Pteron 

− 2 −






 街の高台にひっそりと建つ、古びた洋館。
 夕方でもないのにカラスが寄り付くその館の門扉脇には、家人の苗字のかわりに風変わりな表札が出ていた。
『燕雀探偵社』
 高い塀の向こうから頭を突き出した緑の深さもあいまって、普通の感性を持った人間ならまず冷やかしでもしてみようかとの気にはならない、陰鬱とも言える洋館だ。
 だが、その建物に躊躇わずに入っていける人種も、確かに存在するのだ。
 今、勝手知ったるなんとやらの風情で鉄門を開け、中へと踏み込んだ垣ノ内光太郎もそのひとりであった。

   ***

「急性心筋梗塞?」
 ロキは、光太郎から告げられた言葉を、鸚鵡返しにした。手には薫り高い紅茶があったが、その薫りも半減しそうな単語であった。開け放した窓から吹き込むさわやかな風、優雅に揺れる真っ白いカーテンの眩しささえ半減しそうだ。
「そ。あのおっさん、本気であの絵の売買契約を次の日にはかわしちまって、さぁはやく渡せ渡せと煩かったんだってさ。展示会は昨日で終わってなんとか三日後には準備して引き渡しって手はずになってたんだけど、その引き渡し相手がこれじゃぁもうなんともならんってわけでな」
「ふ〜ん、でも家族だっているでしょ?」
 心筋梗塞も糖尿病も高血圧もお友達っぽい人だったしねぇと考えつつの、思った通り薫り半減にしか感じられない紅茶をすすっての気のないロキの言葉に、光太郎は
「これがまぁなんて言うか、『こんな縁起の悪い絵はいりませんっ』って言われちまったらしくて。クーリングオフの期間内でもあるしな」
「……ふ〜〜〜ん。でも、あのおじいさんが死んだのは、絵のせいじゃぁないんじゃない?」
「それがどっこい、あの絵はいわくつきだったんだ。今までに持ち主が十三人も財をなくす不幸にあってる。それをあのサカイサンがぺろっと喋っちまったらしくって。さすがに、家にも飾っていない状態で、しかも死人なんてのははじめてらしいけど」
「…………よくそんな絵、取り扱おうと思ったね?」
「オヤジ、そー言うナガレモノとかいわくつきとか骨董市なんかで掘り返してくるの好きだからなぁ。同じくらい、海のものとも山のものともつかない新人画家発掘してきてパトロンになるのも好きだけど」
 光太郎は、わざとらしくふかぶかとため息をついた。色々と手広く店を構えている光太郎の父親は、その行動から性格の癖の強さが垣間見えようものだ。
「息子もなかなか大変そうだねぇ」
 慰めにもならない言葉を贈るしかない。
「光太郎さん、貧乏神や死神が取り付いている絵をロキ様に売りつけようとなさったんですか? ロキ様が破産したり事故にあったり病気になったらどーされるつもりだったんですかッ??」
 部屋の隅で大人しく給仕役に徹していた闇野が、おどろおどろしい雰囲気を背中に背負いだした。こちらは『ロキ様命』を地でいく男である。
「だって、探偵なら大丈夫だろ? 貧乏神も死神もけつまくって逃げちまうだろうさ」
 まぁそうだねぇ、貧乏神にも死神にも負ける気はしないなぁ、なにせこちらは悪戯と欺瞞の神サマだし。
 内心で納得してしまうロキではあったが、反面では『やっぱり、恐るべし垣ノ内の血』――迂闊なことは光太郎の前では言えないなぁと再確認するのであった。
「で? 光ちゃん、そんな世間話をしにきたわけじゃないでしょ?」
「聡いねぇ探偵。勘の良いヤツと話をするのは大好きだな。今日は、オヤジがさすがに気になりだしたみたいで、探偵に調査を依頼したいって言い付かってきたんだ」
「ふ〜ん、光ちゃんの『はじめてのお使い』編なんだ」
 混ぜっ返すが、その言葉とは裏腹に、ロキは席を立ち上着に腕を通しだす。
「今、彼女はどこにいるって? 画廊? それともそのおじいさんの家?」
「今は画廊の方に……」
「こんにちはっロキ君っ! ステキミステリィィィィィな依頼、来てるでしょっ??」
 うわ、ミステリーを嗅ぎつけて来た、とロキがげんなりとする登場の仕方をしたのは、おしかけ探偵助手の大堂寺まゆらだ。今日も無駄に元気なようで、きらきらと『ミステリー』への情熱が振り撒かれていた。部屋の温度さえ一度ほど上昇したようだ。どこから取り出したのか、例のぐるぐる眼鏡もかけていて、それだけで更にもう一度室温が上がった錯覚さえする。
「相変わらずだなぁあんた。コレさえなきゃぁと思わないか、探偵?」
「うんうんそう思……」
 と誘導尋問されかけて、ロキはハタと気づく。コレさえなきゃなんだと言うのだ、コレさえなきゃ。
 あわあわとロキは身支度を整える。これ以上光太郎の目の前で変な反応はできない。いつまでからかわれるかわかったものではないからだ。実際今も、『カワイイカワイイ』なんぞと言われている始末だ。
「……ま、やる気に満ちた助手も揃ったところで、ソティス嬢と再会しに行きますか」
「え? なになに? ソティスって誰??」
 まゆらだけが話が見えず、きょとんとするのであった。

   ***

「うわぁ、綺麗な絵ねぇ」
 経営者が閉店と考えているからか、いつもは繁盛している垣ノ内系列の店とは思えない貧相な外装と内装に見えてしまうその画廊は、洒落た店が立ち並ぶ通りにひっそりとあった。
 道側が全面ブラウンがかったガラス張り、床は白黒のツートンカラー。照明は、絵を邪魔しない落ち着いた色。
 展示会よりももっと厳選された絵画達が、間を大きく取って壁にかけられていた。
『ソティスの翼』は壁にかけられておらず、奥の応接室の机上で、淡い青色の絹布に包まれて横たわっていた。まるで、青い川の流れに沈んで眠っているようであった。
 道々、『ソティスの翼』にまつわる話を聞いたはずのまゆらの目にも、その絵は『綺麗』の印象しかなかった。
 乙女の足元を滔々と流れる悠久なるナイル川。川辺に咲く白い蓮の花、その鮮やかな緑。
 見ている者へと広げられた両腕は慈愛すら感じさせ、見えざる白い翼に包み込まれている錯覚さえ感じさせる。
 画家がまだ若かったのだろうか、絵に向ける気持ちに技術が追いついていない印象があったが、それはそれで良い味にもなっていた。
 間近で見ても、『貧乏神』や『死神』のいわくがあるようには思えない。
「ねぇロキ君、モノが持ち主に悪いことするなんて、有りなの?」
「そんないわくつきの品は世界中にあるよ。有名なのは、ペルシャ語で『光の山』をあらわす『コー・イ・ヌール』と名づけられた、イギリス王室のダイヤモンド」
 コー・イ・ヌールとは元々は六百とも八百カラットもあったと言われる巨大なダイヤであるが、持ち主が男であった場合、持ち主は不運に見舞われた。一八五〇年にイギリスのヴィクトリア女王に献上されてから不運はぴたりと止まる。一九一一年、メアリー女王の王冠に飾られ、現在はロンドン塔にて展示されている伝説級の一品である。
「他にも、スミソニアン博物館に収められてる『ホープダイヤ』なんかも同類だね。実際に『モノ』が直接悪さをしなくても、事象が引っ張られるなんて有りだろうさ。それが、綺麗で、価値のある『モノ』なら、周囲の人間を惑わせているのが『モノ』なのか本人の『欲望』なのかなんてちっとも問題じゃないし。……結局、天災以外は人間が一番恐ろしいことをする」
「なんだか……ロキ君のお話聞いていると、へぇぇぇって感想しか出てこないよ」
「……これくらい一般常識デショ」
「んーん。イロイロなこと知ってるなってのもそうなんだけど、子供なのに物凄く世の中斜めに見てて、人間嫌いなんだなぁって」
「別に、ニンゲンは嫌いじゃないよ。イロイロまゆらみたいのもいて退屈しないし?」
「あと、言葉に容赦がないなぁって」
「なに? 皮肉も過ぎてカタルシスでも感じる?」
「……皮肉な厭世主義もここまでくれば天晴れだなぁって」
 ふ〜〜ん、イジメて欲しいわけ?
 まゆらのとんでもない言葉への感想にそんなことを考えたりもするけれど、それを口にするかわりに口の端で笑みを刻む。言葉よりも実地の方が面白い反応があるだろうから。そんな表情はまさしく『邪神』の呼び名に相応しかった。
「それにしてもこの画廊、ほんとーにヒトケがないねぇ」
 ロキはおのれが今、まゆらにとってどれだけ物騒なことを考えていたのかも気にもとめずに、のん気なものである。
 高額商品を扱う画廊であるだけに軽い冷やかしに向かないのは燕雀探偵社と同じであるが、その店は街中の小さな画廊であるので手軽なリトグラフの扱いなどもある。
 一山幾らよろしく白いワゴンに片っ端から入れられ店舗の奥に置かれているところなど、寂れた印象をかもし出しながらも元は品の良い内装であったはずのその画廊からも浮きに浮きまくっていた。きっと、キツネ顔の責任者の趣味なのだろう。
 もう少々マシな展示方法はなかったのか、スーパーの『商品入れ替えにつき大特価ワゴン』ではないのだからと思わずにいられないロキであった。
 なんとも、手広く経営をしてそれのほとんどが有名になっている垣ノ内系列の店だとはとことん思えない。
 きっと、雇われ店長の人選を間違った為の半端店なのだろうと勝手に結論付ける。あのキツネ男は展示会の責任者だけではなく店長でもあったのだと知って、益々その推理が裏付けられた心地であった。もしかしたら店長が代替わりしてからの凋落の一途かもしれない。そう考えると、閉店を考えている垣ノ内氏の判断はすこぶる正しい。
 奥の部屋から表の店舗を覗きやっても、冷やかし客のひとりもガラス窓の向こうに立ち止まりやしない……と、考えていると、ガラスの向こう側に老人がひとり立っているのに気がついた。だが、視線があうとその老人は逃げるようにして立ち去ってしまった。安っぽい薄茶色のジャンバーの背中が道の反対側へと不器用な足取りで渡り、杖を繰り出しながら遠ざかっていく。
「もしかしてお客さん逃がした……??」
 もしかしたら、孫に小さな絵やリトグラフを贈るつもりであったかもしれない。家に飾る絵を探しに来たのかもしれない。一瞬見た安っぽくくたびれた服装にはなんとも似つかわしくないけれど、『もしかしたら』との例外は常にあるものだ。
 店に入ろうかどうしようかと逡巡しているとはっきりとわかるその老人を逃がしてしまったのでほんの少しだけ罪悪感が心を掠めたロキであったが……
『……あの貧相キツネを喜ばせないでいられるのならまぁいいか』
 なんて意見にあっさりと落ち着いてしまう。光太郎が嫌いなタイプは、ロキが嫌いなタイプでもあった。
「ロキ君、それでこの絵、どうするの?」
「うーん、普通の絵にしか見えない、しなぁ」
 魔も邪気もくっついているようには見えないその絵を前に、少しばかり困る。玲也の夢も加味すると、ただの絵ではないはずなのだけれど……
「じゃあさ、ロキ君のお家に飾ったらどう? そうしたら、毎日この絵がなにかしないか観察できるじゃない?」
「あのねぇまゆら、ボクが破産したり事故にあったり病気になってもいいってワケ?」
「だってロキ君だったら、貧乏神も死神も逃げていきそうじゃない?」
 なんかこのやりとり、違う組み合わせでやってるのを見た気がする……とロキがげんなりする。
 そこに、席を外していた光太郎が戻ってきた。
「おー、探偵、できたらそうして欲しいってオヤジからの言伝なんだけど、これ持って帰ってしばらく観察してくれよ」
「だからミナサン、ボクが破産したり事故にあったり病気したりしてもいいわけネ。朝顔の観察日記じゃないんだから」
 大丈夫だよー、ロキ君なら。
 大丈夫だろ、お前なら。
 まゆらと光太郎の言葉が無責任にはもった。
「……ま、イイケドネ」
 ――貧乏神にも死神にも負ける気しないし。くどいようだけど、ボク神サマだし?
 そんなロキの様子などお構いなしに、光太郎は
「サカイサーン、コレ、お持ち帰りネ」
 なんて感情の篭らない声でキツネ男をあごで使っている。
 キツネもとい酒井氏は、リストラされる前に辞めてやる、との決意を内心だけに隠してはおけない表情で光太郎の指示にへこへこと従うのであった。

   ***

 貧乏神にも死神にも負ける気はまったくない。なにせ、ボクは悪戯と欺瞞の神サマなのだから。
 そんな自負を持っているロキではあったが、寝起きはすこぶる悪い癖にその日ばかりは真っ青な顔で素っ頓狂な叫び声をあげていた。なんとも爽やかな朝の光には似つかわしくない叫びを。
「うわぁぁぁぁッ! 泥棒に入られたぁッ!!」
 翌朝――玄関を入ってすぐにある階段上の踊り場の壁にかけたはずの『ソティスの翼』が――なくなっていたのであった。





第3話のキーワードは『落ち込み』『追跡』『日本の風景』