Sakura Crisis 

【 2 】






「まゆらさんと知らないおねぇさんが見えるです」
 さすがに、静かな静かな春の光景が破られては玲也が安らかな眠りの世界から醒めてしまうのは道理だ。
 その彼女はまゆらの姿を一目見て、寝ぼけ眼で不安げにつぶやいていた。最初こそ二重にぶれたまゆらの姿にくらくらしてしまったが、その奇妙な現象もすぐに落ち着き、今はまゆら自身がどことなく違う別人に見えてしまう。まゆらだとわかるのにまゆらじゃない、まゆらじゃないように見えるのにまゆらだとわかる。
 非常に妙で不安定な感覚を他人にどう伝えればいいのかわからない玲也は、ただただ困惑するしかなかった。
『やっぱりそうなのか……』
 まゆらのタチの悪い冗談かおふざけであって欲しいとのロキのはかない希望も、玲也の真実を語る言葉で木っ端微塵だ。
 玲也の言葉に再び額に手をやっているロキへと闇野もかける言葉がない。なぜなら彼の目にもまゆらが微妙に違って見えるからだ。
「まゆらってば……とことん無自覚に騒動を引き起こしてくれるねぇ」
 思わず恨み言のひとつも出ようものだが、しょぼんとしょぼくれたのはまゆらの身体におさまったゆぅであってまゆら本人ではない。
「まぁ、退屈だけはしないけど」
 それも度が過ぎれば退屈が懐かしくなる瞬間もあるけれど。
 またしてもしゅんとしているのはまゆらの身体におさまったゆぅであってまゆら本人ではないのでなんともややこしい。
 だいたい、人間同士でも人格が入れ替わるなど映画かドラマでしか有り得ないのに、櫻の精霊を受け入れてしまう人間とは、度量が広いにもほどがある。無節操も大概にして欲しいが、取捨選択なく受け入れるから『無節操』と言うのかとげんなりとしてしまう。
「ロキ様、どうしますか? このままゆぅさんをパパさんの家には帰せませんけど」
「それは仕方ないからうちで預かるとして……」
 まったく別の人格――ヒトですらない魂が入ったまゆらをそのまま帰して操の慌てる様子を観察するのも楽しいかもしれないけれど、後々面倒になりそうなのでやめておいた。最近は、まゆらに関する『常ならぬこと』は全部こちらのせいにされている気がしないでもないからだ。それは非常に鬱陶しい。
 そのまったく別の魂がおさまったまゆらの身体……と考えていると頭がこんがらがりそうなので断定的に『ゆぅ』だと置換しなおして彼女を見やれば、ゆぅは一生懸命にまゆらの短いスカートの裾を引っ張っている。ほんのりと恥じらいに染まった櫻色の頬が目に鮮やかだ。
「ゆぅはこんなに短い着物を着たこと、ないですぅぅぅ」
 ゆぅの仕草に、えーと……と思考を固まらせてしまったロキの視線を受けて、ゆぅが半泣きの顔で小さく叫び、玲也がぱっと彼女に駆け寄ってロキと彼女の間に立ちふさがった。
「いくらロキ様でも女の子の足を見るのはダメですッ!」
「って言われても……」
 ある意味まゆらの足は見慣れているし、まゆらが膝上十五センチのタイトスカートなのが悪いんじゃないかと思わないでもないが、普段は足を惜し気もなく晒している相手が恥じらいの表情をするだけで妙にいけないものを見てしまっている罪悪感が湧くのはなぜだろう。まるでこちらが犯罪者のような気分になってしまうし、玲也が燕雀探偵社の男どもを見る視線はあきらかに変質者を見る目なので悔しいやら悲しいやらだし。
「ロキ様、可愛いメジロですよ〜〜」
「わんわんっ」
「あそこにはモンシロチョウが。平和ですねぇ、のどかですねぇ」
「きゃわわんっきゃわわんっ」
 息子たちはとっとと現実逃避し、ロキもさり気なく視線を外すのであった。
 まぁ、現実逃避ばかりをしてもいられない、とロキは恐る恐る現実へと立ち戻る。
 玲也は甲斐甲斐しくブランケットでゆぅの足を覆っていたが、その様子もなぜかしら犯罪チックに目に映ってしまう、玲也に『対変質者』の視線を向けられても仕方のない腐った思考中のロキであった。
「預かるとなったら、着物も調達しないとダメか」
「それならロキ様、闇野にお任せください」
 兄弟揃って現実逃避していると思われていた闇野であったが、やけに自信にあふれた口調で言い切った。どうやら、現実逃避しながらもこちらの状況はしっかり認識できていたらしい。
「テディ・ベア教室の仲良しサンに、老舗呉服屋の娘さんがいるんです」
「テディ・ベアって……」
 いつの間にっ。ロキは言葉が続かなかった。
「……もしかしてヤミノ君って、ボクより十二時間ばかし時間が多い?」
「ロキ様の時間の使い方が下手なだけです」
 頭上に広がる空のように、闇野はほがらかに言い切った。まだ少し現実に立ち戻れていない、底の抜けた笑顔なのがまぶしかった。

   * * *

『ぬわんで悪辣どチビ探偵のチミモーリョーバッコの家にうちの清らかなまゆらが預かられなけりゃぁいけねぇんだッ! そんな不条理、神が認めても俺は認めんぞッ!!』
 状況がさっぱり見えないだろうに、発言は的のど真ん中を射抜いている。神が認めても俺は認めんって……まさしく今の状態そのものじゃないか。
 と、燕雀探偵社に帰ってきたロキは、まゆらの父親である大堂寺 操へと、珍しく電話で喋っている最中に生ぬるく考えていた。
 まぁ、この現状を認めている神様は操が考えているだろう品行方正な神様ではなく『悪戯と欺瞞の神様』であるところがなんだし、まゆらは清らかと評するよりかは標準から斜め二十二度ほど方向性がずれている気がしないでもないけれど。
 ちなみに『チミモーリョーバッコ』とは『魑魅魍魎跋扈』だろう。漢字で書くにはいささかくたびれる台詞だった。
 ロキは、いったん離していた超音波を発する受話器をそろそろ大丈夫かと恐る恐る耳元に近づけるが、
『百万歩譲って嫁入り前の娘が男ばっかの家に泊まるのを認めたとしても! それ相応の理由がなくて認めてたら親は勤まらんわッ!』
 さぁ、それ相応の理由とやらを言ってみろ! と、勝ち誇った怒鳴り声を再び放ちはじめた受話器にうんざりする。きっと、向こうの受話器は操の唾で大変なことになっているだろう、とこんな時は面と向かって話をしないで済む電話の存在がありがたかった。電話を開発したアレクサンダー・グラハム・ベルに向けて、感謝の気持ちすら抱いてしまう。
 ロキは長い沈黙を挟んでから、生ぬるい笑みをふと浮かべた。そんなに理由が欲しいのなら、遠慮なく与えてやろうではないか。
「ボクがまゆらを預かる理由って……」
『理由って??』
「……………………花嫁修業かな」
 なんだと?! と鋭い叫びをあげる受話器を生ぬるい笑みのまま電話機本体へと戻し、ロキはおもむろに電話の背面から電話線も引っこ抜いてポイッと投げ捨てた。
 ちなみに、燕雀探偵社の電話はファックス機能やナンバー・ディスプレイ機能など影も形もない、昔懐かし黒電話。呼び出しの擬音は、もちろん『ジリリン ジリリン』
 ある意味、どこから掘り出してきたのだと聞きたくなるような古物だった。
「ロキ様、パパさんが近づけないように、周辺の地縛霊でも活性化させておきましょうか?」
「うん、お願い」
 ロキはまだ生ぬるい笑みのまま闇野へと許可を出し、闇野も嬉々として通販で購入した『地縛霊活性化薬』を手にフェンリルとともに出て行った。
 ちなみに、闇野が通販で購入したまゆつばものの『地縛霊活性化薬』なるあやしい代物には以前ロキが悪戯してルーン文字を刻んでおいたので、本物以上に効果を発揮するだろう。
「はぁ、もう、参っちゃうな」
 だが、彼らの後ろ姿を見送ったロキは楽しそうでもなく、逆に深々とため息を吐き出していた。
 彼の心境はずばり『……花嫁修業だなんて、劫火にガソリン一斗缶でドバドバそそぎこんでどうすんの、ボク』――である。
 深い穴へと落ち込みつつも、それもこれも彼女が悪いのだと思い出すのは、今から一時間ほど前の会話――……


 燕雀探偵社へと連れて来られたゆぅは、闇野が準備した着物を身に着けて――彼のその手際の良さに、本当に相手の『老舗呉服店のお嬢さん』と仲が良いのだ、この子の交友関係はどうなっているのだ、そもそもそのお嬢さんとは『友達』の域のお付き合いなのかこれはとロキは首を捻りたくなったものだが――ようやっとひと心地ついたらしい。周りを見回す余裕ができたのか、見慣れない居住空間に興味津々の視線をめぐらせていた。
「ヒトの住まいをおとなうのははじめてですぅ」
 熱っぽい視線のままクッションの端を珍しげにこねくり回している。
 着物は春に相応しい淡い色の胡蝶柄の振袖で、重厚な洋風調度でまとめている書斎のソファに彼女が腰をおろしている光景は、明治か大正ロマンの雰囲気が漂っていた。
「ゆぅはこうやってヒトの住まいにくるの、あこがれてたです」
「願いが叶ってよかったネ」
 はじめて目にする紅茶が冷めるのを待ってから、ほわほわとした笑顔で子猫のようにちびちびと口にする彼女の様子は可愛らしい。無邪気な願いがひとつ叶ったのは不幸中の幸いか、と思わないでもない。
「ゆぅはずっとひとりぼっちだったから、同じ家で何人かで暮らすの、あこがれ」
「ずっとひとりだったですか??」
 ゆぅの隣に座った玲也が目を丸くする。
「ゆぅの近くには、同じ櫻の娘はいないから……ずーとひとりぼっち」
 心優しい玲也の大きな目がみるみる潤んでいった。
「レイヤ、今日はお泊りするですっ」
 すっかりと保護意欲を掻き立たされてしまっているらしい。玲也は両手をぎゅっと握りしめて『なにがなんでもお泊りするですっ』を力いっぱいあらわしている。
「それに、わたしの夢は『ヒトのお嫁さんになること』なんですもの」
 きゃぁぁぁっとゆぅは袖で顔を隠し、小さくちぢこまる。
「お……」
 お嫁さん……ロキは思わず、今手にしている紅茶を口にしていなくて良かった、とどこかにいる日本の神様に盛大に感謝した。今の勢いなら確実に噴いている。そうでなければ、絶対に気管支に入っている。考えただけでもみっともない結果の出来上がりだ。どこかの日本の同僚に本気の本気でアリガトウと言いたい。
 実際に、ロキの足元で皿に入れたミルクを舐めていたフェンリルが鼻から白い鼻水を出していた。続いて、ぶしゅいぶしゅいっとくしゃみをしているところ見ると、変な場所にも入ったらしい。彼には日本の神様のご利益はなかったようだ。『ご愁傷様』と生ぬるく心の中でだけつぶやく冷たい父親であった。
 今の発言にはそれだけの威力がある。なにせ、あでやかな着物姿の年頃の娘が恥じらいの仕草で言う言葉に相応しいものけれども、見た目はまゆらそのものなのだから。複雑さも複雑骨折して、どう考えればよいのかわからないくらい。
「お嫁さん、素敵ですぅ」
 玲也はうっとりとよその世界へトリップしてしまっているが、『素敵』の一言で済ませていいのだろうかと考えてもしまうのだ。


 そんな前フリがあった為に、操へと『花嫁修業』とつい口走ってしまったが、はてさてどうしたものやら。
 とりあえず今日は考えるのはやめておこう、調子を崩されっぱなしの頭ではなにも考えられない、とロキはあっさりとあきらめ、ゆぅと玲也が仲睦まじく待つ書斎へと向かう。
 しばらくはまた探偵業は休業だとあきらめのため息が階段にぽつぽつとこぼれ、かたつむりの足跡のようにてらてらと光って見えた。
 元から依頼人の影も形もないのはこの際見ないフリ気付かないフリをしてやるのが心優しい配慮、なのかもしれないその日の燕雀探偵社なのであった。



《 TOP
NEXT 》