勇気の証 








 三月も最終日に近づいてくると、風の中に春の香りが強くまぎれ、陽射しの中にも春のあたたかさが強く感じられるものだ。
 春休みの一日であるのに、大島玲也は学校の友達と待ち合わせするでもなく、ひとり公園のベンチに腰かけていた。
 嫌な嫌な夢を見てからもう数日が経っているのに、いまだに玲也はロキの顔を見ていなかった。
 毎日毎日燕雀探偵社の近くまで行くものの寸前の角で立ち止まり、まごまごとするでもなく充分な時間を立ち尽くしてから、肩を落としてこの公園へと足を向けて居ついてしまうのだ。もう何度こうしてこのベンチに座っているのか、玲也自身もわからなくなっているほどであった。
 せっかくの春休みであるのに大好きな探偵社に顔を出さない日がくるなどと信じられなかった玲也だったが、自分の気持ちであるのにどうにも御しがたく困惑し通しなのだから、無理矢理にもいろいろなことを理解しろとは誰も言えないだろう。なにせ、彼女はまだ子供なのだから。
 だからと言って、日がな一日ぼぅっとベンチに座っているのも苦しいだけなので、玲也は小さな便箋で手紙を書くことにした。それは、ロキへと話したい内容を書き綴ったもの。
 おっとりゆったりとした話口調と同じに、彼女が書き綴る文章もおっとりゆったりしたものでなんとも微笑ましい限りだが、それらは投函されはしない。恋する乙女はなにかと複雑で繊細なのだ。
 と言っても、やはり投函しもしない手紙を書いているよりも本人に会いたいし、本人に会いたいけれど勇気もないしの矛盾した感情のただ中では、ペンが進むわけもなく。
 なかなか進まないペンを止めて玲也が年に似合わないため息をふぅとついた時、
「ため息つくと幸せが逃げるのだぞぃ」
 ふいに声をかけられて、玲也は隣を振り仰いだ。
 そこには、現代から大いにずれた絢爛豪華な盛装に身を包んだ若い男が立っていた。
「怪盗さん」
 まゆらが『怪盗さん怪盗さん』と連呼するので、一時世間を騒がせた『怪盗フレイ』であるとわかっていても、『怪盗さん』と呼んでしまう玲也であった。
 怪盗さんと呼ばれたフレイもまゆらに言われ慣れているのか――それはそれで某探偵あたりが知れば複雑な心境になるであろう『言われ慣れ』であったが――特に訂正するでもなく、それよりもその大きな図体に似合わずちょこりと同じベンチに腰かけた。
 その手には、茶色い紙袋にぎっしりと入った、個別包装の櫻餅。プラスチックの容器の中で、つやつやふわふわした櫻色にやわらかな緑色のマントをまとって、フレイと同じようにちょこりと座っていた。
 思いっきり『怪しい人』どころか警察に追われている犯罪者だとわかっていながらも、櫻餅を手にふくふくと笑っている彼を目にしては、警戒心のスイッチの入りが悪くて仕方がない。それは、玲也が他人よりもおっとりしているからではなく、フレイが持つ独特な雰囲気の為だろう。
「怪盗さんはこのあたりに住んでるですか?」
「住んでるのはあっちの方だが、ここの櫻餅は甘さ控えめのこしあんとあまじょっぱい塩漬けの葉っぱの取り合わせが絶品なのだ。フレイが住んでる近くにはこれほど好みの櫻餅はない。じゃなきゃ、ロキの家の近くくんだりまで来ないのだ」
 フレイは玲也に悟られないように苦々しい感情を噛み潰した。
 運命の日である三月十四日、大和撫子の父上に結婚のご報告に上がる準備をしている時に急にロキがあらわれたかと思うと数々の精神的狼藉三昧。
 立ち直るのにこんなにもかかってしまった、とフレイは悔しく考えるが、向こう一ヶ月足腰立たないようにしたつもりのロキからすると驚異の回復力である。――いや、単にフレイが鈍感なだけかもしれない。
『ホワイト・デーを逃してしまったのでまた来年』と勘違いして『結婚のご報告』を先延ばしにしたフレイであったので、当初のロキの目的はからくも果たされているところがお笑い種である。もはやフレイの勘違いを訂正する気力もなく、完全外野の視線でフレイを眺めている同居人ヘイムダルのせいでもある。
「怪盗さんはロキ様のお知り合いですか?」
 玲也の問いに答えるよりも先に、つやつやと光る櫻餅を彼女にすすめるフレイは本当に『犯罪者』らしくない。近所の優しいお兄さんに過ぎなかった。
「ロキとフレイは探偵と怪盗だからライバルなのだぞぃ」
 玲也は上手な断りの言葉をさがせなくて、仕方なくひとつ頂戴した。小さなプラスチック容器におさまった櫻餅の、櫻色と緑の対比が春らしくて美しい。櫻餅を作り出した人はきっととても優しい人なのだろう、と思わずにはいられない玲也であった。
「お嬢ちゃんはまゆらちゃんのお友達なのだろう? 一緒にいるのを見たことあるのだ」
 まゆらちゃんのお友達はフレイのお友達なのだ、と根拠のない根拠のもとにフレイは胸を張る。その根拠のなさが少しばかりおかしい玲也であった。
「それだと、まゆらさんのお友達のロキ様も、怪盗さんのお友達です」
 燕雀探偵社の書斎で
『探偵と怪盗は戦う運命にあるの! 時には知力を絞り、時には肉弾戦で! 血湧き肉踊るわぁうふふふふふぅ』
 常々力説しているまゆらを見ているだけに、非常におかしい。
「ライバルと言うお友達なのだ」
 うむ、とフレイがひとつめの櫻餅を大切そうにもぐもぐと咀嚼しながら自分の発言に相槌を打っている。玲也は彼のその仕草がおかしくて、声をあげて笑った。大きな男の人なのに、言動がなにやら大人臭くなくて良い。
「お嬢ちゃんは笑ってる方が可愛いのだ」
 にこにこ にこにこ。フレイの手放しの笑顔に、玲也ははっと気がつかされる。先の感想を訂正。やっぱりこの人は自分より大人だ。
 手にした櫻餅を口にしてみれば、フレイの言葉通り、甘さ控えめのこしあんだった。なんだか、そのじんわりとした甘さが心地よい。あたたかな春を食べているみたいだった。
 豊穣神とは、芽吹きの春を司る神でもある。フレイの大らかさは、春が持つあたたかさなのだろう。
 玲也は、ふと尋ねてみたくなった。
「玲也、勇気がなくなっちゃったんです」
「勇気が?」
「そうです」
「勇気ってなくなるものなのか?」
 ヘイムダルあたりが聞けば頭を抱えるだろう言葉を平気で口にする大らかさもフレイの持ち味だ。それでも、その言葉も『大人の余裕』だと勘違いするところが素直な玲也らしいところなのか、それとも、こちらも豊穣神である為なのか。
「勇気ってなくなるものなんだって、玲也もはじめて知ったです。大好きな人が辛そうな顔をしてる夢をみたってだけで、怖くなっちゃったです。玲也はなんにもできないんだなぁって考えたら、胸が痛くて苦しくて泣きたくなるです」
 とっても心配だからとっても会いたいですけど、怖くて情けなくてできないんです。こんなところでうじうじしてるです。
 フレイは、心底不思議そうに首をかしげた。
「勇気ってなくなるものじゃないのだぞぃ。ちゃんとここにあって、けっしてなくならないものだ。勇気がなくなる時は『死んだ時』しかない。それにお嬢ちゃんはなんにもできないなんてこと、ないぞ。その手紙、その『大好きな人』宛なのだろう? ちゃんと考えて、なにかしたいと思ってるじゃないか。あとは、それを届ける勇気が満タンになるのを待つだけだぞぃ」
「勇気って、満タンになるまで待ってもいいんですか?」
 こんなちっちゃい、自己満足しかできていないのに、それでもいいんですか? 逃げてもいいのですか??
「勇気があるだけでなんでもできるわけじゃないぞぃ。それは無謀とか無鉄砲と似ているのだ。勇気は大切に育ててやるもの」
 そうなのかな。そうだといいな。
 玲也はなにやらこそばゆくて、頬がほころぶのを止められなかった。
自分の小ささを認めてもらえるのがこんなにも心地よいとは知らなかった。小さくても良いのだ、虚勢を張って大きい人を気取るよりかは、よっぽど。時間をかけても良いのだ、突っ走って想いを押し付けるよりかは、よっぽど。
 フレイはもうみっつめの櫻餅を取り出しながら、にこにことしている。一秒ごとに強くなる春の気配に頬が緩む。春を具現したような少女が春の笑顔を取り戻せば、豊穣の神としてはご機嫌も最高潮だ。
「お嬢ちゃんの勇気、そろそろ満タンになりそうだな」
「はいっ」
 玲也はベンチからぴょこりと立ち上がり、ぺこりとフレイにお辞儀して、ぱたぱたと公園の出口へと向けて走っていった。途中で一度だけ振り返れば、フレイはよっつめの櫻餅をほおばっているところ。
 なんだか、『怪盗さん』って、悪い人と言うより『お兄さん』みたいな人だったな。
 玲也はくすくす笑いながら、足取りも軽く道を行く。あともう少しで、何度も立ち止まった曲がり角が。
 その曲がり角も軽やかに駆け抜けて、玲也は探偵社へと辿り着く。
 ほんの数日離れていただけなのに、やけに懐かしい気がした。

   * * *

 いつつめの櫻餅を手に、フレイは晴れ晴れとした空を見上げた。
「一日一善の良い子のフレイさんなのだ。天は良い子にいつかご褒美をくれるのだぞぃ」
 天もなにも自身が『神様』のひとりであるのだとの事実をすっかりと忘れやっているフレイはのんきに『妹のフレイヤちゃんを探し出せる日も近いのだ』とひとりで勝手に納得していたが――彼は知らない、今まさにそのフレイヤと話をしていたのだと。
 春の季節の中でまみえた兄妹は、そうしてまたもやすれ違う。




豊穣神兄のお悩み相談室でした。