なごり雪 








「あ、ゆき……」
 徐々に春の色彩を帯びつつある世界でふと足をとめて、髪の長い少女が呟く。
 彼女の視線の先には、ひとひらの白い綿毛。
 マフラーも手袋もとうに脱ぎ捨てた彼女の指先で雪はじんわりと溶けて行く。
 彼女の髪先に、肩の上に、胸に抱いた淡い色の花束の上に、季節外れの雪が舞う。
 春の淡い青色ではなく、銀色に薄く曇った空から、次々と。
「なごり雪だね」
 あわくはかない水の結晶が、はらはら はらりと空から降りそそぐ。
 まばゆい春の世界に舞う白い雪は――まるで、まぼろし。

   * * *

 なにやら今月はチケット祭りめいていると思いながらも、その日ロキは、まゆらの友達が通っている生け花教室の『春の発表会』へとやって来ていた。とは言っても、デパートの多目的使用の大部屋での発表会であるので、チケットと言ってもご大層なものではなかった。
 教室の主催者や年配の生徒は着物で気合を入れて接待していたが、まゆらの友達は準備と撤収の手伝いだけと決め込んでいるのか、姿は見えなかった。
「これでも生け花って言うのかな?」
 会場入り口には、滑らかな流線を描く流木と季節の花をあわせた作品が飾られていたが、その大きさが半端なかった。畳一畳分のスペースを余すことなく使い切った大作であった。しかも、流木と花が複雑に絡み合い抱えるようにして大きな丸い時計が飾られている。自然物で形成された中に光るシルバーのフレームと黒い三本の針が刻むのは、有形では表現し得ない『時』の名を持つ、究極の『自然物』
 斬新と言えば斬新、奇抜と言えば奇抜。その上、生け花と言うよりはオブジェにしか見えなかったが、それはそれでまた味のある作品なのだろう。門外漢がとやかく口を出すのは野暮であるので、ロキもまゆらもそれ以上の感想は封じ込めた。
 会場へと入ってみれば、ようやく『世間一般の生け花』作品にお目にかかった。白いクロスをかけられた長テーブルが壁面にそって一列ずつと、部屋の中央に細長い四角を描いた展示スペースが作られており、その上に生徒の作品が乗せられていた。
「これこれ、友達の作品」
 萌える若葉の色をした平たい器に生けられた作品横には、白い紙にタイトルと生徒名が書かれている。
「そうなの! これがあたしの作品」
 えへん! と背後からやたらとテンションの高い声をかけられたので振り向いてみれば、ショートカットの前髪に絶妙なバランスでヘアピンを連ねた女子高生が、腰に手をあてて胸を張って立っていた。どうやら準備と撤収だけのつもりではなかったらしい。
「ロキ君、こちらが友達のモネ」
「柏原萌音で〜す、よろしく」
 ざわざわと低音で満ちていた広い空間に、底抜けに明るい声が響き渡る。
「作品通りの性格してるね?」
 見た目子供のロキと女子高生であるので握手なんぞはしないが、挨拶をするかわりに作品の感想を述べるのは普通だろう。
 萌音は意味がよくわからなかったのか、小首を傾げた。
「まゆらと一緒でイマドキの女子高生らしい。落ち着きとは程遠い」
 あはは、言われた! と萌音は笑ったが、その笑いはどこか『口の達者な子供の生意気な意見に対して笑う』と言うよりかは『にやにや笑い』だ。
「ふ〜〜ん、これが噂の探偵さんかぁ。可愛いくてかっこいいねぇ、まゆら」
「だ、な、なんでわたしにふるかなぁ!」
 まゆらはわたわたとうろたえた。
 ロキと萌音ははからずも、同じ視線をまゆらに向けてしまう。うろたえてる時点でイロイロと醸しだされてるなぁの視線であったが、ロキは特別なにを言うでもなし、萌音はさらににやにやするだけでつっこまなかった。
 かわりに、騒がしい三人組に周囲の痛い視線が向けられる。
 目を三白眼にして萌音を睨みつけ、ちょいちょいと鋭角的な右手で手招いているのは教室の主催者だ。
「わ、ヤバっ。お呼び出しかかっちゃった」
「あ、じゃぁわたしたちももう出るね」
 そそくさとまゆらは退散しようと出入り口に向かい、ロキもそれに従った。ある意味、会場前の大作だけでお腹いっぱい状態だったからだ。
 じゃぁねと手をふってお呼び出し口へと向かっていた萌音は、一度だけロキとまゆらの後ろ姿を振り返り――
「それにしてもあの子、ヘンな感じがする……」
 その手のモノが見える、感じられる萌音は、ロキに普通の人間にはない妙な違和を感じて不安げに呟いたがゆっくりと考える時間などなく、鬼の形相になっている主催者の元へと駆け足で向かうしかなかった。

   * * *

 春休み真っ只中の街は人であふれていたが、ここしばらく続いていた春の日を予感させる陽射しには今ひとつ足りない、薄くけぶった空が頭上に広がっていた。
 まゆらにとっては銀色めいた空は美しく、ついつい上を向いて歩き気味になってしまう。
「まゆら、ちゃんと前向いてないと危ないよ」
 くんっと腕をひかれてたたらを踏めば、減速もせずに目の前を通り過ぎる若い男の存在に気がついた。あちらも完全にまゆらの存在に気がついていないと思わせる歩調だった。
「あ、ありがと、ロキ君」
「なんだかさっきからいつも以上に変。なにかあった?」
「いつも以上にヘンってひどぉい」
 まゆらはむぅっと頬を膨らませてすねてから、うぅんと軽く頭をふった。
「うぅん、なんでもないの。ほら、あたたかくなってきてたのに、今日はなんだか冬に逆戻りしたみたいだから」
 空が暗くなってると眠くならない? と問われても、まゆらとの感性のかけ離れ具合が浮き上がるだけだ。
「お昼の太陽を直視したらくしゃみが出るのと一緒だと思うんだけどなぁ」
 友達の誰もわかってくれないのとまゆらは心底不思議がっているが、生理現象的に言えば両方とも頷けなくはないが前者はお子様嗜好の気がするのはなぜだろう。暗くなったら眠くなるなど三歳児ではあるまいし。
 とは言っても別段そんなことを口にする気もないロキは、ふぅんと気のない相槌を打つしかしなかった。
「それにしてもまゆらの友達の中に生け花してる子がいるとは思わなかった。しかも、まゆら以上に賑やかな子」
 一体どんな顔して花を生けているのやら、とロキはぼんやりとその光景を思い描くが、ほんのわずかな会話の間でもインパクトの強かった萌音の性格ではちらとも『神妙な顔』を想像できはしなかった。
 いや、女は女優、時と場合によりいくらでも化ける生き物だからそれなりに神妙な顔をしているのかもしれないけれど……と考え直したが、やはりロキには彼女の神妙さを想像できなかった。
「わたしも小さい時に少しだけかじったんだけど、退屈だからやめちゃった。だって先生ったら、あれしちゃいけません、この花材とこの花材を一緒に使ってはいけません、これは流儀にあいませんって、そんなのばっかりだったんだもの。でも、花瓶にくらいは綺麗にお花を生けられるようになりたいのよねぇ。お花をもらって花瓶に生けても、いつも『どっしりみっしり』って感じになっちゃって、花束をほどくのがもったいないの……あ、お花屋さん」
 まゆらの視線の先には、店の前まで花を広げている花屋があった。季節を先取りする花屋の店先には、色とりどりの花が咲き零れていた。
「花瓶に生けるくらいならヤミノ君に教えてもらえば?」
「そうよねぇ。闇野さん、毎日花瓶に生けてるもんねぇ」
 まゆらは『身近な先生』の存在に気がついて明るく手を打ち、かろやかに花屋へと向かって駆けて行った。


 店内には店先の光景よりも賑やかな世界が広がっていた。
 あちらには胡蝶蘭の鉢、こちらには観葉植物がつくる繁み。ガーデニング用の花の苗は、ココポットの中で小さな葉を広げている。
 隙間を埋めるように置かれているのは、連れて帰ってくれる人を待ちながら花びらをふるわせている季節の切花。
 薄く水滴を刷いたガラスのケースの中には、花束の名脇役、カスミソウの白い雲。そして、カスミソウよりも目を惹く、主役級の薔薇の花。真紅に白にピンク。紅茶色した大振りの薔薇の隣には、黄色い小輪咲きの薔薇。様々な色合い、様々な形の薔薇が澄ました顔をして咲き誇り、または蕾の微妙なラインを主張していた。
 まゆらに遅れてゆっくりと店内へと入ってきたロキは、鮮やかな薔薇の前に張り付くようにして中身を眺めているまゆらを見つけて苦笑する。いつもいつも『普通の感性』とは微妙にずれている彼女であるが、時折まっとうな女の子らしい反応をするのだから少々おかしいやら安堵するやら複雑な気分であった。
「ロキ君、あの薔薇きれ……」
 ロキの存在に気がついたのだろう、まゆらがぱっと子犬にも似た仕草で振り返りガラスケースの中の紅茶色をした薔薇を指差しかけたが、なぜか彼女は続く言葉を飲み込んでくすりと笑った。
「ナニ?」
「だってロキ君、お花のど真ん中」
 そりゃぁ花屋の店内なんだから花のど真ん中にでもなるだろうさと言い返したくもなるが、おのれの周囲を見回してみればなるほど『花のど真ん中ストライク状態』だった。色鮮やかな切花が前後左右に絶妙に配置された、まさに『中央』または『花畑』
「お花似あうね」
「花が似あうのは女の子デショ。男に似あうって言ってどうすんの」
 うぅん、ホントに似あうよ。とばかりにまゆらは首をふった。それはそれで微妙に面白くない気がするのはなぜだろう。
「……服が白黒だからデショ」
 白と黒にはどんな色をあわせても喧嘩しない。そしてロキの服装はまさしく白と黒なのだから、どこに何色を持ってきても似あうはずだった。
「そうじゃなくて、ホントに似あうんだけどなぁ」
 あ、ロキ君あそこ! 
 まゆらは突拍子もなくロキの手をひき、切花のスペースから少々離れたところに連れて行った。そして、問答無用で目の前にある商品をロキに押し付け、ロキを置き去りにしてバックステップで一歩二歩離れてうふふと笑う。
「ほら、やっぱり似あう!」
 まゆらが押し付けたのは、薄いピンク色の包装紙で包まれ花束に仕立てられた商品だった。大人の手ではほどほどの大きさの花束でも、子供のロキでは両手いっぱいだ。春を盛りの花の香りがふわりと漂い、一気にお花畑の中央にジャンプ状態だ。
「だからねぇまゆら、花が似あうのは女の子だってば」
 ため息のひとつやふたつ出てしまっても仕方がないだろう。『花が似あう』と言われて喜ぶ男は世界中探せばいるだろうが、残念ながらロキはそのタイプではなかった。ロキがため息をつくのにあわせて、春のかろやかな色彩でつくられた花びらがふるふると震えた。
「ロキ君、その花わたし買うから、そのまま持っててね」
 まゆらはロキのため息なんぞ微塵も気がついていないのか、そのままくるりと半回転してレジへと向かいかけたのだけれども……先と同じようにくんっと腕をひかれて不自然に立ち止まるしかなかった。
 そして、慌てるまゆらの腕にぽすっと押し付けられたのは、ピンク色の花束。
「だから、花が似あうのは女の子だってば」
 どこかしら不機嫌なロキの声に、まゆらはきょとんとするしかなかった。
「それともなに? まゆらは花ひとつボクに贈らせてくれないの?」
 かわりにレジへと向かったロキの黒衣の後ろ姿を、ピンク色の花束を両手に抱えながらまゆらは見送るしかできなかった。
「……ロキ君ってば、いつもわたしのことヘンだヘンだって言うけど、時々妙に女の子扱いするから困っちゃうな」
 会計をしているロキは、まゆらの独り言にもちろん気付くはずもない。
 胸に甘酸っぱいものが湧き上がるけれども、それは腕に抱いた花の香りなのか、それともまったく違うものなのかわからなかったので――まゆらは花束に顔をうずめて胸いっぱいに花の香りを吸い込んだ。


 花屋から出て、燕雀探偵社へと帰る道。
 秋になれば金色に染まるポプラの並木道は、今の季節にはその片鱗ひとつあるはずがなかった。
 空はいよいよ銀色に曇り、風はどことなく冷たくなっている。
 赤茶けた煉瓦の歩道の上に大小の薄い影。
「あ、ネコ」
 道の先に猫を見つけたまゆらがロキより先を行くが、猫はまゆらと遊ぶ気はないのか、しっぽをゆらりとふりたてて道を横切って行ってしまった。足音もさせずにしなやかに身体をくねらせて走って行ってしまう猫にまゆらが追いつけるはずもない。
「あ〜あ、行っちゃった」
「おや、ふられちゃったね」
 名残惜しげに猫のしっぽを見送っていたまゆらは、むぅっと頬を膨らませる。
「どーせわたしはもてないですよーだ」
「そう? ボクはそうは思ってないけど」
 素で口にすれば、なぜかまゆらは真っ赤になって、手にした花束で顔を隠してしまった。
 ……そんなのしても見えたんですけど、とはさすがに口にしない。
 今日のまゆらは、いつもとは違う意味で、変。
「なに? 今日はやけに言葉に詰まるね。なにかあった?」
「……うーんと、モネがね、チケットくれた時に、探偵さんとデートに来てねって」
 あぁだからチケット持って誘いに来た時から妙に意識していたの? 
 その言葉のかわりに、ロキはくすりと笑った。相変わらずまゆらは花で顔を隠しているけれど耳まで赤いので無意味だし、その心境を色々想像するのは実はちょっと楽しい。
「おや、ボクはデートのつもりだったんだけど。買い出し関係じゃなくて、生け花の発表会に行って街をぶらぶらして、プレゼントの花を買うなんて、まるきりデートじゃない?」
「で……」
「デートじゃないなんて言われたら傷つくなぁ」
 これ以上虐めたらまゆらは茹で蛸になるんじゃないかと少々心配になって、ロキは『なんてね?』と軽くしめくくるつもりでいたのだけれども。
「デートみたいってわたしも思った、から」
 抱きしめた花束に向けて告白するかのような小さな言葉が耳に聞こえて。
 ふたりで買い出しや用事に出かけたことは何度もあるくせに、双方とも墓穴を掘りたくってしまい、思わず無言に。
 どうして今回ばかりこんなに意識してしまうのだろうと考えても、答えはどこにも落ちてはいない。
 きっと、この幻想的な空色のせいだ。
「あ、ゆき……」
 まゆらがふと誤魔化すように空を見上げて、小さく呟いた。
 彼女の視線の先には、白い雪。そっと差し出した右手の指先にふわりと着地してじわりと溶けた。
 そうしている間にも白くはかない結晶がちらちらと地上に降りそそぐ。
 まゆらの髪先に、肩に、花びらの上にと。
 ロキの上にも等しく降りそそぐ水の結晶は、冷たいはずなのにどこかしらあたたかくやわらかい。
「なごり雪だね」
 まばゆく生命力に満ちた春の世界に移り変わろうとしているのをほんの少しだけひき止めようとでもしているのか、冬の名残が空から落ちてくる。
「また季節がひとついっちゃうんだね」
 まゆらは銀色の空を見上げてうっとりと微笑んだ。
 その横顔を見上げて、ロキは思う。
 あといくつの季節をこうして過ごすのだろう――過ごせるのだろう。
 確約された未来はどこにもなく、ここにいるのはただの偶然。彼女と過ごす日々に保障などひとつもない。
 からかいの仕方ひとつ間違えれば、またはひどい喧嘩か誤解のひとつでもすれば、その瞬間からぷつりと消えてしまうだろうか細い縁しかないのに。まるで、手の平に落ちればその瞬間から融けてしまうなごり雪に似た関係。
 それ以前に、この世界にとどまっていることこそがおのれにとっては『不自然』であるのだと、つい忘れてしまっているのに気付かされる。
 ボクはどこに行けばいいのだろう――居てもいいのだろう。答えをくれる者はいないと知っていながらも、考えずにはいられなかった。
 なごり雪はふたりの気持ちなど気にも留めず、世界をあわい白に包み込み、静かに降り続けた。



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