夜の獣の声を聞け 

【 4 】






「ハイッ! そこまでッ!!」
 ぱたりと静かに閉まったはずの扉が『ガッバンッ!!』と大きな音をたてて勢い良く開き、誰かが土足のまま部屋に踏み込んだかと思うと、月色をした風変わりな杖を男に突きつけた。その勢いはまさしく『ガサ入れだ! 大人しくしろ!』である。
「な……なんだ、お前ら! オレの部屋にっ!」
 杖を突きつけられて、田中だか鈴木だかもわからない男はうろたえた声をあげて暖心美を突き放すようにして離れた。
「そっちこそ、身内でもない女の子を部屋に連れ込んで『なんだ』はないんじゃない?」
 薄暗い部屋なので一瞬誰だかわからなかったが、その声と口調に暖心美は誰だか知った。あの、小さいくせに大人びた物言いをする黒衣の探偵――ロキだ。
「暖心美ちゃん、大丈夫か?!」
 ロキの後ろから駆けつけてきて、男と引き剥がすかのように木刀を構えたのは鳴神だ。そして、彼の足元をすり抜け、ロキと並んで男にうなり声をあげる白い犬。
「あ……あたし……」
 もう、なにが起こったのか暖心美にはわからなかった。
 助かったのか助かっていないのか――これは夢なのか夢じゃないのか。自分は、あの大学生に捕まえられたまま、助かった夢を見ているのではないか……
 床にぺたりと座り込んでしまえば腰が抜けて動けず、鳴神にかばわれたままカタカタと身体が震えていることにも気付けない。
「大丈夫、間に合ったから。暖心美ちゃん、怖かったな。大丈夫、なにも起きてない」
「だい……だいじょうぶ?」
 鳴神が何度も繰り返す言葉を口にしてみて、ようやく『大丈夫』なのだとわかって。
 暖心美はぼろぼろと泣いた。

   * * *

 時間は少しばかり遡る。
 電話を受けて、映画館と鳴神のアパートと暖心美のマンションのちょうど中間にあたる公園でふたりが合流した時には、雨は激しく降り、雷が幾つも閃いていた。公園の街灯は明々とともっているはずであるのに、雨雲にフタをされ雨に吸い取られどれほども光を伸ばしはしない。
 黒い傘の下で、ロキは声を張り上げていた。
「絶対になにか『はっきりした災い』があの子の近くにあるはずなんだ。だって、キミが『はやくしろ』と言ってるんだから、すぐ近くにあるはず。それがなになのか思い出せ!」
「思い出せって言われてもわかるかよ、んなこと!」
 雨が怒鳴りあうふたりの声をも吸収しようとする。
 珍しく本気で怒っているロキの顔を見ると、さすがの鳴神少年もなにかが本当に起きるのだと納得せざるを得ない。しかも、それはロキの手の中にあるのではなく、どうやらおのれの側にあるらしかった。
「なんでもいいから、ほのみちゃんに関するコトを思い出せっ。まがりなりにも『雷神』が気にしている子供に『なにもありませんでした』は通用しないんだっ。人形が髪を伸ばしてキミに危機を訴えてる、キミは無意識になにかを感じ取ってるはずだっ」
 ちょっと待てうるさいっと言うのももどかしく、鳴神は頭を抱えて考える。
 傘を叩く雨の音がうるさい。低音で鳴く空がうるさい。考えごとがちっともできやしない。
 そもそも、モノを考えるのはオレよりロキの方がうまいんだから……と考えて、鳴神ははたと気がついた。
 夕方から突然ひどい雨降りになり雷も恐ろしいほどに鳴り響いている夜に、アルバイト先にかかってきた一本の電話。
「なるクン、今日はあがっていいから、かわりに暖心美を迎えにいってくれない?」
 バイト使いの荒い店長に命令されて暖心美を塾からマンションまで送って行った時――嫌な空気を持つ男とすれ違った。
『こんな時間に外出か? ナニか変なことでもやらかしそうな男だな』と感じたのは、ほんの少し前のこと――……
「あの男が――あの子に危害を加えようと考えているのか??」
 呆然と呟いた鳴神に向けて、
『ヤット気ガツカレタカ、遥カ外國ノ神ヨ』
 ロキと鳴神しかいないその公園に見知らぬ第三者の声が響いた。振り向けば、そこには白い犬がいた。激しい雨に打たれているはずであるのにその白い毛並みは少しも乱れておらず、夜にも等しい闇の中で輝いて見えさえする。
 大きさは中型犬くらいだろうか、相変わらず犬種を特定させない、どこか嘘めいた体格や特徴をした犬であった。
 ロキは、黒い傘の下から視線を投げかける。そこにその見慣れない犬がいるのを不思議に感じてもいない視線だ。
「うちから出てきてどこ歩き回ってんの、キミも。映画館までくっついて来るくらいなら、ナルカミ君が合流するまで待っていないで、直接ボクに言えばいいじゃないか」
「ロキ、このわんころ知ってんのか?」
 まるで、犬が喋ることを知っていたかのようなロキの物言いに、鳴神は驚く。神の国でもないこの地では、犬は喋らないのが普通だと彼にもわかっていたからだ。
「昨日からうちにいた。ナルカミ君がまゆらにこの件を持ち込んだからだろうね」
 鳴神は意味がよくわからないらしく、ハテナマークを飛ばすばかりだ。
「キミは、あの雛人形についている『おとぎ犬』だろう?」
『イカニモ』
「おとぎ犬! ……ってナンダ?」
 おとぎ犬とは、犬を模した『箱』を指している。現代は廃れてしまったが、雛人形の調度のひとつでもあった。主人に二心なく仕える忠義心と多産の特質から、厄除け、安産祈願の為に犬を模している。それらの意味合いが転化して、雛人形の必須調度品となった時期もあったらしい。現代での意味合いは『女の子の守り犬』で、張り子の犬の人形や土鈴で代用されている。
 だがロキは、鳴神に詳しく説明する時間も惜しいのか、おとぎ犬に向き合うばかりだ。
「キミもキミだ。鈍感なナルカミ君からボクに責任が移った時点で話を切り出せば良かっただろう。こちらは『ただの犬じゃない』ってわかってたんだから」
『スマヌ。我ガ主ハ雷神ヲ信用シテイタガ、ココマデ鈍イトハ思ワナンダ。ソシテマタ、外國ノ神気ヲ受ケテココマデ大キクナルマデニ存外時間モカカリオッタシ、邪神ト呼バレル神ガ信ズルニ足ルカ判断シカネテオッタノダ』
「それなら、ボクはお眼鏡に適ったってワケ? だったら、さっさと用件を言ったらどう? どうせ時間はないんでしょ」
 不吉なロキの言葉を肯定するが如く一際大きな雷が空をつんざいて落ち、おとぎ犬は白い尾を振り立てて異国の神々を導いた。
 そうしてぎりぎりに間に合ったマンションの一室で、ロキと鳴神は男に向き会うこととなったのだった。
 男の薄暗い部屋を、おとぎ犬の白い光がほのかに照らし出す。
 男の一人暮らしにしては案外と片付いていたが、そこかしこに散乱された雑誌やDVDのパッケージはさすがこの年の男だと納得するものばかりであった。だが、数が尋常ではない。棚から溢れ出ている、女の裸体が描かれた雑誌や写真集やDVD。それも、妙齢の女ではなく、どれもこれもがせいぜい中学生と思われる未成熟な少女のものばかり。
 ある意味壮観だな、と一言つぶやくが、ロキはそれらの上にへたり込んでいる男に向けているレイヴァテインをおろそうとはしなかった。
「アダルト商品ってねぇ、一部では性犯罪を煽るとか言われているけれど、反面、抑止にもなっているから全面的に廃止されないって知ってるかい? 人が無為に殺されるスプラッタ映画が完全に禁止されないのと意味は一緒。大半が写真や映像だけで満足して性欲を処理できるんだったら可愛いものじゃない?」
 まぁ、廃止しても地下にもぐっちゃうんだろうけど。なにせ食欲・睡眠欲・性欲は人間の三大欲だし。言わば『人間の本能』だからね。
 ロキは、どこか面白がる口調だ。
「だけど、欲求や本能を理性で抑えるのも『人間』だ。欲求や本能だけを押し通すのは、もはや獣と一緒じゃないかい? いや、それじゃぁ獣に失礼だな。獣にだってちゃんとルールがある。いくらそこにメスがいたとしても、子供を孕めもしない未成熟な個体と性行為はしないし、そもそも対象としない。それをするあんたは獣以下だね」
「な……なに言ってんだよ、お前。オレがその子を連れ込んだとでも?」
 その子が勝手に入ってきたんだ! オレは悪くない!!
 自分よりもはるかに年下の子供とは到底信じられないほどの絶対的な威圧感を受けながら、男は見苦しく言い募る。
「ふぅん? そう? ま、別にそんな自白はどっちでもいいけどね」
 ロキは半眼で男を見下ろして、にたりと笑った。
「これからじっくり聞かせてもらうから、お仕置きも兼ねて♪」
「おいロキッ。警察沙汰だけは勘弁してくれよ」
「ダイジョーブダイジョウブ。見えるところに痕つけるヘマはしないから♪」
 肋骨べきべきくらいで勘弁してやるからー♪ ロキの声は妙に浮かれていたが、男にとっては有罪判決にも等しいものだった。
『やけに面白がってんな、アイツ。痕つけるって、違う場合に使うんじゃねぇ?』
 それに、アバラべきべきってリッパに警察沙汰じゃねーか。
 まさしく『邪神』としか言いようのない、嬉々としたロキの悪者面に冷や汗をだらだら流す鳴神は『ま、オレもどっちでもいいんだけど』とはやくも意識を切り替えて、腕の中に保護した子供に視線を落とす。そこにいるのは、すっかりと弱りきっている女の子なのだ。
「とりあえず、オレたちは向こうに行ってよーか」
 どうやらここから先は大人の時間らしいから、子供には刺激が強すぎる、と鳴神は考えるのであった。


「ロキ、楽しんだわりには不満そうだな」
「あったり前でしょ。楽しいなんか……ちっともあるわけない」
 言葉に挟まった微妙な間に『ウソばっか!』と鳴神はつっこんだ。
 そこはふきっさらしの五階の廊下。
 時間は、あれから三十分くらい経っただろうか。
 空は真っ黒に塗り潰されていたがそれは正真正銘夜の色で、どうやら雨雲は遠くに流れて行ってくれたらしい。雨は降り止み、雷のかけらも残ってはいなかった。
 ただ、湿気を重く含んだ空気が風にかき回されているだけで、ちらほらと星のきらめきさえ覗いている。
「ほのみちゃんは?」
「寝かしつけたトコ」
 鳴神は、雨にしっとりと濡れた外側の廊下の壁にもたれかかった。と言っても、彼の胸あたりまでの高さしかないので、そのまま両腕をどっかりと手すりに乗せ、反対側に仰け反り身を乗り出すようにして空を仰ぐ。やけに疲れた仕草であった。
 ロキもなんとなく隣に並んで壁に背を預けるが、こちらは頭が壁よりも少し高い位置にくるくらいなので、鳴神のように空を仰げはしない。
 ロキの言葉に挟まった微妙な間よりももっと色の濃い『微妙な間』がふたりの間に横たわった後、鳴神がぽつりとつぶやいた。
「なぁ、ロキ。暖心美ちゃんの記憶を消すって……お前なら簡単だよな」
「まぁね」
「人間にとって、記憶って大切なモンだろうな」
「そうだね。辛いことも悲しいことも、いつかは全部その人を構成するものになるだろうから。それを削り取るって、その人に対する冒涜に等しいと思うよ」
「でも……でも、今日のことは暖心美ちゃんは少しも悪くない。完全な被害者だ。こんな記憶はなくっても誰も困らない。親父さんがいなくてもひねくれもせず一生懸命生きてるあの子にあんな記憶は必要ない。そう思わないか?」
『暖かく美しい色を心に抱いて生きていけますように』――その名に相応しくない記憶は削り取っても構わないんじゃないか??
 雨の雫が額に垂れたのか、鳴神ががばりと身を起こしロキへと真向かったのだが……
 ロキの返答など、その顔を見ればわかるほどには――彼らの縁は深かった。
 こんな場合は、神様の傲慢でも我が侭でもなく『単なるお節介』なのだと、闇野は言っていた。ならば、ひとつするもふたつするも、お節介なら誰に気兼ねする必要はない。
 ロキはレイヴァテインを構えて目を閉じた。


 全生命の頂点に立つ存在と踏ん反り返っている人間も所詮『獣』だ。
 だが、『知恵』や『理性』を持っていれば、人間は『特別な獣』でいられるのだと――けして忘れてはならない。

   * * *

「暖心美ちゃんちに招待された。来週の定休日」
 翌日の午後、『なにごともなく』雛人形を暖心美に返し――もちろん、彼女がひそかに期待していた闇野手製のケーキと紅茶をしっかり振る舞ってからだ。ちなみに、今日のおやつは絶品アップル・パイだった――彼女を送り出した燕雀探偵社の書斎では、なぜか居残っている鳴神が得意げに報告をしていた。
「来週って言えばもう四月か。雛祭りにご招待かい?」
 繊細で可愛い女の子と不繊細代表のナルカミ君の親王飾り。見物ダネ、そりゃぁ。
 ロキは珍しく馬鹿笑いしている。
「懐かれてるねぇ、キミも。そうだ、ほのみちゃんのパパがダメなら旦那さんになったらいいじゃない。五年生であれだけ大人っぽいんだもの、あと数年もすればモテモテの美少女になるだろうから今からツバつけとけば? あ、今でもすでにモテモテだろうから遅すぎかな?」
 にやにや笑う様子は、馬鹿笑いと言うよりはただのエロ親父だ。
「ツバ……って、お前時々下品な言葉さらっと言うよな」
 鳴神は、今まさに口に含んだ紅茶をだらだら零しそうなほどに虚脱しきったあきれ顔でロキを評する。
「そうそう、ロキ君って時々みょーに親父っぽくなっちゃうんだよねー」
 まゆらがここぞとばかりに同意するが
「ホント、ほのみちゃんのがどこかの大きなおねぇさんよりよっぽど大人っぽかったね」
 ロキはさらりと無視した。そのあまりの無視っぷりに、逆に『なんだ、結構気にしてたんだ』とわかるのは腐れ縁の雷神だけであった。なので、気付いてしまったのならしょうがないとばかりに話をあわせてやる。
 不繊細と言われていながらも、結構このあたりは気が回る鳴神なのだか……
「ばーろ、オレと暖心美ちゃんじゃぁ年が離れすぎだろ」
「……そうかな?」
 折角協力してやった相手が時折妙にとんちんかんで噛み合わないのでは、協力のし甲斐もないのであった。


 闇野のアップルパイを散々食い散らかした後で鳴神が夕方からのアルバイトに向かっても、まゆらはまだ探偵社にいた。
 ソファのいつもの場所に腰かけて、ぼんやりと細い銀のスプーンで琥珀色の紅茶をかきまわしている。
 ぐるぐる ぐるぐる。
 さざめき揺れる紅茶はすっかりと冷め切り、かき混ぜる意味はどこにもない。
 ぐるぐる ぐるぐる。
 ぼんやりとスプーンを動かし続けるまゆらにロキが声をかけたのは、もう夕方と表現して間違いのない時間。
「まゆら、どうしたの。なにか相談事でもある?」
 ぴたり、ととまる手の動きに、おや、とロキは眉をひそめた。もう一時間もぐるぐる ぐるぐるとスプーンを動かし続けていたのにちゃんと反応した。それでも彼女はスプーンをおろそうともせず、そのままの姿勢でかたまってしまっている。
「ねぇロキ君、暖心美ちゃんと鳴神君が離れすぎって言うんなら……わたしと―――だったら……」
 長い時間ぼんやりとして、ようやく口を開いたかと思えば、それは力のない問いかけ。
 しかも、本当に小さな小さな声だったので、最後の方はよく聞こえなくて。
 でも、聞き間違いでないのなら――空中にかき消えた言葉が『わたしとロキ君だったら』なのだとしたら……
『離れ過ぎの年齢差やその他の問題を乗り越えなきゃならないのは、キミじゃなくてボクの方』と咄嗟に考えてしまって。
 ロキは『……ナニ考えてんの、ボク』とひそかに赤面した。
 きっと、聞き間違いだ、そうに決まっている。
 たとえ、まゆらの顔もほんのりと赤く染まって見えていても――きっと気のせい。


 燕雀探偵社の外に広がるのは、昨日とは打って変わり、どこまでも晴れ渡った夕焼け色。
 書斎までその色は浸食し、世界は赤色に染まるのであった。



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やばめのお話でした。