Diamant 

【 3 】






『恋が叶う香水――なんて噂立っちゃって、配った本人が失恋以前なんて、意味ないじゃないって感じ』


 名前も知らない彼女の台詞を覚えていながらも、道が埋まるかと思えるほどのラブラブバカップルはこの先も発生し続けるのだろうとうんざりとしていたロキは、その翌日の午後に噂が急転換したのを知る。
 香水とは、湿度・温度が高いとより良く香る。体温の高い手首などにつけるのはその為だ。
 乾燥した冬と言っても
「ロキ様が風邪などひかれては大変!」
 主の体調管理に闘志を燃やしている主夫の手によって、主要部屋に加湿器が完備されている燕雀探偵社の中においては、ほんの少しの香水も馥郁と香る。
 そんな場所であるので余計に、三日ぶりに顔を出したまゆらに向けてロキは首をかしげることになった。
「まゆら、香水やめたの? お気に入りだったのに」
「ロキ君って、ホントにすぐわかるんだから怖いなぁ」
 こんにちはの挨拶もそこそこに指摘を受けるのだから、お洒落気分で香りを纏いたい年頃にとっては、嬉しいような怖いような。
 香水の醍醐味は『そこはかとなく香る』――そこがポイントであるのに、相手が犬並みではこちらの技量が問われようものだ。『香水』も香りが過ぎればただの『臭害』なのだから。
「うん、やめたの。だって、なんか縁起悪いし……」
「縁起悪い?」
 街で偶然貰った試供品が『恋』や『願い』が叶う香水だと噂になってからと言うもの、まゆらもそれなりにいろいろ気になるのか、ラッキーだと大喜びしていたのに。それが『縁起が悪い』に変わるのは唐突過ぎる。
「そりゃぁはじめのうちはね、あの人から貰った香水をつけてた子ってば、彼氏ができたり願いが叶ったりって凄かったけど、なんだか昨日からひっくり返ったみたいで」
「ひっくり返った?」
「うん、だからね。急に彼氏に振られたり、叶ったと思ったことが駄目になったり、みんなすっごい落ち込んでるの。だから縁起悪いなぁって」
「へ〜え」
 ロキは定位置に腰かけながら腕組みをして感心する。女子高生の変わり身はなんとも素早い。昨日好きだったものが今日は嫌いなのだから、感心もする。
 まゆらに続いて遊びに来た玲也も、同じ状況だった。
 こちらは『学校で禁止されたですぅ』との理由も多分にあったが、まゆらと違って残念そうな素振りであったのが違いであった。
「せっかくロキ様が似合うって言ってくださったのに、もうつけちゃ駄目って言われたです」
「でもねぇレイヤちゃん、あの人がくれた香水をつけてた子たち、あんまり良い話聞かないよ」
 まゆらが、珍しくお姉さんの顔で玲也を諭す。
「わたしの友達の友達の友達なんて、せっかく新しい原付バイク買ってもらえたのに、乗って三日目にぬかるみで滑って骨折、バイクもぼっこぼこだって。あの香水、呪いの香水になっちゃったのかもね」
「レイヤ、怪我も怖いのも嫌いです〜。もうあの香水は捨てるですぅ」
 玲也は今にも泣きそうな顔でぶるぶると震えた。その様子は、寒さに震える白ウサギにそっくりであった。
「ねぇまゆら、その話って本当?」
「うん、友達の友達から聞いた」
 まゆつばもの。
 だがロキは、その言葉を引っ込めた。そんなにも縁起の悪いと言われているものを玲也がつけ続けるのもいい気はしないからだ。
 変わり身の早い女子高生代表であるまゆらは次の話題を持ち出し、それにいつものようにロキがつっこむ。
 ひとり玲也だけが浮かない顔をするのであった。


「は〜。なにはともあれ、助かったぁ」
 まゆらと玲也が帰った応接室のソファで大きく伸びをしたのはフェンリルだ。その上に漂いながら、えっちゃんまでもがうんうんと大きく頷いて賛同している。
 ロキは、息子と式神の様子に疑問符を飛ばすしかない。それほどまでにふたりとも、ほっとした様子であったからだ。
「助かったって、そんなに変な匂いでもなかったけどな」
「ダディ、匂いはどうでもいいんだけど……なぁんか、鼻の奥がむずむずして辛かったの」
「辛かった?」
 えっちゃんも? と問いを向ければ、賛同の仕草よりもさらに激しく頭を縦に振り、振り過ぎてへろへろとなっていたくらいだ。
 思い返せば、あの香水をつけたまゆらと玲也が来るたびに、彼らがくしゃみをこらえていた様子を思い出す。
 えっちゃんは壁を通り過ぎて別の部屋にさっさと退散していたし、フェンリルも我慢の限界を突き抜けると一目散に部屋から脱出していたような。
「鼻の奥がむずむず、ねぇ?」
 ロキは首をかしげる。
「ダディの鼻も犬並みって言っても、やっぱりちょっと違うんだね」
 それって褒められてるのだろうかと、苦笑するロキであった。

   * * *

「う〜ん、なんか寝たりない気分……」
 香水騒動が一応の収束を迎えたらしい翌日の朝は、良く晴れた青空が広がっていた。ここしばらくは雪降りの谷間にしか青空を見ていなかったので、三日も晴天が続くのはある意味珍しかった。
 けれども、燕雀探偵社のロキはいつもの椅子に腰掛けていながらも、頭に片手をやってぼ〜とした視線を宙に漂わせていた。あまり晴れやかな表情ではなさそうだ。
「どうされました、ロキ様? 夜更かしでもなさったんですか?」
 眠気覚ましに濃い目の珈琲を提供しながらの闇野の言葉に、ロキはぼんやりとした視線をこてんっと流す。
「なんか、頭の奥の奥の奥の神経一本だけが起きてない感じ」
 なんともわかりづらい返答だが、これ以上ないほどに共感できる表現でもあった。
「もう少しお休みになりますか? まだ十時過ぎですし」
「いや、起きてるよ。それに、なにか嫌な予感もするし……」
 ぼ〜とした視線を、今度は背後の窓へと投げる。
 そう、嫌な……否、変な予感は、いつもここからやってくるものだ。大概予感とは、この窓の下にある玄関から『ヒト』の姿をして具現する……。
 そう考えていると、ふたりの耳にへにょへにょした声が入ってきた。それは、まさしく、ひしひしとなにかの予感を与え続ける玄関から聞こえてきた。
「ふにゃ〜、ろきく〜ん、やみのさぁぁぁぁん」
 ふにゃふにゃんとした声は、まゆらのものだ。断じてえっちゃんではない。
「どうしたのまゆら、やけに眠そうな声」
 階段をふらふらしながらのぼってきたらしいまゆらが書斎にあらわれるまで、たっぷりと三分もかかった。いくら無駄に大きな屋敷であってもそこまで広くない。なにせ、この書斎兼応接室は、玄関の真上にあるのだから。あんまりにもまゆらの登場が遅いので、最後には心配になった闇野がお迎えにあがったくらいであった。
「う〜ん、眠いよぉ。うちまでもちそうにないから寝かせてぇぇぇ」
 ソファにこてんっとひっくり返ったまゆらは、眠気がピークなのか、ふにゃふにゃとした軟体動物になっていた。
「ってまゆら、今日は学校じゃぁ」
「きょーはりんじきゅうこうになったの〜。だってぇ、ほとんどのヒトがおやすみなのぉ」
「臨時休校って、インフルエンザ?」
「うぅん、なんかカゼって言ってるヒトも多いみたいだけどぉ、たんてーまゆたんが調べたところによるとぉ……――――」
「ちょっと寝ないでよ、まゆら」
 ふにゃふにゃ具合を見かねた闇野が毛布をかけてやったからか、毛布にくるまって幸せそうにうふふぅと笑ったまままゆらは眠ってしまいそうで、ロキはある意味虚脱の極地だ。
「あのねぇ、そこまで情報出しながら寝ないでくれる? 気になるから。こっちだって眠いのに」
「うにゃぁろきくんも眠いのぉ。いっしょにねるー?」
「そりゃぁ寝られるものならお願いしたいけどねっ」
 あまりに頭の奥の神経が一本眠いからか、ついついぽろりと本音が。
「じゃなくて、なんで臨時休校?」
「うん、だからねー。みんな、起きないんだってぇ。そうそう、まゆたんは気がついちゃったんだけどー、そのヒトタチ、あのこうすいもってる子とぉ、その相手だなぁって……がっこのせんせいもなんにんかおやすみでぇぇぇ……」
 まゆらの言葉は途中でふにゃりふにゃりの度合いが増し、今はもうどれだけ続きを待っても寝息以外は聞こえなかった。完全に睡眠の世界へとダイブしたらしい。ある意味、その能天気さは平和で、それ以上にうらやましかった。
「臨時休校になるくらいの欠席者? おかしくないかな、ヤミノ君」
「おかしいですけど……まゆらさんの学校の様子より、まゆらさん自身もおかしいような……」
「まゆらはいつでもおかしいけど」
 即答だった。
「いえ、そうではなくて、まゆらさん、とても良い香りがしませんか?」
「香り?」
 確かに、なんとも言えない芳香に部屋中包まれている気がする。その香りをかぐたびに、頭の中の眠気がしびれるほどに感じられた。
「まゆら、あの香水、捨てるとか言ってたけど……」
 ソファで幸せそうに眠るまゆらがひとつ息を吐き出すごとに、その香りは強くなり……ロキの眠気も徐々に強くなる。
「……ヤミノ君、眠気はある?」
 頭を振りやって眠気を散らしながら問いかければ、闇野は『いいえ』と即答した。眼鏡をかけた彼の顔はすっきりと目覚めた人特有のもので、そこに眠気のかけらも見受けられなかった。
「なんかおかしい……あの香水の騒動はまだ終わっていないのだろうか……」
 気がつけば、フェンリルもえっちゃんの姿もなくなっている。彼らのしっぽの先すら存在していなかった。
 そしてもうひとつ駄目押しとばかりに、香水の騒動が収束していない証拠がロキの元へとやって来た。
 それは、まゆらと同じように学校が臨時休校となった玲也が、ひどい眠気の為に家に辿りつけずに燕雀探偵社へと転がり込んできた姿をとっていた。彼女もまた、強い花の香りを纏っていた。
 書斎の両のソファで対の姿となって眠る少女たちの寝顔に、ロキはなにかしらを考えずにはいられない。
「ヤミノ君、ちょっと出かけてくるよ」