「CG技術発展目覚しい最新映画がなんであんなにショボイ作りなの」
二時間にも及ぶ地獄はロキにとって相当に辛いものであったらしい。本物らしければ本物らしいだけロキにとっては見慣れた光景であるので疲労感などないだろうが、今見てきたばかりの映画は驚くほど陳腐で、血が血らしく見えなければ死体が死体らしくも見えない。いや、本物らしいものなど探すだけ馬鹿らしいほどだった。
その上、いちいちを脳内で補完してしまうロキは無意識の補完したりつっこんだりする行為だけでぐったりだ。
すなわち、刃物ではあんなに切れない、とか、あの場所を切断されてもあんなに血は噴かない、あれだけ返り血を浴びたら後が大変だとか、陳腐な映画にいちいちつっこみをいれてしまうのだ。なんとも疲れる男である。
そもそも無臭なのが逆に気持ちが悪いと感じるのだから様々な理由で重症だ。
娯楽映画なのだから娯楽として気楽に鑑賞していれば良いものを、おのれでおのれの首を絞めているのだから、某門番あたりが知れば腹を抱えて笑うか虚脱するかのどちらかだろう。
ナルカミ君をおちょくって気分直しでもしようかと売店に視線を投げてみても、勤務時間は終わったのか、彼の姿はみつけられなかった。なんともつまらない。
「ロキ君、殺人鬼ものダメだった? 大丈夫?」
「……なんでキミはあんなのが平気なのさ」
なにの奇跡なのか、五階に到着したままぱっくりと口を開けて待っていた直通エレベーターへとふらふら踏み込みながらロキがぶつぶつとつぶやく。
流血シーンで卒倒してもおかしくないやわそうな顔をしておきながら、まゆらは腕がぽんぽん飛ぼうが頭がぽんぽん飛ぼうが画面が血みどろの肉片まみれになろうが少しも怖がらなかった。
「だって、観終わったらスッキリするじゃない? どうせ映画なんだし。これが心理学用語本来の『カタルシス』ってものなのかな?」
まゆらはなんともけろりとしている。
確かに『スプラッタ映画』が『生物が生物を殺す』『生物が無為に殺される、または死ぬ』と言う、倫理的に許されない行為をテーマにしていながらも長年製作されているのは、人間の『破壊衝動』や『鬱屈』を消化させる為――言わば、人間の中にもある『獣性』をなだめる――カタルシスを目的ともされているのでまゆらの意見は正当すぎるほど正当なのだが……一度くらい『きゃぁぁ』とか反応したらどうだと思わずにいられないのはなぜなのだろう?
『いや、確か『きゃぁっ』は言ってたな、何度か。錯覚でなければ、後ろにハートマークか音符が飛んでたけど……』
ぼんやりと血まみれシーンでの彼女の反応を思い出して、まゆらの感性にはとことんついていけないと再確認してしまった。
だいたい、カタルシスで定義されているのは『悲劇』に感応した後の浄化作用であって、スプラッタ映画ではないのだと微妙につっこみたいロキである。
あぁせめて雨はやんでいてくれないだろうか、ガラス窓もない閉じられた五階からは外の様子がわからない。雨の中を傘さして帰るほどの気力は残っていない。
行きと同じエレベーターは完全な四角い金属の箱だったので外の様子を確認できない。これはもう運を天に任せるしかない、じたじたしないで一階到着を待つしかないだろう。
ロキは、フォォォン……とエレベーターが下降をはじめた感触に目を閉じ、かすかに振動を伝える壁へと背を預ける。冷ややかな金属の壁の感触が心地よかった。
「ホントに大丈夫? いったん降りてどこかで休む?」
まゆらの心配そうな声がなぜだか遠くから聞こえる……とロキがぼんやりと考えた瞬間後。
ガタン……ッ!
不気味な音がして、不自然に小さな箱の下降がとまってしまった。
まゆらの小さな叫び声よりもはやく目を開けてみれば、そこは漆黒の闇。
「なに、が」
ロキがつぶやくよりも前に。
ふわり……
ロキの視線の先で、停電とも違う異質な闇の中、エレベーターのドアがあった方へと駆け去る白い『なにか』が見えた。
あわく白いその『なにか』は、瞬きよりも短い時間だけ姿を見せたかと思うと、もう闇の中に溶け去っていて……
――白い犬??
ロキが白い『なにか』を認識するよりも先に、
「あ、停電かぁ。びっくりしたぁ。ね、ロキ君、びっくりしたねぇ」
世界は元の黄色味の強い照明が照らすエレベーター内部に戻っていて、まゆらが安堵の息を吐き出していた。
まゆらは先のエレベーター停止が、落雷かなにかによる一時的な停電だと思っているようだ。窓も何もない閉じられた五階とエレベーターでは、外の様子はわからないからそう考えてもおかしくはないけれど。
ロキは、下降を再開したエレベーターの扉をじっと睨みつけるようにして考える。
なにか……なにか忘れていないか。なにか見落としていないか。ヒトよりも鋭い感覚があの人形を見た時からなにかを訴えているのに、明確な形にならずにイライラする。
髪が伸びた雛人形。
雛人形の成り立ちとなくなった犬の人形。
まとわりつく白い犬。
『不安』は、本来誰の元に持ち込まれた?
守られている女の子は誰の『庇護』を受けている――??
そこまで考えて、脳裏に閃いたのは――暗闇を裂く雷の光。
「あんの……バカッ」
神様は人を救う為に存在しているわけではないけれど、頼られれば応えもしよう。でも、その当事者でもなければ現状は曖昧にしかわかるはずがないではないか。
ロキは、まゆらへ携帯電話で『ある人物』に連絡を取るよう指示をし、十二コール目に出た電話の向こうの人物へ罵倒を浴びせた。
「ナニ考えてんだナルカミ君! 今回と言う今回はあきれ果ててモノが言えないね! 鈍いにも限度があるだろうッ!」
ようやく到着した一階の、全面ガラス張りの向こう側に雷鳴が轟いているのを見て、
『それでもキミ、カミサマ? 雷神?!』
罵倒の言葉を必死に飲み込んだ。
* * *
今日は五時から塾だ。春休みだから、二時間はやくはじまるのだ。
暖心美は、塾の名前が入った黒いカバンと、自分で作った弁当を詰めたサブバックを手に、一階へと降りる為にエレベーターを待っていた。
安い造りをしたマンションなので、ドアが等間隔で五つ並ぶ廊下には壁もガラスもなく、しとしとと降る雨が直接見られる。風は吹いていないので、幸いにも狭い廊下にまでは吹き込んでくる様子はない。
幾つかある電燈もすでに点灯しているが、雨に吸い取られてでもいるのか、やけに薄暗く感じられてならない。
エレベーターを待つ間に空を仰いで見れば、真っ黒に塗り潰されている。しとしとと降る雨のわりには黒い空で、耳を澄ませば空が唸ってでもいるかのようにゴロゴロと鳴っているのが聞こえた。いつ雷が閃いてもおかしくない音だった。
雨が小降りのうちに塾に行こう。帰りに雷が鳴っているようだったら、迷惑かもしれないけれど、お母さんに電話しよう。お店が閉まる時間と同じくらいに塾が終わるから、迎えに来てくれるかもしれない。
いや、もしかしたら、前のように、アルバイトのなるお兄ちゃんが来てくれるかもしれない。『店長に命令されて来た』って、あの派手なピンクと白のポロシャツのままで来てくれた人はなるお兄ちゃんがはじめてだ。
なるお兄ちゃんはちょっと他の人とはずれてる感じがするけど、子供の話でも真面目に話を聞いてくれるので大好きだ。今まで何人かアルバイトの人と話をしたことあるけど、店長の娘だからってちやほやしたり、そうじゃなかったら迷惑そうにしてた。なるお兄ちゃんはそんなの、一度もなかったなぁ。
そう言えば、雷の神様のことを『鳴神』とも言うのだと塾の先生が話してたっけ。雷の神様と一緒だったら、雷は怖くないね。
そこまで考えて、『そうか、今日はお店は定休日で、お母さんはチェーン店のオーナー会議に出席してるんだった』と気がつく。春休みなので曜日の感覚が変になっているようだ。
だったら、いくら怖がったところで彼は来ない……。
「塾行くの、気が重いなぁ」
子供に似合わない重苦しいため息をついた時、暖心美は背後に不穏な気配を感じ、はっと振り返ろうとして……
「い……ッ!」
痛いッ! と口にできなかった。ポニーテールを、誰かが根元から強く握り、力任せに引っ張っているのだ。
振り返ろうとしていた動きの反対側へと無理矢理に引っ張られ、暖心美の身体はバランスを崩して倒れ込む。
だが、完全に廊下の床に倒れることもできず、脇から腕をまわされてがっちりと抱え込まれ、ずるずるとエレベーターホールから引き摺られる。
ダレ……これ、誰?! どこ……ドコに――?!
無理矢理に引き倒され引き摺られ、ずりずりと引き離されるエレベーター前に落ちたふたつのカバンと傘に手を伸ばしても届くはずがない。
怖い――コワイよ、お母さん!!
『なにかあったら電話しなさい』と持たされた携帯電話もカバンの中。
助けてと叫ぼうにも抱え込まれた腕で口元を圧迫されて息もできないし、怖さで叫ぶなどできそうになかった。
第一、生活サイクルもまったく違う、他人に興味を持たない性質のマンション五階で叫んだところで誰が気にしてくれるだろう?
それに、雨降りの日は、雨に吸い込まれて声は遠くまで届きはしない――……
暖心美は、おのれを無理矢理に抱える腕を見た。どこにでもあるシャツの腕。太すぎず、細すぎずの男の腕だ。
必死に下を見やれば、おのれの白いスニーカーに絡むようにして、どこにでもある有名ブランドのスニーカーのつま先が見えた。
それはどこにでもある靴だったけれども――このブランドのこんな色の靴ってはじめてみた、と感じた記憶がちらりと脳裏を掠めた。
『田中だったか、鈴木だったか――』
一軒挟んで隣に住んでいる、どこにでもいる大学生。いやにエレベーターや玄関前で遭遇する回数の高い、マンションの住人。
彼との遭遇確立はいっそ『不自然』と言い切れるほどで、いまさらながらに気がついたその点に、暖心美は男の腕の中でおののきに身体を大きく震わせた。
このヒトと顔をあわすのは、偶然ではなくて。
そこに、このヒトの意図があった――??
子供が性的犯罪に巻き込まれた場合、加害者は――実は、赤の他人であるよりも、身近な人物である場合が多い。
保護者や、兄弟、従兄弟などの親戚――そして、近所に住む人物。
まったく知らないわけでもなく、さりとて内面のすべてを知っているわけでもない、曖昧な存在が、突然獣となって襲いかかるのだ。
犯罪者とは、遠くに存在していて、我が身には関係ないと思いがちだが、現実はまったく違うのだと、暖心美はその瞬間明確に悟った。
そして、犯罪者とは、常に胡散臭い雰囲気を纏っているのではなく、どこにでもある顔をしているのだと知った。
希望の扉が閉まる音は、やけに小さく『ぱたり』と鳴った。
そこは、我が家にとても近くてとても遠い――見知らぬマンションの一室。
カーテンがしっかりと閉められ、照明もともされていない薄暗さに――なによりも、おのれを抱えている男から漂う獣じみた匂いに、暖心美はどんな目的でここに連れてこられたのかおぼろげながらも理解して、身体がぶるぶる震えるのをとめられない。
成熟とは程遠い、震える肢体を蛇のような動きでまさぐるのは、暖心美がどれだけがんばっても振りほどけない圧倒的な力の差を持つ大きな男の手。
小さな音をたてて閉まった希望の扉を開けることは暖心美には不可能だった。
どこかで、犬の遠吠えが聞こえた気が、した。
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