夜の獣の声を聞け 

【 1 】






 全生命の頂点に立つ存在と踏ん反り返っている人間も所詮『獣』だ。

   * * *

 一階に横並びに五室とられている八階建てのマンションのほとんどは、単身者か夫婦、または同棲生活を送る者たちが住んでいた。小さな洋室がふたつとそれよりかは幾分広いリビング、ロフトとキッチンと風呂と、一般的な核家族と呼ばれる四人家族が生活するには少々手狭な造りとなっているからだ。そこは、ふたりでの生活がせいぜいのマンションであった。
 昨今のマンション事情で言えば『隣はなにをする人ぞ』であるので、大概は隣の部屋にどんな人物が住んでいるのかも気にもとめていなかったが、それすらも当たり前の、どこにでもある小さなマンションであった。
 その五階端にある部屋で、女の子がひとり、収納棚の奥から引っ張り出してきた箱の蓋を開けていた。
 完全な洋室作りの部屋には似合わない桐の箱はさほど大きなものではない。女の子の手でも充分取り扱える大きさの箱で、その箱を取り出すたびに女の子は昔話の『浦島太郎』の玉手箱を思い出してしまう。
 だが、箱の中には白い煙ではなく、人形が納められているのだと彼女は知っていた。
 中に納まっているのは、彼女が生まれた時に両親が購入してくれた雛人形。
 もちろん、住んでいるのがふたり暮らしがせいぜいのマンションであるので、無駄にスペースを取る豪華な七段飾りではなく、男雛と女雛だけの、所謂『親王飾り』だ。
 その日はもう三月三日を超えてはいたが、本来の桃の節句は現代の四月上旬にあたる。彼女の家は桃の開花時期に当たる旧暦に雛祭りを行う習慣であったので、こんなにも世間とはずれた時期に雛人形を取り出したのだ。
 朝のうちに飾り付けておきなさいと母親に言われたが、朝の光の中でひとつひとつ飾りを取り出して飾り付ける作業は毎年楽しいものだ。たとえ、三人官女すらいない、金屏風とぼんぼり程度しか調度品がなくとも、楽しさには少しもかわりがない。雛祭りとは、やはり女の子にとって特別な日なのだ。
 彼女は樟脳の香りがほのかに漂う桐の箱から男雛に続いて女雛を取り出そうとして、その手をふととめた。
「お雛様、なんか変……」
 ちょこりと座った形の女雛の背に清水のように流れている黒髪は、裳裾よりも長くはなかったはずなのに……それよりも長く伸びている気がするのはなぜだろう? 
 毛先も綺麗に切り揃えられ、艶やかな黒髪であったはずなのに、今は毛先が不揃いでざんばらとした印象だ。
「……どうして??」
 女の子は、手の平に乗せた女雛を見つめたまま呆然と呟いた。


「なぁ大堂寺、人形の髪の毛って伸びるのが普通なのか?」
 ピンクと白の細い縦縞ストライプが――もとい、そのストライプに染め抜かれたポロシャツを着た鳴神少年が、冷たいジェラートをほおばって『おいしぃぃぃぃっ』とご満悦な笑顔のまゆらに問いかけた。
 学校も春休みであるので表面だけを見ればデート中なのかと勘繰っても仕方がないだろうが、鳴神はクーラーボックスの向こう側、まゆらは店内のテーブル側だ。似合わないピンクと白のポロシャツも、彼の趣味ではなくジェラート屋のお仕着せである。
 もちろん、まゆらが手にする『とよのか苺のジェラート』も彼のおごりであるはずがない。食料品の買出しのついでに、鳴神の新しいアルバイト先を覗きに来たまゆらへ売り上げ貢献をねだった結果であった。
 鳴神が問いかけたのも、たまたま一番最初に出会った『人間・女の子代表』がまゆらであっただけで――なにぶん彼の正体は北欧の『雷神』なので、人間界の人形の髪が伸びるのは普通一般ではないにしてもあり得ないわけじゃないのかと考えていただけで――別に彼女の人格変貌スイッチを押す意図などなかったのだが。
「人形の髪が伸びた?! ミステリィィィ!」
 ジェラートをほおばっていた時の百倍は輝いた彼女の目に、
『人形の髪が伸びるのはやはりこの世界でもオオゴトであるらしい』
 そう認識した少年は、同時に彼女の地雷を踏み抜いたのだとも悟った。
「ねぇねぇ、その人形のトコに連れてって連れてって連れてって!」
 能天気なまゆらのおねだりと鳴神の声にならない葛藤とスピーカーから流れる流行のJポップが混ざり合って、ジェラート屋の空間を奇妙な色に染め上げる。世界はなんとも混沌としていた。


「わんころ」
 三月も下旬になってくると、毎日がぽかぽかとして気持ちが良いものだ。
 出不精を反省しつつある燕雀探偵社の所長であるロキは、長男フェンリルのおやつ前の散歩に付き合ってぽやぽやと道を歩いていた。
 そののんびりとした散歩で立ち寄った公園の茂みからころりとロキの目の前に転がり出てきたのは、丸々とした子犬だった。
 雑種なのだろうか、犬種は判別できないが、和犬の血を強く引いた顔と体型をしていた。
 体毛は白で、全体的にころころとした印象だ。生後で言えば三・四ヶ月程度だろうか、これからもっと大きくなるだろうと思わせる大きくて太い足をしていた。
「捨て犬?」
 飼い主の姿はおろか、公園にはロキとフェンリルと子犬以外の存在は見当たらない。
 ころころとした犬は人懐っこい仕草でロキの前にとてっとてっとてっと走ってきて、桃色の舌をぺろりと出しちょこりと座った。
 丸っぽいラインを描く三角形の耳はぴんっとロキとフェンリルの方を向き、目の前の存在たちに興味津々だとあらわしている。
 ロキを見上げるつぶらな瞳は、澄んだ黒。訴えかけるのは『遊んで遊んで遊んで』の最強無垢な呪文だ。
「懐っこい犬だね、ダディ」
 子犬と対照的な色に全身を包まれたフェンリルが、同じようにロキを見上げる。
「うん。だけどどうしたのかな、この子」
 首輪は見当たらなかったが、首周りのもこもこした毛が少しばかりへたっているところを見ると、つい最近まで首輪をしていたらしい。
 ロキが手を差し出せばなんのくったくもなくぺろりと指先を舐め、フェンリルが顔を寄せれば黒い鼻を挨拶がわりにぺろりと舐めあげる。
 短いしっぽをぱたぱたと音がしそうな勢いで左右に振っている様子は子犬独特の仕草で、家に連れて帰ってしまいたくなるほど凶悪な可愛らしさだ。
 だからと言って安易に家に連れて帰るわけにも行かず、こう見えても動物好き――特に犬好きのロキは苦悩のしどころで。
 後ろ髪ひかれまくり未練たらたらで家路につくものの、恐る恐る振り返れば一メートル後ろをついてくる子犬の姿が。とてとて ぽてぽてと、愛護欲をくすぐるリズムで後をついて来る。
「……しょうがないなぁ。飼い主がみつかるまで保護するか」
 ロキはため息つきつきしょうがないなんぞと言っているが、フェンリルからすれば
『陥落されるのがはやすぎるよ、ダディ』
 と思ってしまうほどにはやすぎるのであった。


 そんなそれぞれの事情の果てに燕雀探偵社応接室で依頼人と探偵が顔をあわせたのは、おやつ時であった。
「確かに不自然に伸びてるねぇ」
 ロキの目の前にあるのは、今日のおやつであるクラシック・チーズケーキと紅茶と十二単を上品に着付けた女雛。
 毛先が不自然に伸びた女雛の髪は艶もなくざんばらな印象で、どことなく顔も陰鬱な、なにか言いたげな表情だった。
 その女雛そっくりな顔をほんの少し前までしていたのは、ポニーテールに白いリボンを結んだ女の子。
 四月から小学校五年生になる浅倉 暖心美(ほのみ)と名乗った彼女は、闇野手製のチーズケーキを口にしてようやっと子供らしい笑みをロキに見せはじめていた。
 彼女は、膝上のデニム地のタイトスカートや白いスニーカーが似合う、くりくりとした目をした可愛らしい子だ。四年生にしては背が高く、手足もすらりと長く大人びた顔立ちをしているので、中学生向けのファッション雑誌でポーズをとってにっこり笑顔で載っていてもおかしくなかった。
「なるお兄ちゃんが任せとけって言ってくれたんだけど、やっぱりそのお人形さん、変なのかなぁ」
 暖心美はチーズケーキを美味しそうにほおばりながら、それでも心配そうに問いかける。美味しい食べ物を食べながらも心配するなどの表現力は女の子独特の器用さだと思わずにいられないロキであった。
 少なくともナルカミ君なら食べる時は食べる、心配する時は傍迷惑なくらい騒々しく心配するとの、どちらかひとつしかできないだろうと考え、どうしてこの子が彼を『なるお兄ちゃん』と呼ぶ間柄になるのだろうとつくづく不思議になるのだった。
 その謎の関係を作り上げている鳴神少年は、春休みであるのをこれ幸いと朝からアルバイトに明け暮れているらしく、まゆらに彼女を託した後は次のアルバイトへと向かってしまった。
 間柄と言えば、暖心美は彼のアルバイト先の店長の娘であると伝え聞いてなんとなく納得したロキは、続けて久しぶりの『おばぁちゃんの豆知識』を披露していた。
「人形はね、元々人間の身代わりだったんだ。健康を祈ったり、または呪う為の対象としての道具。雛人形は最近では『女の子の成長を祝う為に飾るもの』と思われがちだけれど、今でもきちんと『その子に降りかかる災いを乗り移らせる為の道具』としての性質を持ってるんだ」
「女の子がもうひとりいる家はもう一組お雛様が必要なの?」
 暖心美が不思議そうに疑問を口にする。なかなか利発な子供らしい、とロキは彼女の性格を分析した。
「本来は女の子ひとりに一体の女雛が正解だろうけど、今の住宅事情からするとそれは無理だから、その場合は他の市松人形とかでも大丈夫らしい。逆を言えば、一組の雛人形で次女・三女の厄も払ったつもりになってはいけないってこと」
 まぁそれらも全部気の持ちようだから、人形で厄払いをするのはナンセンスと言い切れるのなら大丈夫だろうけどね。
 そう続けるおのれよりも年下の探偵に向ける暖心美の表情は、心配げなものからぽかんとしたものへとかわっていた。大人びて見えてもさすがに中身は年相応なのだろう、話についていけなかったようだ。
「じゃぁ、暖心美ちゃんのお雛様の髪が伸びたのは、なにか災いを引き受けたからって考えられない?」
 暖心美の隣でまゆらが目をきらきらとさせる。暖心美を連れて探偵社にあらわれた時から、彼女は本当に楽しそうだ。
「ひっじょーに喜んでるところを悪いけど、人形の髪は環境や外的要因によって伸びることもある。湿気とか熱とか。これくらいの長さなら理由はその辺りデショ」
「えぇぇぇっ。でも、髪が伸びるのは異常だよ、ミステリーだよ! ねぇロキ君、ミステリーにしようよぉ!」
 まゆらが両の手をにぎにぎして力いっぱい訴えるが、もはや目的がすりかわっている点に気がついていない。
「あのねぇまゆら。それって、人形の髪が伸びるほどの大きな災いがほのみちゃんの近くにあるのを望むってのと同意ダヨ?」
 それともまゆらは、ほのみちゃんの近くに大きな災いがあった方がいいの? と半眼で続けられ、しょぼんとうなだれた。ミステリーやオカルト話は大好きだけれども、それが誰かの不幸の上に成り立つのはたまらない。もっと無邪気に『不思議ミステリー』を体験したいのだ。
「ん?」
 しょぼしょぼと下を向いたまゆらの視線は、白いころころした物体をとらえた。そこにいたのは、白い子犬。ロキをも魅了した『遊んで遊んで』攻撃の射程範囲内にまゆらはしっかりとおさめられていた。
「かわいい〜〜」
 一瞬前までしょぼんとしていたのも忘れたのか、今度は可愛い可愛いと白い子犬に手を伸ばす。本当に、まゆらの気持ちの切り替えのはやさったらと思わずにいられなかったが、足元――書斎机の下にもぐりこんで丸まって眠っていた子犬をこのタイミングで外に押しやるおのれの甘さに内心で苦笑するロキであった。
「あのね、もうひとつ、変なことあるの」
 まゆらと同じく、子犬の頭を可愛い可愛いと撫でていた暖心美は、ふと思い出した。
「雛人形と同じ箱に入ってた、この子に良く似た犬の人形もどこかにいっちゃったの。お母さんが『土鈴』って言ってた。去年はちゃんとあったのに……」
 赤いヒモを首輪代わりにしててね、ころころして可愛い犬型の鈴だったのに、なくしちゃったのかなぁ。
 暖心美はなくした犬の人形のかわりに、白い子犬の頭を優しく撫でた。



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わんころに陥落するのに、きっと三十秒もかかっていないに五千円。