Sakura Crisis 

【 6 】






「机の上にある本を持ってくればいいんですね」
 ゆぅは、一足はやいエイプリル・フール――もとい、人間の街探索から帰ってきてから、ロキに頼まれごとを請け負った。
 たった数日ですっかりと慣れてしまったヒトの住処である燕雀探偵社の階段をゆっくりとのぼり、屋敷の中央、玄関上にある書斎兼応接間へと向かう。
 ドアノブをまわし、ゆっくりと開け放した部屋の中に満ちるのは、澄み渡った夕方の色。闇野が綺麗に磨き上げた窓ガラスを透かしてみるその色は、本来なら見慣れないものであるが、やはり美しく感じる。
 その色が染め上げる書斎に、燕雀探偵社の家人以外の人間がいた。窓の外を半分壁にもたれかかるようにして眺めている。
 眼鏡をかけた十代の男だ。夕方の色に染められた、色素の薄い髪や顔の輪郭に見覚えがあるような気がしてならない。
 誰だかわからないのに、胸がドキドキする。
 ずっとずっと昔……いや、ほんの少し前にも同じように胸がドキドキして騒がしかったことがある。
 花開く季節に聞いた『言霊の意味』と、楽しくて嬉しくてこそばゆい記憶がうさぎのように跳ね上がる――……
「……だれ?」
 それだけを口にするのに、幾つも季節が過ぎた気が、した。

   * * *

「ビバ、隔世遺伝! って感じ?」
 ゆぅへと頼みごとをした張本人は、リビングに居ついてそんな謎言葉をのたまっていた。
「ビバ……って、ロキ様、キャラが微妙にかわってきていませんか??」
 苦笑しつつ紅茶を提供する闇野へ、
「今回調子狂わされっぱなしなんだから、変にもなるさ」
 ロキはぶーとすねてみせるがあまりかわいくはない。
「まぁ、ホントーに驚いたけど。ゆぅの記憶を読んでみたら、そこに光ちゃんそっくりの学生さんがいたんだから。まさかと思って話を聞いてみたら、あの土地は元々垣ノ内一族が所有してる私有地だって話だし、光ちゃんの曾お祖父さんだかお祖父さんだかは若い頃に渡仏したってことだし、どんぴしゃだよねー。しかもしかも、お祖父さんの遺言で『あの土地は開発するな』ってのがあるなんて、もうそれ以外考えられないって感じ?」
 ロキは肩をすくめるが、それもやはりかわいくない仕草だ。
「感じと言われましても……まぁ、それでまゆらさんとゆぅさんが別々になって、元の状態に戻ればいいのですけど」
「それ以上に名前の由来の方に拍子抜けだよねー。『ゆぅは英語であなた』って、おっそろしく単純過ぎる」
 フェンリルが呆れ果てた口調で続けるが、確かに真実は恐ろしく単純でまさかそちら方面だとは思いもよらなかったロキであったが、それも『時代』が成せる技、かもしれない。なにせ、ゆぅと垣ノ内氏のやりとりは何十年も前の出来事なのだから、横文字もまだまだ珍しい時代だ。
「光太郎さんの勘の良さって、先祖伝来のものなんですね」
「まさしく、恐るべし垣ノ内家の血、ってところで。まぁ、それで隔世遺伝の光ちゃんが名前の由来を告げれば、解決以外ないデショ」
 それはそれで少し寂しい気もするが、まゆらの為にもゆぅ自身の為にもこの状態ははやく解消しなければならないのは後回しに出来ない事柄なのだ。ひとつの肉体にふたつの精神――魂が宿るなど尋常ではないのだから。
 ロキは薫り高い紅茶を手に、今頃光太郎から名前の由来を告げられ元の状態に戻っているだろうゆぅへと心の中でサヨナラを告げた。
 きっともうすぐ、どうして着物を着て燕雀探偵社の書斎にいるのか不思議がるまゆらがここへと来るだろう……
 そう、誰もが予想していたのに。
「小さな神様、本ってこれなの?」
 小さな革張りの本を手に、なんのかわりもない顔でゆぅがリビングへと顔を出し……
「……なんで?!」
 ロキは小さく叫ぶしかなかった。
「あらあらあら」
 闇野も予想外の展開に、なにを言うこともできない。彼の足元では、フェンリルが笑いをこらえきれずにぶふっと噴き出していた。
「おー、探偵。折角協力してやったのに、大堂寺、変なままだな」
 どうして驚かれているのかわからずにきょとんとした顔のゆぅの後ろから、ひょいと光太郎が顔を出す。祖父を真似る為に幾分か古臭く整えた髪と、顔にかけた眼鏡のオプションがあるだけで、なかなかに生真面目そうに見えるのだから不思議だ。
「そうですっ。あの学生さんのそっくりさんからゆぅの名前の由来教えてもらったのに、ゆぅってば元に戻らないのっ」
 くすんくすん、と鼻を鳴らすゆぅよりも先にこちらの方が頭を抱えたいよと言いたいロキは、とりあえずゆぅの手をとって書斎へと向かうのであった。


「ゆぅ、このまま戻れないんでしょうか……」
 書斎へと向かったロキは定位置には座らず、ゆぅとソファに隣りあって座っていた。まゆらとなら隣りあって座るなど滅多にないので、妙に落ち着かない。隣の少女が、ぽろぽろと涙を流しているので、なおさらに。
 いつだったか、子供が泣くのは苦手だが、まゆらが泣くのは嫌いじゃないと思ったことがある。けれども、今目の前でその『まゆら』が泣いているけれど、ロキが感じているのは壮絶なまでの苦手意識だ。
 どうやら、泣いているまゆらの顔ならなんでも良いわけではないらしい、とそんな場合ではないのに考えていたりした。
 春らしい薄い緑を刷いた着物を涙で染め上げる勢いで泣き濡れるゆぅを隣に感じていると、苦手意識が進行してイライラまで生まれそうなのはどうしてなのだろう?
 ロキはわしっとゆぅの頭に手をやって、くしゃくしゃといささか乱暴に頭を撫でた。ゆぅはその唐突な行動に、涙も忘れたのか、目をきょとんとさせてロキを見上げる。
「あぁもうっ。ボクが徹夜でなにか考えるから、キミは心配しないで美味しい味噌汁が作れるように頑張んなさい」
「おみそしる……??」
「今日の味噌汁は初日よりかはマシだったからっ」
「どうしておみそしる??」
「ちなみに、ボクが好きな具は豆腐とわかめと油揚げ」
「お豆腐とわかめと油揚げ??」
 ちなみに、豆腐とわかめと油揚げは、日本人が好む『味噌汁の具』不動の上位三位である。
 話の展開についていけずにあんぐりと口を開けていたゆぅであったが、なにかツボにはまったのか、今度は涙のかわりにくすくすと笑いはじめた。
「ちいさなかみさま……っなぐさめるの、ヘタですっ」
 泣いた子がもう笑ったとはこのことなのだろう。一瞬後には、もう泣いていたことすらも忘れ果てたかのような小さな子供がそこにいた。
「はい、ゆぅは明日の朝に、徹夜した悪い神様に美味しいお味噌汁を出せるよう頑張ればいいのね?」
「そうっ。一応、花嫁修行なんだし」
「でも、ゆぅがお嫁さんになりたかったヒト、もう死んじゃってるって光太郎さんが言ってたの……ゆぅはそんなの、ちっとも考えてなくって……」
 ほんの数瞬前まで大笑いしていたかと思えば、今度はしょぼんっと肩を落とすゆぅに、なにも言えないロキであった。
 確かに、彼女をここに連れてきた初日ゆぅが
『お嫁さんになるのあこがれ』
 と口にしたので
『じゃぁ花嫁修業のつもりで』
 提案したのはおのれであったが、その対象がまさか『光太郎の祖父』であるとは今の今まで知らなかったのだ。
 人の命のはやさと、櫻の姫のそれが同じのわけがない。命の長さが異なる他の種族とは、それぞれの生活の中でそれぞれの時間はクロスするだけでけして重なって流れはしないのだと彼女に教えなかったおのれが悪い。
 ――自覚しているからノーダメージとは言えないけれど、とロキは心の中でだけこっそりとため息をつき、もう一度わしゃわしゃとゆぅの頭を撫でた。綺麗に梳き流されていた亜麻色の髪はすっかりくしゃくしゃだ。
「でも、ゆぅは小さな神様も大好きだよ? ゆぅ、小さな神様のお嫁さんにしてもらおうかなぁ」
 しょぼんとしていたかと思えば今度は無邪気なにこにこ顔で酷な言葉を口にする彼女に、ロキは深々とため息をついてみせた。
 本当に、恋愛感情を一片も含まない言葉を贈られたのはこれで何度目だろう。そんなものは別に珍しくもないけれど、この顔での言葉は結構酷だ。彼女の顔は、どれだけ身構えていても、不意打ちを喰らえば錯覚してしまいそうなタイプなのだから。
「ため息つくと幸せがひとつ逃げるんだよー」
 ゆぅはロキの苦悩など慮るはずもなく、にこにこと邪気のない笑顔をふりまく。

   * * *

 だが、無邪気な約束は、果たされる時を待たずに永遠に霧散することになる。

「最近寝不足ばっか……」
 徹夜で考えておきながらうまい手ひとつ考えつかず、ぶつぶつとぼやきながら一階へとおりてきたロキが対面したのは、
「ロキ君……なんでわたしここにいるの??」
 どうして朝もはやい時間から着物を身にまとって燕雀探偵社のリビングにいるのか不思議がっているまゆらであったのだ。

 時間は少しばかりさかのぼる。

「これ、確か、でんわってものだったですね。遠くのひととお話しする道具だって、小さな神様言ってたです」
 櫻の精霊であるので朝がはやいゆぅが誰もいないリビングで見つけたのは、チェストの裏から伸びた電話線。片方はもちろん壁に設置された電話口であるモジュラージャックにはまったままで、もう片方は黒電話からロキが引っこ抜いたものであった。うにょっとうねったまま放ったらかしにされた黒い電話線は妙に不自然な物体だ。なにもかもがきちんと整頓された室内であるだけに、その乱れは悪目立ちしていた。
「ダメねぇ、お片づけです」
 ゆぅは時間をかけて考え考えし、黒電話の裏側にあるモジュラージャックとコードがぴたりと一致したことにわーいと無邪気に喜んでいたが。
 ジリリン ジリリン!
 急に鳴きはじめた黒い物体にびくりと身体をかたまらせてしまった。そして、恐る恐る指先で黒い物体をつついてみるが、ジリリンとけたたましく鳴くだけで黙りそうにない。
 なにが理由でこんなにも大きな声で必死に鳴くのかわからないゆぅは、みるみる半泣きになってしまう。どこか痛いのだろうか、それともお腹がすいたのだろうか。すっかりと、黒電話が『道具』であって『生き物ではない』との認識がどこかにすっ飛んでしまっている、人間の常識が通用しない櫻の姫であった。
「もしもしってお話したら鳴きやむのかな……」
 この数日間、ゆぅの『なんで?』『どうして?』の疑問に根気よく答えをくれた玲也はまだゲストルームにいるので、ここは自分で答えをみつけなければならないだろう。
 ゆぅは意を決して、何度か闇野が電話線を繋ぎ直して電話を使用していた様子を思い出し、受話器を手に取った。
 そしてそのまま、耳元へ……
「…………もしもし?」
 恐る恐る言葉を向ければ、
『やっと出やがったなこの〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜探偵が!』
 人間の可聴域を軽く超えた奇声によりはっきりと聞き取れない理解不能の罵声が耳元を通過した後、
『っておい、まゆらか??』
 疑わしげにひそめられた声で名前を呼ばれ。
「……パパ?」
 眠りっぱなしのまゆらの精神は目覚め、正しい状態へと戻ったのであった。

   * * *

「なんだか最近、気がついたらロキ君の家にいることが多いんだよね。しかも、何日か記憶が行方不明になってるし。う〜ん、これってミステリィ? わたしってばミステリィィ??」
 翌日、心底不思議そうなまゆらと、玲也と闇野、そしてフェンリル、その上光太郎までが揃ってどこにいるかと言えば、それはゆぅの櫻があるあの丘であった。もちろんロキもその場にいないはずがない。
「パパはお仕事忙しかったって、妙な顔してるし……」
「でも、別段困ったことにはならなかったんでしょ?」
「んー、そうなんだけどぉ。なんかしっくりこないのよねー」
 まゆらはまだ首を捻っているが、どうやらロキの小細工はきちんと彼女を『父親の怒り』から守ってくれたようだ。
 春の風にはらはらと花びらを散らすゆぅの櫻は、また一段と美しかった。もう少しすれば、渋めの茶色をした葉がその身を飾るのだろう。
 彼女から少し離れた場所に植えられたエドヒガンの若木が、今日その場に一同が揃っている理由である。
「これでゆぅさんも寂しくないですね」
 玲也の言葉の意味がわからないのはまゆらだけで、
「ずるーい、意味わかんないよーっ」
 彼女は意味がわからずにじたじたとするばかりである。
 この場で一番『物事を見る』のが鮮明なロキの目には、まだまだ細く頼りないエドヒガンの若木のまわりをくるくると踊りながら笑顔を振りまいている、手の平に乗るほどに小さな小さな精霊の姿が見えていた。バレエのチュチュに似たふわふわしたドレス姿の女の子だ。
 彼女の踊りにあわせるかのようににこにこと無邪気に笑っているゆぅが、枝の上に腰かけているのも見えた。どことなく『おねぇさん』の雰囲気が彼女には備わっているように思えた。
 ふたりとも、ぽかぽかとした陽射しを全身に浴びて楽しそう。春はこれからだと、彼女たちを見ているこちらも自然とウキウキしてくる。
「ねぇ、ゆぅさんって誰? もしかしてここの地縛霊??」
「まゆらが寝こけてるからわからないだけ」
「ナイショですよぉ」
「そうですねぇ、秘密ですねぇ」
「ヴァウワッ」
「俺、今回ほとんど関係ないしー」
「もーミンナ、ずるーい!」
 まゆらはぷぅっと膨れるが、どう説明すれば良いのだろう? 数日間、その身体に櫻の姫が宿っていて、本人はずっと眠りっぱなしだったなんて。きっと彼女のこと、不思議体験ができなくて地団駄を踏んでうらやましがるに違いない。一番の『実地体験者』であるのに、これ以上どうしろと? ここは一致団結して、知らぬフリ存ぜぬフリが彼女の為。
「さぁ、それでは帰りましょうか。美味しい櫻餅をご近所さんに頂きましたから、帰ってお茶にしましょう」
「櫻餅、大好きですぅ」
「探偵、これで借りはチャラだからな」
「元はと言えば光ちゃんのお祖父さんが悪いんじゃないのぉ? 開発するなって、木の一本くらい植えてもいいだろうに」
「ねぇねぇ、なんでこの櫻と光太郎君のお祖父さんが関係あるの?!」
 じたじたと暴れるまゆらを置いて、彼女に振り回された一同は帰り道へと向かっている。恐ろしく薄情だ。
 まゆらはぷっくりと頬を膨らませてすねた。
「もーう、いいもんっ。もっと楽しいこと、見つけるんだからーっ。それで、それを絶対ミンナには教えないんだからぁっ」
『いや、どうせキミの『楽しいこと』ってまゆつばもののオカルト情報じゃない。食中毒の怪につきあわされるのはまっぴら!』
 それがロキの口にしなかった心底からの感想だが、ロキがそんなことを考えているとは知らないまゆらは、
「ふーんだ、後でくやしがっても知らないんだからね!」
 ……勝手に勝ち誇っている。
 そんな彼女の姿をふたり並んでくすくすと笑いながら見送っていた櫻の姫が、まゆらへと大きく手を振った。
『ありがとうね、まゆら。楽しかったよ!』
「……空耳かな?」
 耳元にゆぅの言葉がかすめて、まゆらはふと足をとめ、首をかしげるが――
「なにぼんやりしてるのさ、置いてくよ!」
「待ってよぉ、ロキくーんっ」
 置いていかれそうになり、春の丘を駆けるのであった。



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偽っこ大家族ライフでした。