キミの中に融ける夜 

【 6 】






 タダユキを警察署に連行した山田刑事から『サセルノ発見』の連絡を受けた新山警部が帰り、まゆらも帰宅すると、燕雀探偵社はいつもの静寂を取り戻す。
『サセルノ盗難事件』の謎解きとも言えない謎解きが終わったのはまだ朝もはやい時間帯で、庭へと出れば三月の午前の光が白く木々の葉に降りそそいでいた。
 広い庭の緑を心地よく眺める為に闇野が雑貨店の軒先でひと目惚れして購入した小さなベンチの上にも、太陽の恵みは等しく落ちている。
 ロキはそのベンチに、ふんわりとしたシルエットの花柄のスカートをゆったりと広げて座る探し人を見つけた。
 おのれよりもななつほども年上に見える女性に選ぶにしては可愛らしい生地とシルエットのスカートを探し出してきたまゆらであったが、なかなかに彼女の見立ては正しかったらしい。淡い花柄の薄い生地のスカートは、聖波ホールの白い広場で背広の男たちが作る群れの中に立っていた心細げな彼女の印象を柔らかいものにしていた。
 彼女はベンチに腰かけて庭の緑をぼんやりと眺めていた。鳥の一羽でも膝の上に乗っていれば一幅の絵にでもなるのではないかと思えるほどに見事な春の構図であったが、人懐こいはずの燕雀探偵社に巣食う鳥たちは遠巻きにして身をちぢこませ彼女を見つめているだけであった。彼女を恐れでもしているかのように。
「うらら」
 声をかけられてはじめてそこにロキがいるのだと気がついた様子で、うららはゆっくりと視線を転じる。まるでその様子は、先の寿が乗り移ったみたいで。
 ざわり、と春のあたたかさを含んだ風が木々を揺らし、うららの黒髪を揺らして通り過ぎた。
「ヒトは忘却の生き物と言われているけれど、さすがのボクだってすべてを覚えているわけではないんだよ」
 なにせ、ボクの時間は恐ろしく長くて。関わった者たちも多くて。そして、過去を顧みない刹那的で薄情な生き方が身上だったから――小さな小さな存在までも掬い上げるような博愛的な覚え方はできない。
 ふたりの間に、もうひとつ風が吹いた。
 知っています、とうららが小さく呟いた。
「ボクにとって、覚えているだけの価値があったのは、オーディンや幾人かの神々や――子供たちくらいで」
「その子供たちにしたって、気まぐれにしか構わなかったのだと気がついていました。あの子はそれでも嬉しそうだったけど」
「そう、ヘルは嬉しそうだった。彼女ははやくにニブルヘムに出されたから、他の子たちよりも一緒に生活した期間は短かったけど」
「子供たちをアングルボダ様の祖母君に預けっぱなしで、気まぐれにいらしては気まぐれに構ってらっしゃいました。それでも、ヘルは嬉しかったんです。いつの日か、鳥の卵を拾われましたね。ヘルとふたりで屋敷に持ち帰って孵化させた。その時ばかりは一度も他所へ行かず、ずっと子供たちのもとに留まっていらした。まるで親鳥のように」
「黒い目をした、薄い空に溶け込むほどの青い羽の鳥。その鳥にあの子は『春』の名をつけた」
 もう二度と見られないのだとヘルは知っていた、うららかな春を望む名を。
「あたしはあの子が大好きでした。名前を付けてくれた。優しく呼んでくれた。優しく手を伸べてくれた。優しく撫でてくれた。優しい、優しいあの子が大好きでした。ずっと一緒にいたかったの。彼女が赴く場所に『生』も『春』もないのだと知っていても」
 神々をして『大いなる災い』『三匹のモンスター』と言わしめたロキの子供たち。
『闇と死を統べる大役』を与えるとは名ばかりで、神々が彼女をニブルヘムへと追いやったのは――彼らにとって彼女の存在が恐ろしかったから。彼女の内に、春を望み雛鳥を慈しむ優しさがあると知りもせず。
 そうとは知りながらもその申し出をロキが受け入れたのは、すべて彼女の為だった。
 ヘルは半身が腐っていた為に、神の世においても命を永らえるのは難しかった。ニブルヘムでなら、死に近い彼女の肉体は保たれるから。
「ボクは、鷹になってあの寂しい参列を見送った。その時、青い翼の鳥が同じように追いかけているのに気がついていた。そして、その鳥が、アースガルドとニブルヘムの境界線で――墜落したのにも――気がついていた」
 生まれ落ちて間もない未熟な翼でそこまで飛んだのは、ただひとつの感情のなせる業。強い思慕。か弱い翼は最後には血に濡れ、満足に風を掴まえることすらできなかったのに、執念と言えるほどの強い想いひとつでロキの先さえも行こうとした小鳥。
「ヤミノ君がどこかで会ったことがある気がすると言っていたけれど、会っていたどころじゃないんだ。ボクたちは――確かに家族だったのに」
 あぁ、とロキはため息にも似た息を吐き出して目を閉じる。
 今ならわかる。うららを預かることになったチャリティ・コンサートのあった日に見た夢。それは、彼女との再会の予感だったのだ。
 まだ雪深い季節の夜の森にまっすぐに落ちて行く青い鳥。きっと彼女は冷たい雪に抱かれてしまっただろう。その記憶があの時はまだ『今の彼女』に出会っていなかったので、予感は少しだけ形をかえ、まゆらの姿をとってロキの元へと訪れたのだ。
 死んだ音を奏で続ける寿のヴァイオリンがふたりの中から導き出したのは、そんな悲しい記憶と事実。
 この世界はこんなにも春の訪れに心を躍らせているのに。神代から彷徨い続けていたうららはすでに死んでいて、ロキもまたその死を認めてしまった。庭の鳥たちが同胞に近寄らないのは、濃い死の匂いに怯えている為。
『傷ついた鳥にヘルは似ている』――それは、うららの存在から関連付けられた印象であったのだとようやくわかった。
「ロキ様、お願いします。あたしはあの子に会いたい。あの子の元で春の歌を歌えなくても、あの子が春の声で名前を呼んでくれなくても――あたしは永遠にヘルのもの」
「ヘルがキミをニブルヘムに連れて行かなかったのは、キミの命を惜しんだから。鳥が鳥であるように願っていたから」
 ボクがヘルにしたことを、あの子もまたキミにしていたのに。ボクたちは……圧倒的に言葉が足りない。後悔しても今更だけれども。
 それでもうららは首を振り、ひたとロキの目をとらえて願う。
「あの日からあたしは地上を彷徨い続けた。地獄と煉獄を行くダンテの導き手ヴェルギリウスに等しい存在にようやく巡り合えたのに、望み続けた場所に行けないのなら、望み続けた人に会えないのなら、それこそ、煉獄の炎で焼かれ続けているようなもの」
 うららはロキにしがみつく。妙齢の女性が子供の胸にしがみついてもおかしなだけであったが、その光景はなぜかしらその場に相応しいものに思えて。
 うららはぎゅうとロキの服を握りしめる。その手をぎりりとした視線で見つめている彼女の目からは、涙が次から次へと流れ落ちた。うららは頬をすべる涙をぬぐおうともしない。
 そんなささいなものに構う余裕があるくらいなら、この胸の中にある想いを目の前の存在にぶつける方を――選ぶ。
「会いたい……会いたいんです、ヘルに! お願い、ロキ様っ、あの子に会わせてッ。気が狂うほどの時間をひとりで彷徨ったのがあの子に会う為の代償でないのならなになのですか! あたしの望みはいつでもちっぽけなのに、叶えてはいけないものなのですか?!」
 会いたいだけ。会いたいだけなの。それ以上はなにも望んでいないのに――……おのれの命にすら構いやしないのに。
「言葉は無力です……あなたとあたしがわかりあえないのなら、言葉などに力はない。涙にも力はない。願いも抱き続けるだけ無意味です。どうしてあたしはあなたではないのでしょう。あたしがあなたなら、あなたがあたしなら、この心がわかるはずなのに……ッ」
「……うらら」
 なんと答えるのが正解なのか、うららの熱に溶かされた頭で考えられるわけがない。

 まるで、ボクの心のような、叫びと願い。
 心臓に直接打ち込まれる楔に似た慟哭。
 もうどちらの願いなのかわからないほどに境界線は崩れて消えて、キミの願いはボクの願いに。
 気持ちを言葉にできるだけ彼女はなにものにも捕らわれず自由でうらやましい。
 この身が彼女をうらやんではいけないのだと知りつつも、そう思うのをやめられない。

 耳を澄ませば吹き渡る風の中にも春の歌は聞こえそうなのに、どうしてここはこんなにも冷たいのだろう。
 幼い子供の頭を撫でるようにうららの頭を撫でる。
 手の平に感じる髪のなめらかさも腕にかかる重みも生きている者のそれなのに、偽りよりも嘘っぽく、まぼろしよりもはかない。
 ロキはあたたかな日差しの中で、瞼裏の闇を見つめた。


禁忌は。
 どこにあるのだろう。


   * * *

「わぁまずいっわすれものわすれものっ」
 やーんどこいったのぉたんていてちょうーっ。
 書斎の扉をのろりと押し開ければ、しんと静まり返っているはずの室内に明るい声が弾けていた。その声は半分泣きが入った声だったが、冷たい気配などかけらも感じさせない、生き生きとした声であった。
 とっくに帰ったと思っていただけに、その明るい声はロキにとっては不意打ちで。
 クッションをどけ、ソファの下を覗き込み、ラグマットの下に器用に入り込んでいた若草色の表紙の手帳を発見したまゆらはぴょこぴょこと飛び跳ねている。
「……まゆら」
 わ、やばっ! と思っているのだとすぐにばれる表情のままあわあわとしているまゆらの存在はまぼろしか、または願望ではないのだろうか。
 ロキはゆっくりと近寄っていき、すぐ目の前でぴたりととまった。視線は、くるくるとかわるまゆらの顔の上。
 触れてみればまぼろしでも願望でもないとわかるのだろうか。それを今してもいいのだろうか。彼女がそれを許してくれるのなら――いいのだろうか。
「わ、な、なに、ろきくん?!」
 せっかくあげた手帳なのに忘れていっちゃうとは結構薄情だね、程度の嫌味の一言を頂戴してもおかしくない場面であるのに、ロキは無表情でまゆらを見上げるばかりで。
 なにも言わない彼にどぎまぎしてしまうのに、
「甘えてもいい?」
 こそり、とこぼされた言葉の意味が一瞬わからなくてまゆらは思考をとめた。
 じっと見つめ返してしまったロキの深い緑色の目の中にはなにもなくて――彼が抱え込んだ深い闇を見ているようでほんの少しだけ怖くなったけれど。
「……それって、許可がいるものなの?」
 思わず問い返してしまった。
「無断でした方が良かったの?」
 無表情で言い返されたら冗談にもならないけれど、弱々しい混ぜっ返しが逆にまゆらにとっては不安で。
 どうしたのかな? と疑問をのぼらせるよりも先に
「どーんと甘えちゃってよ、ロキ君!」
 ロキの言葉の意味がわかっているのかいないのか、まゆらは無邪気に許可の言葉を口にしていた。
 許可を求めた本人ではあったが、彼女はとことんと危機察知能力に疎すぎると思わないでもないロキであった。
「……まゆらってさぁ……デリカシーとかって言葉、知らないの?」
 雰囲気にあわせるとかって言葉もついでに。
 と言いつつもロキはおもむろに両手をあげて
「では遠慮なく」
 まゆらへと抱きついた。身長差のせいで、まゆらの腰にしか抱きつけないけれど。
「えっわっ。うひゃぁ?!」
 唐突なロキの『甘え』と腹部に感じるくすぐったさに思わず声をあげてしまった。『甘える』とはもっと違う意味合いだと思っていただけに、ロキの行為は心臓に悪すぎた。
 けれども。
「……ロキ君?」
 顔を押し付けるようにして抱きついたまま固まってしまった彼の肩が、あんまりにも細く感じられて。本当に、なにかあったのかな……と心配になってしまうのは、なんともまゆららしい反応であった。
「ヤミノ君がねぇ、ボクは身内にはとことん甘いって言うんだ。生クリームに規定量の三倍砂糖を放り込んだよりも甘いって」
「……生クリームに砂糖多目にいれたらかたくなっちゃうんだけど」
 ほんとーにデリカシーがない、との意味合いを込めたため息が腹部に押し込まれてまゆらは思わず『うひゃっ』と声をあげそうになったが必死に堪えた。さすがにロキが言う『雰囲気にあわせる』の意味がわからなくもないからだ。今この雰囲気で変な声をあげるのは駄目だろう。彼が、なにか、滅多にしない、底が知れないほど深い弱みを曝け出そうとしている、今この時には。
 ロキはと言えば、ある意味、まゆらにこんな愚痴をこぼしていることからしてみっともないともわかっていた。相手にまゆらを選択してしまったのも大いなる誤算ではないだろうかとちらりと考えてしまったけれども、途中でやめるには抱えたものはあまりにも大きすぎて。押し潰されそうな気分は本物なのだから。
 抱きしめている身体があたたかくて、不覚にも泣きそうになる。
「それなのにボクは、身内を傷つけてばかり。そんな自覚がないだけタチが悪くて。でも……どうして誰もボクを恨まないのかな」
 最後の言葉はささやきに似ていて、心底の疑問の色をまとっていた。
「んー、ロキ君ってやっぱり根本的に甘いと思うけどな」
 人の話をまったく聞いてないや、と顔をあげれば。
 そこには、優しい目でロキを見下ろしているまゆらが。まるで、母親のような、顔。
「だって、身内じゃないわたしにだってさり気なく優しいでしょ。ちゃんと知ってるもの」
 そうだろうか。優しいだろうか。救えたはずの者を救おうとせず、こんなにも傷つけてばかりなのに。傷つけたことにすら気付かない鈍感なおのれは誰よりも罪深いのかもしれないのに。
 それでもいつの日か彼女たちに――許してもらえるだろうか。
 答えは誰にもわからない。
 ロキはかすかな答えを求めるように、まゆらに甘える腕に力を込めた。
 手の中で徐々に冷たくなっていった小鳥の感触を消し去る為にも。

   * * *

 広い庭の一角で花を摘んでいる少女がいる。ふわふわした髪に大きなリボンをつけた、小学生の女の子――大島玲也だ。
 彼女の手には、あわい色の薄い花弁を幾重にも重ねて丸いボールのように咲き開いたラナンキュラス。
 十人が見れば十人とも「お人形みたいに可愛い子」と表現する玲也が花を摘む光景は微笑ましいものだが、彼女の顔はほんの少しばかり曇っていた。
 数日前、とても悲しい夢を見た。
 大好きな探偵が、涙もなく泣いている夜の夢。彼がまとう黒衣ごと夜の闇に融けてしまいそうで、なんとも恐ろしかった。その『夜』は彼を覆う世界ではなくて、彼の中にこそあるものであったから――振り払っても振り払っても逃げられはしない。
 彼女が見る夢は、望むと望まざると『予知夢』の性質を持つことが多い。その事実に気付くともなく気付いている彼女にとって、そんな夢は嘘でもみたくないもので。
 玲也はその日の朝、いても立ってもいられず、咲き始めたラナンキュラスで花束を作って探偵社までやって来たのだが――いざ通い慣れた屋敷の前へ辿り着いた時には、どうにもロキの顔を見るのが怖くなり。花束を玄関前に置き、呼び鈴を鳴らして逃げてしまったのだ。
 ロキの悲しい顔も、辛い顔も、苦しそうな顔も見たくない。どうしていいのかわからないくらいに胸が痛くなるから。
 ラナンキュラスの花言葉は――『あなたは魅力に溢れている』『光輝』
 その花言葉のように、あなたは魅力と光に溢れているのだと伝えたいのに、どうしていいのかわからない。
 千の万の言葉を尽くせばいいのだろうか。それとも、千回万回の行動に出ればいいのだろうか。
 けれども、向ける正しい言葉はわからず、起こすべき正しい行動もわからない。
 ひとつ間違えばそれが彼へのとどめとなりそうで、そう考えるとなにもできなくて、同じ場所に立ち尽くすしかできなかった。
『まだなにもできない『子供』だから』
 そんな言葉に逃げたくはないのに、なにもできない自分の小ささが悲しくて、夢にすら怯える自分が情けなくて、玲也はこっそりと涙をぬぐった。

 いつか優しさは届くだろうか。
 彼の中に融ける夜をかき消すほどのあたたかさとともに。



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幾つ目かの過去捏造話でした。