Sakura Crisis 

【 1 】






 年経た櫻の木には、美しい娘が宿っていると言う。

   * * *

 頭上に広がる空は、優しいパステルカラーの青い色。
 下草がやわらかく萌える広々としたその地には、あたたかな春の陽射しが丸い輪になって踊っている。
 小高い丘になっている為に眼下に家並みが広がり、少しばかり王様気分も味わえる。
 目の前には古い櫻の木が一本、大きく枝を広げてほんのりとした花のかすみをつくりあげていた。満開も満開、もうほんの少し彼女の上にあたたかさが降りそそげば、ほろ……と花びらが一枚舞い落ちそうなほど。飽和寸前の、崩壊を予感させる危うい美しさは、その瞬間にしか味わえない贅沢な櫻独特の艶美だ。
 一般的に櫻と言えば『ソメイヨシノ』を思い浮かべるが、目の前の一本櫻は『エドヒガン櫻』であった。
 ソメイヨシノは寿命が百年を下回ると言われているが、エドヒガンは数百年を軽く生きる櫻だ。古びた幹やしなやかに伸ばす枝肌を見れば、きっと何世代もの人間たちの生活を彼女は見守り続けてきたのだろうとすぐに知れる。
 櫻色の波に見え隠れするのは、愛らしいうぐいすの姿と声。法・法華経。鳴き声も上手になってきて耳に心地よい。
 絶景かな。これぞ日本の春である。
 大きなピクニックシートにずらりと並んだ重箱の中には、闇野手製の料理が見目彩り味良くおさまっているとなれば、すっかりとお気楽な行楽気分。これでは春を楽しまずにはいられない。否、楽しまないでどうする。
「それにしてもまゆら、よくこんな絶景ポイント知ってたね」
 ソメイヨシノを基準にされた櫻前線よりも一足先に満開になった櫻を見に行こう、といつもの強引さで言い出したのはまゆらであったが、今日のイベントはロキのお気に召したらしい。まゆらはなんとも得意げな笑顔でいなり寿司をほおばっている。
「でも、こんなに見事なエドヒガンなのに、ボクたち以外に花見をしてないのが変だな」
 ぐるりを見渡してみても花見客はおろか、犬の散歩をしている者も、子供を遊ばせる母親の姿ひとつない。車道からも外れ車の注意もしなくて済めば、周囲に人家があるわけでもないこの場所は格好の遊び場であるはずなのに。日本人は『花見』と言えば『ソメイヨシノ』以外認めようとしないのか、なんともったいないことだろう。
 そう考える反面、こんなにもあたたかく空も晴れ、文句のひとつも言おうものなら総スカンを食らうほどの行楽日和に漂うこの静けさが微妙に恐ろしい。
「まさかまゆら、ここってば誰かの家の敷地内とか私有地とか、立ち入り禁止の公有地だなんてオチはないだろうね」
 私有地や公有地を示す境界線があっただろうかと思い返すが、ここに入り込む道中にもそんなものは見当たらなかった。それなのに、妙な不安がお気楽な行楽気分の底辺にこびりついて消えないのは何故だろう??
 そんなロキへと、まゆらはとびきりの笑顔で回答を口にした。
「だって、ここでお花見をしたら食中毒になるってもっぱらの噂なの! きっと地縛霊の仕業よ、不思議ミステリィ♪」
 ミス研部長としては実地体験あるのみなの♪
 無責任に音符を乱れ飛びさせているまゆらは、彼女独特の価値観でこの花見を楽しんでいるらしかった。
「しょくちゅうどく……」
 出汁巻き卵を口に運びかけていた玲也とほうじ茶をコップに注ぎいれていた闇野の手が不自然にとまり、どんよりとした口調で不穏な言葉をはもらせた。フェンリルはあんぐりと開けた口からぼろぼろとおかかおにぎりの残骸を取りこぼしているのにも気がついていなかった。
 あたたかな一日であるのに、ひゅるりらら〜〜ぁと木枯らしが吹き抜けたのは気のせいではないだろう。
「……ボクはヤミノ君を信用しているヨ。衛生管理にも燃えてるの知ってるし……」
 それでもロキの言葉がどこかしら生ぬるく弱気な口調になってしまうのは、おのれの発言がどれだけの衝撃を持っているのかちっとも自覚していないまゆらの無邪気さが目の前にあるからかもしれない。
 本当にこの大きなおねぇさんときたら、見た目は今のおのれよりもよっぽど大人であるくせになんとも低レベルな趣味をしている。見た目は『これさえなきゃなぁ』とため息をつきたくなるくらいなのに、もったいない。ロキはこっそりと胸中でため息を吐き出した。
 どんよりどよどよとした空気を裂くかのように、がばりっと右手をこぶしにして闇野が背を伸ばした。
「そうですっ。食中毒の噂ごときにこの闇野の衛生管理能力を突破されてたまるものですかっ。安心して召し上がってくださいっ」
 たかが噂に対抗心を燃やし、行楽弁当を周囲にすすめる弟に向けて、今度はフェンリルが気付かれないようにため息を深々と吐き出す。
『なに無駄に燃えてるんだこのバカ弟は』
 そんな言葉が聞こえてきそうなため息だ。
 空はうらうらと晴れてはいたが、その場の一同の心は、無邪気な一名と対抗心を燃やす一名を除いて、うらうらと晴れているとは言いがたい雰囲気にすっぽりと包まれるのであった。


 食中毒の噂などに負けずに行楽弁当をすべて片付けて、闇野手製の和菓子もしっかり平らげ、持参のカードゲームを一通りした頃には、ぽかぽか陽気に照らされて玲也が沈没した。
 彼女の寝息に誘われるように、まゆらがふわぁぁと大きなあくびを残して睡眠の海へと沈み込むのにそんなに時間はかからなかった。
 大きめのピクニックシートに横たわって幸せそうに春の陽射しの中でうたたねする少女たちはのどかさの象徴だ。しっかりと小さめの毛布とブランケットを持参していた闇野のおかげで、風邪をひくこともないだろう。
 彼女たちの平和な様子に苦笑しつつ、ロキはゆっくりと櫻の木へと近づいた。そして、その幹へと声をかける。
「櫻の姫に会えるなんて思ってもいなかったな。ホントにいたんだ」
 誰もいないはずであるのに、彼の不審行動に闇野は首をかしげもしない。なぜなら、櫻の幹の向こうからおずおずと顔を出している少女がそこにいたからだ。白地に淡い櫻を散らした振袖を着た、長い髪の娘だ。
 玲也やまゆらには見えていないようであったが、櫻の幹の向こうからロキたち一行が張った宴をずっと見ていたのだと気がつかないロキではなかった。
 声をかけられた櫻の姫は頬を赤く染めそそくさと幹の向こう側へと顔を引っ込めたが、暫くするとまた恐る恐る顔を出す。なんとも初々しい仕草であった。
 年頃は、まゆらよりひとつふたつ年下かもしれない。日本人形のように可愛らしい容貌だ。そっと幹にかけた手は白い繊手で、指の先に飾られた爪は淡い櫻色。長い長い黒髪はどこか硬質な光を帯びていながらさらさらと春の風に乗り軽やかになびいている。
 白目が青みを帯びて透き通って見える大きな黒い目におどおどとした感情と、自分が見えているらしいロキへの好奇心を宿していた。
「お邪魔してゴメンね。ボクはロキ。キミは?」
『……ゆぅ』
 もにょ、と唇をすぼめて口ごもってから彼女は答えた。どうやらかなりの引っ込み思案らしい。
『あの、あなた、私が見える??』
 今更であるとはわかりながらも問いかけてしまうのは、そんなこと。なにせ、おのれは櫻に宿るヒトならざる者――精霊であるのだ。この身を見る者はこんな世の中でもまったくいないとは言わないが、やはり珍しい。
「もちろん。だってボク、カミサマだし」
『神様??』
 きょとん、とゆぅは瞬きも忘れてロキを見つめる。それはそうである。彼はこの街のどこにでもいるだろう子供にしか見えない。確かに神様であっても大人の姿をしているとは限らないし、人の姿をとっているとも限らないが、目の前の子供はやはりただの子供にしか見えないのだ。
「ま、今は力の大部分を封じられていて、ほとんどただの子供だけど」
 ロキは苦笑混じりに肩をすくめてみせた。つられて、ゆぅがころころと笑い出す。『神様なのにただの子供』とは本当に不思議。
「ところで、さっきあの大きなおねぇさんが言ってた話ってホント?」
『お話?』
「ここで花見をしたら食中毒」
 再びきょとんとしたゆぅは、ゆっくりと首をかしげて考え始めた。う〜んう〜んと小さく唸っている仕草も可愛らしいが……ふたりの様子を、重箱の後片付けをしながら眺めていた闇野は
『やっぱり気にしてらしたのか、ロキ様はっ』
 妙に悔しく感じていたりしたのも事実である。
 ゆぅはようやっと結論がでたのか、おずおずとロキの前へと進み出てぱぁっと顔を輝かせてにこにこと笑った。
『しょくちゅうどく。はい、ゆぅかもしれません。ここでお食事するヒトの子の食べ物に触ってみたら、みんなどうしてだか苦しそうになって、帰っちゃうです』
 そ……そう、とロキは生ぬるく笑うしかない。
 まぁ、それなら、今回の花見では食中毒は発生しないと判明しただけでも良しとするしかないだろう。なにせ、今回彼女はずっと櫻の木の向こう側からこちらを見守っていただけで、今でさえそこから動こうとしないのだから。
 その時彼らの背後で、完全にうたたねの世界に沈み込んでいると思われたまゆらがふと目を覚ました。
 闇野が「おや」と呟く間にまゆらはふぅらりと不安定な動きで立ち上がり、ふらふら ふわふわとした足取りで櫻の木へと向かって行く。その足取りもぼんやりとした顔も、完全に寝ぼけたヒトのそれである。
 そして彼女は寝ぼけたまま、
「ろきくんってばかわいいおんなのこなんぱしてる〜〜っ」
 背を向けているのでまだ気がつかないロキの細い背中に、妙な言葉をふにゃふにゃと口走りながらがばりと抱きつき。
「は?!」
 予想など微塵もしていなかった唐突な行動と言葉に咄嗟にまゆらを支えきれなかったロキが彼女ごと前へと倒れ込み。
『ふぇ?!』
 いくら小柄なまゆらと子供姿のロキであっても、華奢な少女姿の櫻の姫が二人分の突撃を支えられるはずもなく、三人はまとめてばったりと櫻の幹めがけて倒れこんでしまった。
「いたたたたぁ……ゆぅ、大丈夫??」
 まゆらとおのれの体重を受けて櫻の幹へと倒れ込んだ少女のダメージはいかばかりか。ロキはくらくらする額を片手で押えつつ彼女の名を呼んでみるのだが。
「はい」
 返事をするのは、何故か、背後のまゆらで。
「まゆらじゃなくて、ゆぅは大丈夫?」
 それでもまたしても小さく返事をするのは、後ろのまゆら。
「……」
 なにやら違和感に気がついて、ロキは恐る恐る顔を覆っていた手を外す。
 おのれの身体の下にあったはずの、少女の感覚がない。触れるのは柔らかな下草と櫻の幹のざりざりした皮肌。
 まぁ、彼女は肉体を持った存在ではないから寸前に姿を消したのではないかとくらくらする思考で考えるが、三人がまとめて倒れ込んだ瞬間に耳のすぐそばではじけたシャボン玉が割れるような不安な音は無視できない。ロキの目を鋭く射抜いたカメラのフラッシュに似た小さな光もあわせて無視できたなら、そいつはよっぽどの楽観主義者か鈍感者だ。
 ロキは恐々、背後を振り返る。そこには、大きな目をぱちくりとさせたまゆらがちょこりと正座していた。
「……ゆぅ?」
 恐る恐る問いかけてみれば、
「――はぃ?」
 ちょこりと小首をかしげる、まゆら。
「…………あらまぁ」
 ロキは見合いよろしく向き合ったまま、言葉をなくした。
 まゆら――もとい、まゆらの中のゆぅは、きょとんとしたまま瞬きを繰り返すのであった。



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ほのぼの偽大家族ライフの開幕です(笑)。