神様は空白の上で 







 まゆらはB型だった。血液型の話ではなく、インフルエンザである。
 燕雀探偵社でこてんと寝付いてから夕方になっても熱が下がるどころか上がり続けるまゆらを近くの病院まで運び込んだ騒ぎは、誰の記憶にも新しいもの。
 それから、三日が経とうとしている。

   * * *

「ヤミノ君、できればいつもの紅茶がいいんだけど……」
 うんざりした顔とうんざりした声でうんざりと燕雀探偵社の主夫・闇野に懇願するのは、誰あろうロキであった。
 なにせ、目の前でふわりと白い湯気をくゆらせているのは見て良し味わって良しの嗜好品代表格の茶葉でいれられた紅茶ではなく、生姜で作られた生姜湯だ。
 はじめの頃は『これも乙なもの』と面白がっていられたが、三日目ともなると透き通った琥珀色の嗜好品が恋しい。こうなったらインスタント・コーヒーでも構わない。この、独特な甘辛い飲み物と心底決別したい。一生生姜湯と縁を切る覚悟だってある。それくらいロキは目の前の液体にうんざりしていた。
「いいえダメです。生姜湯は身体をあたためるのはもちろん解毒作用もある、とってもお役立ちな飲み物なんですから!」
 闇野の論も理解はできるが、お茶請けまで生姜たっぷりのジンジャー・クッキーが準備され、それもこれもうんざりだ。部屋中が妙に生姜臭く感じられていけない。
「じゃぁせめて、ご飯の梅干し尽くしをやめようヨ。もう梅干し見るの飽きた」
 はちみつ漬けだろうが減塩梅干しだろうが一粒三千円の超貴重古漬け梅干しだろうが、あのしわしわが刻まれた丸い物体に恨みまで抱きそうだ。ありとあらゆる料理に堂々と居座っている梅肉の鮮やかな赤も渋めの赤も憎い。丸ごとだろうが潰されていようが刻まれていようが、嫌なものほど目に付くもの。
「梅干しも殺菌作用があるんですよ!」
「なら、薬草湯だけでもやめ……」
「ロキ様っ」
「なんだかまゆらを病原菌扱いだね、ヤミノ君?」
「え?! そそそそそんなつもりではないんですけど……っ」
「それに、人間の病気がボクにうつるわけないじゃない? これでもボク、カミサマなんだけど?」
「そ……それもそうですけどっ」
「うんうんわかってる、全部無意識無意識」
 ロキは、いつぞや彼女を同じように『インフルエンザウィルスより強力な感染源』扱いしたことを棚にあげて闇野をおちょくった。このあたりこの息子は無意識なのだから楽しい。
 思い返せば、まゆらが燕雀探偵社で寝付いて、インフルエンザと判明した後も闇野はひとりで祭りを催していた。
 まゆらの看病かロキを隔離するかでひとりあわあわとパニックを起こし
「どっちかひとつに定めないとどっちもできないよ、ヤミノ君」
 ロキがあきれ口調で忠告しなければ、一時間おきに大堂寺家と探偵社を往復する気満々な彼であった。
「そ……そうですね、まゆらさんのところにはパパさんもいらっしゃいますし、私がでしゃばるのもなんでしょうし……」
 まゆらさんとパパさんの食事だけお持ちすることにします、との妥協案にようやく落ち着いたありさまで。
 いつぞや、闇野がまゆらのことを『家族にも等しい』と言っていたけれど、それはもう彼にとって無意識の認識であるのだと判明して、ロキは妙に嬉しかったりしたものだ。
 時間は色々なものを変化させていく。その不思議が今は心地よかった。

   * * *

 ――それにしても、この部屋ってこんなに静かだったっけ。
 結局生姜湯から紅茶への変更を認めてくれなかった闇野が退出した書斎は、やけに広々と感じられた。
 熱でぼやんとした彼女が夕方にインフルエンザだったと判明してから自宅で寝付いて、今日で三度目の夕方だ。高熱ががんっと出るA型ではなくだらだらと熱が続くB型らしいのでそろそろ熱は落ち着き快方へ向かっているだろうが、まだまだここに顔を出せる状態ではないだろう。そうなると、毎日のように顔を出しているまゆらの定位置は三日間ぽっかりと開いたままと言うことで。なんとなく部屋が広々と見え、静かに感じられる。
 別段彼女は場所ふさぎなわけでもなく、彼女はのべつくまなく喋っているタイプでもないけれど、毎日毎日そこにあった存在がぱったりと姿をあらわさなくなると生活リズムが崩れたようで違和感がある。
 こちらから門前払いを食らわした為に覚悟を決めていたのと今回のこれはまったく違うから調子が外れっぱなしでいけない。
 毎日顔を出すとは言っても、二十四時間中二十三時間もそこにいるわけでもないのに、一旦妙だと感じてしまうとどうにもその違和感が頭から離れない。視覚に入っても入っていなくてもロキのペースを乱すまゆらの存在は、ある意味偉大かもしれない。
 ロキはふぅとため息をついて記録帳を閉じた。ちっともペンが進まないのだから、このまま白いページを見続けていてもつまらない。
 探偵業への依頼もなく、ぽっかりと空いたつまらない時間。闇野をおちょくってもまだまだ残る空白の時間。
「だいたい、まゆらも不甲斐ない。インフルエンザはだいたい二月で収束だろうに」
 とは言っても、感染病に不甲斐ないもなにもない。いきなり襲い掛かって罹患させてしまうのがインフルエンザなのだから。
「……ボクって、今までどうやって過ごしてたんだろ」
 彼女が問答無用でおのれの生活リズムに割り込んできてから何十年も経ったわけではないのに、もうその『簡単なこと』がわからなくなっている。
 それよりもなによりも、かの神の国ではこれよりももっと退屈な時間を過ごしていたはずなのに、なにをして時間を潰していたのかわからない。
「まるで――記憶がぽっかり抜け落ちたみたいだな」
 厳密に言えば『なに』をしていたかは自覚しているけれど、今それと同じことをしても面白くなさそうな気がして食指が動かないだけ。そのあたりも、時間が少しずつ変化させた不思議の結果なのだろうか。
 ロキは記録帳の表紙から窓へと視線を転じた。昨日は恐ろしいほどの雨降りだったが、今日は薄い雲が一面に広がっていて銀鼠色の世界。
 まるでおのれの心の中をあらわしているかのような曇り空を、ロキはぼんやりと眺め続けるのであった。



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実は先日から微妙に生姜湯受難だった探偵。