鮮麗なる月佳人 

【 前編 】






「わたし、名前だけは知ってる! この劇団のチケットなかなか手に入らないって評判で、プラチナ・チケット状態なんだよ!」
 春の光が降りそそぐ燕雀探偵社の書斎兼応接室に明るい声が弾けた。平日も日曜も関係なく探偵社に入り浸っている、おしかけ探偵助手の女子高生・大堂寺まゆらの声だ。
 春休み真っ只中であるのでいつものセーラー服ではなく私服姿の彼女が手にしているチケットは、小さな演劇団のチケットであった。劇団名は独特なフォントで『爆裂☆コロンブス』と印字されている。
 たかが薄っぺらいチケット一枚であるのに、まゆらはそれが一億円の当選宝くじか完全無敵な『願いが叶うお札』でもあるかのように恭しく両手でかかげ持っていた。巷では本当に『プラチナ・チケット』と呼ばれているのだろう。
「闇野さん、よく二枚もチケットがとれましたね! 友達がここの大ファンで、チケットとるのが難しいっていつもぼやいてるんですよ!」
「そうなんですか? 座長のミヤケさんがいつでも観に来ていいって言って下さるんで、チケットを正式に融通してもらうのははじめてだったんですけど」
「ヤミノ君……キミの交友関係ってどうなってんの」
 もう一枚のチケットを目の前に掲げながらロキがぼやくが、
「出不精のロキ様には永遠のナゾナゾです」
 闇野はさらりと言ってのけた。意味深な笑みまでおまけについていて、ロキは生ぬるく笑うしかない。それはそれは永遠にボクにはわかるはずがないだろう、そんな色が多分に含まれていた。なにせ、筋金入りの出不精なのだから。
 チケットを半眼で眺めやりながら、ロキは劇のサブタイトルを読み上げる。
「痛感ピカレスクシリアス群像劇?」
 なんのこっちゃいなと首を捻りたくなるサブタイトルであるが、小さなサブタイトルの下に仰々しくデザインされたメインタイトルは『Z』の一文字であった。
「ゼット??」
「ギリシャ読みなら『ゼータ』だな。それとも、アルファベットの最後の文字ってところに引っ掛けでもある?」
 メインタイトルからも、どんな劇なのかさっぱりとわからない。ある意味非常に興味をそそるチケットだ。
「シリアスと言うからにはシリアスものなんだろうけれど、痛感ピカレスクってなんだ??」
「ミヤケさんが脚本もされているのですけど、難解で高尚で、それでいて問答無用で面白いんですっ。熱烈オススメですので、是非おふたりで行って下さいね!」
『しかもこの『Z』は私もまだ観ていない新作なんですよ!』
 と力説しつつ、なんだか気乗りなさげなロキの手からチケットを抜き取ると、闇野はそのまままゆらにそれを預けた。
 これでロキの退路は絶てたと闇野は満足げに笑い、ロキは彼の笑顔を恨みがましい視線で見上げ、まゆらは無理矢理預けられた二枚のチケットを手にきょとんとした。

   * * *

 当日訪れたその劇場は、百人も観客が入れば身動きも取れないような小さな劇場だった。この街に乱立する小・中劇団で、演劇通で知らぬ者はいないほどに有名な『劇団☆コロンブス』――その観覧権が手に入る万が一の奇蹟にかけて、劇場近くにはファンが何人も立ち続けていたくらいである。新作の初日であるのだから当然の状況かもしれないが、そればかりとは言えない妙な熱気もある。それくらいに、その劇団は隠れた有名劇団であった。
 あっと言う間に駆け抜けた劇が終わってみれば、たった一文字のメインタイトルや、メインタイトル以上に長いサブタイトルの意味もふたりには納得ができていた。
 それ以前に、闇野が熱烈にお勧めした意味もわかってしまった。
 ただ観ているだけであるはずなのに劇が終わればぐったりとしてしまったふたりは、近くのカフェでくつろぐことになる。
 と言うか、ロキにいたってはテーブルにへばりついているありさまであった。だがそれは、単なる疲労の為だけではなく――腸捻転でも起こしているのではないかと心配になるほどに痛む腹筋の為であった。
「アレがヤミノくんおすすめ……なんで、アンナノが……」
 劇の内容を思い出すたびに、闇野の顔がちらついて困る。そしてまた笑いの発作におぼれてしまうのだ。笑いを噛み殺しきれない肩は明日筋肉痛になっているのではないか、はたまた今にも脱臼するのではないかと本気で心配になってくる。
 本当に、真面目な探偵秘書である闇野がこんなところに『いつでも来てよい』と言われるほどの関わりを持つきっかけがあったのが信じられないロキであった。げに人の輪とは不可解で恐ろしくて突拍子もない。
「そ……そうよねぇっ。アレを闇野さんが観てるって考えたらおかしくておかしくてっ!」
 まゆらの腹もねじれきっているのだろう、見事に呂律がまわっていなかった。
 脚本も見事であったが、ふたりの笑いがまだ止まらないほどに『コメディもの』であるのに『シリアス』とサブタイトルにいけしゃぁしゃぁと入れている開き直りぶりも豪胆で面白い。シリアスが看板倒れかと問われれば『シリアスでもあったけれど……』と答えるしかない複雑怪奇さも面白い。もちろん、役者のレベルも脚本に釣り合った高レベルなもの。
「それにしても闇野さん、『難解で高尚』だって言ってたから、こんなだと思わなかったっ」
 ものすごーく難しいお話だと思ってたのにそんなことなかったから良かったぁ、と安堵するまゆらに、
「いや、充分に難解で高尚だったよ」
 幾分か息が戻ってきたロキが説明する。ところどころに散りばめられた歴史や宗教雑学の意味がわかる人にはとても面白く、わからない人でもそれはそれで意味がきちんとわかるように書かれた脚本は、ロキをして唸らせるほど。闇野の言葉通り、座長であり脚本家である人物はロキと話が合いそうであった。
 久々に気分が晴れたロキは、
『ヤミノ君に心配かけさせちゃったんだなぁ』
 すっきりとした頭でしみじみと考えていた。そうでなければ、闇野が無理をして、入手困難なチケットをまゆらに押し付けるはずがないではないか。
「うらら、記憶が戻ってね。どうしても会いたい人がいるからって飛び出して行ったよ」
 そんな言葉で彼が納得したとは思い難いのに、
「礼儀正しいうららさんが挨拶もなしに飛び出して行くほどに大切な人がいたんですねぇ。良かったです」
 闇野はにこりと笑っただけだった。
 急に姿を消したうららのことを闇野も心配していないはずがないのに。
 ――息子に気を使わせるなんて、ダメな父親だなぁ。あたたかくなってきたし、これからは意識して外にでもでるようにしようかな。
 珍しく反省し、前向きな考えをする出不精な父親であった。

   * * *

 ほんの数ヶ月前までは、雪が降り寒風吹きすさぶ冬であったのだと信じられないほどにぽかぽかとした陽射しが北欧の豊穣神の上に降りそそいでいた。豪奢なマントに春の光が降りそそぐ様は、ある意味神々しいほどである。
 豊穣神は芽吹きの春を司る神であるので、その陽射しはなんとも心地が良く、身体の奥から力が湧いてくる心地すらあった。生命が本来持つ力へと目覚める春本番が待ち遠しい、日本の春はどんな景色を見せてくれるのだろうかと考えるだけでワクワクする。
 だが、あたたかな春を恨み、雨のかわりに雪が降る冬を心底懐かしむ人物がいた。虹の橋の門番ヘイムダルである。
「なんなのだヘム、折角こんなにも気持ちがいい午後なのに」
 公園のベンチで先からなにやら手にしたものをこちゃこちゃといじくりまわしていたフレイが、仏頂面のヘイムダルへとぶつぶつと小言をたれる。だが、第三者がそこにいればフレイの気持ちもわからないでもないだろう。なぜならヘイムダルは、顔の半分を覆うほどに大きなマスクをし、さわやかに吹き渡る風に悪態をついていたからだ。
「春なんかはやく過ぎちまえ! 杉なんか燃してやる! 日本脱出したい! 杉植林計画企画した責任者出てこい!」
 ……昨今の日本人であれば大部分の者がねじの振り切れたあかべこ人形よろしく首を縦に振って賛同するであろう、立派な花粉症患者の本音であった。
 前髪を不自然に伸ばして顔の右半分を隠しているので、最終的に残っているのは左上部しかない。マスクと前髪の隙間から覗くその左目も、花粉にやられて真っ赤っ赤だ。大人であれば、一発で不審者決定、職務質問のご面相。
 フレイであってもその形相と発言は鬱陶しいが、ヘイムダルにとってはこんなにもひろびろとし花粉が舞い散る公園に存在して平気な顔をしているフレイが心底憎かった。
 だが、鼻水と抗アレルギー薬の影響でぼぅっとした頭のヘイムダルは
『フレイに付き合わずにさっさと家に帰り、窓を閉め切って空気清浄機をガンガン稼動させて夏まで閉じこもる』
 との思考ができないのであった。
「ふふふふふ、この花粉症への恨みを込めて、コイツをロキへと投げつけるのだっ」
 ヘイムダルはとうとう人格が崩壊したのか、右手に握りしめた『もの』に向けて不気味に笑いかける。
 彼が手にしているものはどう見ても野球ボールにしか見えない物体であったが、実はそんじょそこらに転がっている野球ボールではなかった。それは、寸の前までフレイがいじくりまわしていたものだ。
「ヘム、それはフレイの発明品なのだぞぃ。勝手に使われたら困るんだぞぃ」
「確かにお前の発明かもしれんがなっ! 依頼したのは僕だし、お前が発明にかまけている間の食事当番だって全部代行しただろうがっ」
「いい加減ヘイムダルの野菜料理は飽きたのだ。健康長寿だかなんだか知らないけれど、フレイはイモムシではないのだぞぃ。食事はバランスが大切と言うではないか、たまには肉とか魚とかも見たいのだ」
 うーがーっ僕の料理に文句つけるんなら食うなーッ! とヘイムダルは頭を抱えてのけぞり吼えるが、それも分厚いマスク越しであるので、音がこもってあまり迫力がない。
 ただただ不気味なだけであるが、その場にロキがいれば
「キミタチ……食事当番って……」
 続く言葉をさがして相当悩むに違いないであろう、東山家の一端がほの見えるフレイとヘイムダルの会話であった。
「ま……まぁとにかくだな、ロキ抹殺の為に発明されたこのボールを、ロキを抹殺したいこの僕が使うのは道理」
 そーかなぁ、そーなのかなぁ、とフレイは、先ほどの神々しさはどこへやら人差し指をくわえて『ヘイムダルの道理』を考えているが、正論と言えば正論らしくつっこみの足がかりが掴めなかったのでなにも言えなかった。
「よし、試しに一球投げてみるか」
 ヘイムダルは大きく振りかぶって、杉花粉への恨みとロキへの積もる恨みを込めてボールを広場に植えられた木にめがけて投げつけたのだが……
「……なんだ?!」
 まっすぐに向かっていたはずのボールは不自然に軌道をかえ、木から一メートルも右に落ち、ぽすんっと気の抜けた爆発音をさせた。ボールが落ちた地面は薄っすらとした焼き目を作っていたが、雨の一降りでもくれば綺麗に下草も生え揃うだろう。
「……フレイ、僕が依頼したのは、投げればまっすぐ対象に向かって爆発する爆弾。しかも込める念に対応して爆発力が増す発明、だったよな」
 ロキを油断させる為に『そんじょそこらにある野球ボール』に似せるよう指示をしたのもヘイムダルであるので見た目は『依頼通りの品』のはずなのだが、創造主であるフレイは子供のようにむっつりと頬を膨らませてむくれた。
「怨念に対応してノーコンになるボールにしておいたのだ。当たったら痛いし怪我をする。フレイは誰かを傷つけるのはイヤなのだ」
「痛いからなって……」
 をいをいソレが目的なんだよと念押ししておかなかった自分が悪い、とヘイムダルは虚脱して地面に座り込みながら反省した。
 そうだった、この男はいつもどこかがすっぽりと抜けているのだった。こちらの依頼を勝手に曲解するほどには平和的に抜けている。いや、彼の言い分の方が人道的には正当性があると言えばあるのだがそもそも僕たちは『ヒト』ではないのだから人道的とかは問題ではない……あぁ、なんともややこしい。
 だが、虚脱と花粉症で朦朧としているヘイムダルを天は哀れと思し召したのか、ひとつの奇跡が彼の目の前に存在しているのがヘイムダルの充血した左の目に映った。
 奇跡は、ほてほてとひとりで公園を散策している――ロキの姿をとってそこにあった。


《 TOP
NEXT 》

花粉症なヘム。タバサ世界の彼は受難だらけ(笑)。