心細さに引き結ばれていた唇には、微笑さえあった。寂しげな色だった目には楽しげな光が。
「喜んでいますよ、このヴァイオリン。とっても弾き手のことが好きなんですね」
「うららは、音楽が好きなんだ?」
「多分……好きだと思います」
 ロキは、流れている音楽のCDジャケットに視線を落とした。薄いプラスチック・ケースの向こう側では、飴色のヴァイオリンを大切そうに抱えた幾分若い若槻 寿が微笑んでいた。今のうららと同じ微笑だった。
 もう一枚のジャケットは、三ヶ月前に発売されたばかりの最新アルバム。こちらの彼女も同じく微笑んでいたが、古いアルバムの方が、どちらかと言えば慈愛さえ滲ませた笑みだった。人は年を経るごとに深みを増すと言うけれど、この二枚を比べれば、三十五歳の寿の方が人間的に大きさを感じさせるものがあった。
「春の声で歌ってる。楽しそう」
 ……うらやましいな。
 ぽつんと呟かれた言葉の意味は、きっと本人にもわからない。それだけにその言葉は、嘘偽りも打算もない心の発露なのだろう。
 ロキの手元を覗き込んでいたうららが、ふとあることに気付いた。
「寿さんのヴァイオリン、違うものなんですね」
「本当だ、違うヴァイオリン。こっちが『サセルノ』だね」
 寿が手にした流麗な線を描く二挺のヴァイオリン。古いアルバムに写るヴァイオリンは、サセルノよりも明るい飴色に濡れている。
 そしてふたりは、最新アルバム――『サセルノ』が奏でる音がスピーカーから流れ出した時に、もっと重要な『事実』に気がついた。
 それは、尋常のヒトとは違う感性を持つふたりであったからこそわかる『事実』
 場の雰囲気の力を借りず、演奏者個人の技量がそっくりそのまま表現された『記録音楽』であったからこそ一層際立った『事実』
 うららは寿の音楽に打ちのめされたかのように、蒼白な顔で震えている。
「……ヤミノ君、今から若槻 寿のことを調べてくる」
 夕闇が迫る時間帯であるのに、ロキは燕雀探偵社を飛び出した。
 頭上に広がる空は、ロキの予測をあらわすかのように、暗い橙色を広げている。
 街を行くロキの脳裏には、情熱的な旋律が汚泥のように淀んでいた。

   * * *

「えぇ、確かにそうです。日本音楽財団には一年前から『サセルノ』を貸し出してもらっているけれど、それは『名誉なこと』から貸与されたわけじゃないの」
 翌朝、ロキと闇野、そしてうららは『コートリーホテル』へと赴いていた。
 空は、昨夕とは打って変わって明るく晴れ渡っている。あと十日ほど経てば、ホテル周辺に植えられている櫻の木に花が咲くだろう。
 そんな陽気も一切関係ないのだろう、寿はやはり気だるそうにソファにもたれかかって三人を出迎えた。そこにはもはや、テレビや雑誌で快活なイメージを与えていた面影はかけらほどもない。陰鬱な沼に沈もうとする一枚の葉に似てゆらゆらと頼りなく、しんと静まり返っている。
 口元に刻まれた細い皺に気がつくと、彼女は実年齢を十も通り過ぎて見えた。『サセルノ盗難事件』は、彼女をたったの数日で一気に老成させたのだと納得せざるを得ない。
 だが『サセルノ盗難事件』は、彼女を打ちのめすひとつめの事件ではなかったのだ。
「一年前にね、大切なヴァイオリンが……『熱狂的な』私のファンによって……燃やされてしまったの」
 あっと言う間だった。リサイタルを終えた翌日、ホテルの前から車に乗り込もうとした時にヴァイオリンケースごと盗まれて、用意してあったガソリンが容赦なく浴びせかけられ、火のついたライターが投げ込まれ……
 寿は顔を覆いもせず、淡々と昔の話を語ってみせた。その時ばかりはなぜかしら彼女の目にうっとりとした光がゆらりと浮かび上がり、三人はぞっとしたものだ。人間がこんな光を浮かべられるものなのかと、ヒトならざる存在であるロキと闇野ですら感心するほどであった。
「不謹慎なんだけど、本当に良く燃えたわぁ。接着剤とニスだけで、釘一本打っていない木製の楽器だから当然よねぇ。綺麗だった。まるで、あの子の高音域の響きが炎になったみたいに、煌びやかで華やかで、妖しく美しい」
 淡々としていながらも、ヴァイオリンが燃え盛るシーンを思い出している彼女の目こそが魅入るほどに妖しい。
 だが、それもすぐに、先よりも陰鬱な気配をまとってしまう。
「燃やされてしまったヴァイオリンは、プロデビューが決まった時に祖母が贈ってくれたものなの。単に祖母がくれたってだけのものではないわ。そのヴァイオリンを弾く祖母の姿に子供心に憧れてヴァイオリンを習い始めた、大切な思い出の子なの。ヴァイオリニストとしての私の人生の最初からともにいた子よ」
「寿さんは……その子がとてもとても好きだったのですね?」
 うららの静かな質問に答える寿の言葉も静かなもの。
「好きなんて言葉じゃ足りないくらい。愛してるの言葉でも到底届かないわね」
 私の姉であり妹であり。私の師匠であり。私の愛を歌う相手であり。私の半身であり――私の子供であった。
「あなたにもいるのでしょう? そんな相手が」
 寿と真向かったソファに座ったうららは、躊躇いもせず頷いた。
 今のふたりの間に、ロキも闇野も入るなどできなかった。
 何故なら、彼女たちには、ふたりも割り込めない共通点がある為に。
「だってあなたのクラリネット、死んでいたもの。あんなにも『生きている』風を装っても、誤魔化せないのよ、私には。美しくても死んでいる。美しくても叫んでる。……私と同じ声で泣く人にはじめて会ったわ」
「あたしも気付きました。寿さんは『サセルノ』を歌わせてあげられてない、と」
 音を奏でるだけなら、方法さえ知れば誰にでもできる。その中に心を込めて歌い、楽器を歌わせられてこそ本当の奏者。
『サセルノ』紛失だけを指せば『プロのヴァイオリニスト』として失格かもしれないが。
『サセルノを歌わせられない』のは『ヴァイオリニスト』として失格だ。
「誰に言われなくてもわかっているわ。技巧で誤魔化しているだけだって。でも、どうしても私には『サセルノ』を歌わせられなかった。『ヴァイオリニスト』としての私はあの子と一緒に地獄の劫火で焼かれて死んだの」
 ロキとうららが聞いた一枚目のアルバムは、繊細で、叙情的な曲が多くおさめられていたが。
 二枚目のアルバムは、圧倒的なスピードと力強さをメインにした曲しか入っていなかった。
 恐らく、技巧で誤魔化せる曲しか彼女には弾けなかったのだろう。『思い切った脱皮の為の試み』と言うよりかは、繊細な歌い手として名高かった彼女には似つかわしくない曲ばかりで、それはサセルノを歌わせるどころか彼女自身の魅力すら殺し切った選曲であった。
「こんな抜け殻の私に、更なる神の鉄槌を下したのは――誰なのかしら」
 地獄の底に突き落としてもまだ足りないのは――誰??
「それは、タダユキさんだよ」
 ロキははっきりと断定したのだが、寿は顔色ひとつ変えなかった。まるで、はじめから知ってでもいたかのように、
「タダユキさんは今どこに?」
 わからないわ、と寿はぽつりと言い置いて。
「日本音楽財団に報告に行って来るって、それからタダユキさん、帰ってこないもの。きっと『サセルノ』と出かけたままなのね」
 どうしてそんなバカなことしたのかしら。ヴァイオリニストの旦那なのに、少しもヴァイオリンを弾けないくせして――……。
 寿は窓の外へと視線を投げかける。
 はじめて今日は晴れていたのだと知った顔で瞬きを繰り返し、
「良く晴れてるわねぇ」
 他人事のように笑った。その顔はどこかしら、過去の記憶も家族の記憶をなくしても穏やかに笑う老婆の笑みに見えた。

   * * *

 燕雀探偵社の一階には、スタインウェイのグランドピアノだけを置いた小部屋があった。ロキが気まぐれに弾く以外は、誰も近寄らない部屋だ。
 大きな窓から庭に出入りできるその場所には今、窓から零れ落ちる午後の光と、ピアノの音で溢れていた。昨日の夕方はヴァイオリンの音色であったから、チャリティ・コンサートからこちら燕雀探偵社は音楽づいている。
 屋敷を優しい音色で包んでいるのは、うららだ。黒光りするグラウンドピアノの白い鍵盤の上を、白い指が踊っている。それは、清水が流れ落ちる動きに似ていた。
 ロキは書斎で本のページを繰りながら、その音色に耳を傾ける。
 メンデルスゾーンの『春の歌』――春の煌きを感じさせるかろやかな曲だ。
 なのにどうして彼女がその旋律を紡ぐと、どこかしら悲しく冷たい冬の気配が漂うのだろう。きらきらしく空中を跳ねる音符は、水の結晶の煌きをまとって凍え、かすかな振動にぱきんと高い音を発して砕け散る。
「そんなのは……当たり前か」
 ロキは誰にも言えない言葉をひとり呟き、静かに本を閉じる。
 本のタイトルは『神曲』――ダンテが地獄・煉獄を経て天国へと向かう物語。
 天国の恩恵を感じ取るには、地獄を這いずりまわらなければならないのだ。光に満ちた生しか知らないものは、その光がどれだけはかなくありがたいものなのか知ることはできないのだから。光の中では『光』のまばゆさを認識できないのだから。
 そして、春を歌うには『春』を知らなければ歌えないのに、彼女は『春』を知らないのだから。
 彼女の音楽に冬の気配が色濃くまとわりつく理由を確かに知っていながら――ロキにはどうすることもできない。
 ただ、春に憧れ、春を歌うピアノの音色だけが屋敷を包み込む……。



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