キミの中に融ける夜 

【 5 】






 若槻タダユキはほどなくして、日本音楽財団近くのビジネスホテルの一室で、新山警部の部下であるヤスこと山田刑事に身柄を保護された。ロキが手をまわして捜させていたのだ。
 だが、ロキが『盗んだ』と断定した彼は『サセルノ』はおろかヴァイオリンの弓すら持ってはいなかった。その状態では、開き直りの言葉を吐かれても仕方がなかった。
「このおちびの探偵さんは、僕が『サセルノ』を盗んだと思っているのか。所謂『被疑者』と目されてるってわけだ」
 山田刑事にその上司である新山警部、まゆら、そしてロキと闇野とフェンリルが書斎兼応接室に揃うと、さすがに少しばかりぎゅうぎゅうな感じがして少々息苦しい。それでも、誰も出て行こうとはしなかったし、タダユキの真向かいにあるソファに座ろうともしなかった。
 新山警部ですら、この段階でタダユキを被疑者扱いするロキの考えには賛同しかねていたが、出て行こうとはしない。その中に『また勝手に人の部下を使いやがって!』との悪感情があったとしてもだ。ただ黙って、タダユキの後ろの壁に背を預けて腕組みし、むっつりと黙りこくっていた。
 ソファに身を沈めて悪態をつくタダユキは、容疑者扱いをされていると悟りながらもなかなか堂々としたものであった。仕立ての良いスーツに身を包んだ彼は成人男性にしてはどこかしら華奢な印象を与えるが、品良く整えた黒髪や理知的な目などが相まって、音楽関係者であればなんとも相応しく感じられる。
 タダユキはわざとらしく両手を広げてみせた。力仕事や労働とは程遠い、白くて細いのが印象的だった。
「サセルノが僕の手元にあったわけでなし」
 ドラマみたいで面白いけどなかなかこの立場は不愉快だね、とタダユキはまだ余裕の表情だ。
「ふ〜ん。じゃぁ、なんで寿さんのところに戻らずにビジネスホテルなんかにいたわけ? 旦那さんとしてもマネージャーとしても、寿さんのところにいるのが自然じゃない?」
 ロキもタダユキのふてぶてしさがおかしいのか、定位置に腰かけて頬杖をつきながら、どこか面白がっている表情だ。
「財団から連絡待ちだったんだよ、おちびさん。財団本部とコートリーじゃぁ、電車の接続が不便でね。なにせこちらはこの世にひとつしかない貴重な品を紛失したんだ、要請に応じて迅速に動ける姿勢くらい示しておかなくちゃ」
 理由としては半分くらいは筋が通って聞こえる言い分だ。
 タダユキの声や語り口調も、うっかりしていると話を頭から信じ込みそうになる独特なものがあった。
「ふ〜〜〜ん。じゃぁ、財団本部が『サセルノ紛失』を知らないって情報はボクの勘違いかな? それとも、事情を聞きに行った山田刑事サンがあまりにも公僕らしくなくて信用がならないからウソつかれたのかな? さすがに、財団保有のヴァイオリンが盗まれたって醜聞、口にできるはずがないよねぇ」
 ロキのひどい言い草に山田刑事が情けない声で『ロキ君きつい〜〜』と泣いたが、それでもタダユキは表情をかえなかった。
「……犯人がいるんだから、おちびの探偵とは格の違うちゃんとした探偵を雇って犯人の周辺を洗わせているんだ。ほら、水色の服を着た、得体の知れない女。うちの寿さんは国際的にも有名なヴァイオリニストだから『サセルノ』を盗まれたって大スキャンダルに巻き込むわけには行かない。犯人を探し出して、僕がなにをしてでも取り返すつもりだった。金で解決するのなら何億積んだっていい。僕の命をかけたっていい。とにかく、公にしたくなかった。警察に連絡したのは寿さんの判断であって、僕じゃない」
 寿に対して真摯と言えば真摯な態度である言葉と口調ではあったが、ロキはそんなものに惑わされはしない。まだ、笑い話を耳にしているかのような態度であった。
「ふ〜〜〜ん、得体の知れない水色の服の女、ねぇ。それは興味深いな」
「それに、サセルノが盗まれた時、甘ったるい匂いがしたんだ。ほら、映画とかドラマの誘拐シーンでハンカチにしみこませて使う薬があるだろ。きっと、あれをドアの鍵穴から部屋に流し込まれたんだ」
 勢いづきべらべらと喋りだしたタダユキに、ロキは冷たい微笑をくれた。
「もしかして、クロロフォルムのこと? それはそれはたーいへん。クロロフォルムってねぇ、醒める時は恐ろしく気持ち悪いらしいヨ。頭痛と吐き気でのた打ち回るくらいなんだって」
 ロキは一転、にっこりと笑った。まるで、その場の会話が無邪気な子供同士のものであるかのような、子供らしい笑顔だった。
「しかもこの薬物は、推理小説やテレビドラマで描写されているような即効性はないんだ。クロロフォルム数滴垂らして口ふさいだらころりと気を失うって、嘘っぱちも過ぎるヨ。たっぷりクロロフォルムをしみこませたタオルで十分くらい口と鼻をしっかりふさぐでもしなけりゃ意識なんかとばない。その間には興奮期もあるからすごーく抵抗されるし、揮発性も高いから途中で何度か継ぎ足さなきゃぁ。それに、使ってる犯人にもリスク高いよ? 発ガン性も高いし、揮発してるクロロフォルムを犯人も吸ってることになっちゃう。それがイヤなら防毒マスクでもしなくちゃ、それって大げさだねぇ?」
 見た目通りの無邪気さを装いながらの容赦ないロキの言葉が進むたびに、タダユキはぐっと言葉に詰まった。
「そうそう、クロロフォルムってね、触れたところが腫れあがる性質もあるから、犯人ってば手袋もしなくちゃ。そんなカッコウの人、すごーく怪しいネ」
「そんなの……夜中に意味ありげに出て行った水色の服を着た女の存在の方が怪しいだろうが」
「あくまで、クロロフォルム嗅がされて女にヴァイオリンを盗まれましたって言い張るんだ。さっきも言ったでしょ、興奮期があって暴れるから、女の人の力じゃぁさすがに押えられないと思うけど。しかも、うららは背は高いけどかなり華奢だから、手加減した男の力でも押したら倒れるよ。それともタダユキさん、箸より重いモノは持ったことないヒト?」
 目の前にいる子供は、子供の姿をした得体の知れないモノだと、タダユキにももうわかっていた。彼にはもはや言い返す言葉はおろか、気力すら残ってはいなかった。
「それからね、触れたところが腫れあがるって言ったでしょ。大暴れしてたらさすがに広いスウィートルームでも騒ぎに誰かが気づくだろうし、その時のタダユキさんの顔がどうだったか奥さんに聞いてみようかな。結構なご面相になってたハズだけど」
 ちょうどいいや、暴れるタダユキさんをうららが取り押さえられるかの実験でもしようか、とあくまで他人事のように言うロキと色を失くしたタダユキの前にドアを開けてあらわれたのは、話の中心にいるふたりの女性であった。うららと、彼女に支えられるようにしてぼんやりと立っているヴァイオリニスト。
「ボクは、サセルノなんてヴァイオリンがどこにあるのかには一切興味ない。でもタダユキさん、あんたは取り返しのつかないことをしたんだ。サセルノを盗んだのは金の為? それとも、『若槻 寿』として生きていた奥さんの為?」
 弁明の余地くらいは与えてあげよう、との言葉に、タダユキは泣き崩れた。
 すべては――寿が奏でる『死んだ音』を生き返らせようとした、荒療治の為の、狂言であった。彼もまた、寿のヴァイオリンを燃やした『熱狂的なファン』と紙一重の存在だったのだ。
 ロキは彼を冷めた視線で見下ろした。
『おのれの為』ではなく『誰かの為』になにかをするのはとても気高い行為であるとされてはいるけれど――目の前の存在のそれは、果たして『気高い行為』と万人が賞賛するだろうか。
 ロキには他人の意見などわからなかったが、ロキにとって彼はこの上もなく醜悪で、それでいて純粋に見えてならなかった。『純粋』も、突き詰めれば害悪だと知りながら。
「そんな自分勝手な行為がなにを引き起こしたのかわかっているの、あんたは。寿さんは完全に息の根を止められてしまったよ」
 ――ヴァイオリニストとしての魂と誇りを、完全に殺された。
 一度でも水に沈みこんでしまえば腐り果てるしかない葉はその運命から逃れられない。
 寿の目には、もはや生気のひとかけらもなかった。

   * * *

「水色の服とかつらと女物の靴を用意して女装して、わざとホテルの従業員に出て行く姿を見せたって、ねぇ? 背格好も似てるから、大き目のコートでも羽織っちまえば性別なんかわかんねぇわな。ご丁寧なこった」
 新山警部はがしがしと首の後ろを掻きながらごちた。
「まったく、小僧っ子に『口出ししたら即退室どころか未来永劫探偵社に出入り禁止』って言われてなきゃぁ口も出せたのに、歯がゆかったぜ、アレは」
 中身がどうでも見た目はただの子供であるロキの推理力に頼る気などさらさらないが気まぐれにここを訪ねるのは面白いし、なによりも美味い飯と茶にありつける場所をみすみす失う気にはなれなかった新山警部であった。
 彼の思考に気がついていながらも、ロキは肩をすくめるだけにとどめた。『警部』のツテを失うのはロキにとっても少なからず痛手になることもあるのだから。今回のような場合は特に状況がもう少し進んでいれば、独力では警察に先んじてタダユキの身柄をおさえられはしなかっただろう。
「仕方ないでしょ、ますみちゃん。はっきりした決め手はまったくなかったんだし、プレッシャーかけて自供を誘導するのが手っ取り早かったんだ。……そもそも、盗難事件の方にはあんまり興味なかったんだし」
「タダユキさん、本当に最初からうららさんに濡れ衣を着せるつもりだったのかな?」
「いやぁ、とっさに思いついたんだろうけどなぁ。でなきゃ、クロロフォルム嗅がされたーって大嘘つくはずがない。億のシロモノ盗むにはあんまりにもお粗末過ぎる発言だ、クロロフォルムなんざ今までお目にかかったことないんだろうよ。それに、そのねぇさんが今どこにどんな状態でいるかも調べてからスケープゴートにするはずだろう? 前日にコンサートの関係者が頻繁に出入りしてたから若槻 寿レベルの音楽家だと勘違いしたらまさか記憶喪失のねぇさんで、翌日には小僧っ子のところの預かりになっているって思いもよらなかっただろうし。本人さんも、あの日ホテルにねぇさんが泊まっていると思ってたらしいしな」
 まゆらの素朴な疑問に答えを返しながらも、新山警部はタダユキのずさんな計画にある意味同情しそうになった。それだけ穴だらけであったし、それだけ発作的な犯行なのだとも言えた。魔がさす、とはこのことなのだろうと新山警部は頭を掻きながらしめくくった。
「寿さん、ずっとあのままなのかなぁ」
 まゆらは、うららに支えられてこの部屋へと入ってきた寿の虚ろな目を思い出してふるりと身震いした。およそ生きている人間がつくれるとは思えないほどに空虚な黒い目だった。覗き込めばそこにとらわれてしまいそうな恐ろしさに、まゆらは一瞬呼吸すらも忘れてしまった。
「……燃やされたヴァイオリンとともにヴァイオリニストとしての魂は死に、今回の事件で『ヒト』としての魂が壊されたんだ。ヴァイオリニストとしての彼女を支えていたタダユキさんの行為は彼女の為を想ってのものだったとしても、誇り高い彼女には許せるはずがないだろうね。ヴァイオリンへの愛情とヴァイオリニストとしての誇りが彼女自身を壊したんだ、元に戻せるかなんて誰にも答えられない」
 奏者の才能とは天性のものに加え、深い感受性、表現性、絶え間ぬ努力を、細い指と精神力の先に微妙なバランスでのせたもの。そのバランスが崩れた彼女が簡単に立ち直れるのなら、逆にヴァイオリンに向けた想いはそれほど深いモノではなかったのじゃないかな。
 ロキは、ある意味冷たくとれる口調で言い捨てるが――そこには、おのれ自身をも壊すほどにひとつのものを愛し、誇りを持っていた寿へのかすかな尊敬の念も入っているのではないかとまゆらは感じ取った。不思議だった。
「ロキ君、タダユキさんがした『取り返しのつかないこと』って……寿さんをあんなにしたこと?」
 なんの裏もないまゆらの質問に、ロキは――遠くを見る目を窓の外へと向けて
「ボクの身内を巻き込んだことだよ」
 ぽつりと呟いた。
 新山警部とまゆらはわけがわからずに、揃って疑問符を飛ばすしかなかった。



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ミステリ門外漢の素人二次創作ですので、このあたりでご容赦を(笑)。